「観光客の哲学」はさまざまな閉塞感に対して「応用」できる(という誤解≒誤配)

自分はいわゆる“左向き”な思想ですが、10年以上前から市民運動やデモ、勉強会などに顔を出しつつ、どこかに違和感を抱いていました。一言でまとめるとそれは「排他性」と言えるかもしれませんが、それでも総論賛成という思いから、考え自体はあまり変わらず、むしろ積み上げ、肉付けしていくような年月を過ごしていました。

しかしその違和も気づかないところで同時に積み上げられていて、それは2年ぐらい前に耐えきれない重さにまで膨らんでいました。

自分の中で「一旦ご破算にしよう」と思う契機になったのは、Twitter上でネット自警団のごとき人々が、言葉の揚げ足をとって個人を犯罪者扱いしていき、しかもそれが“左向き”の人間同士で行われていたことでした。傍目では(少なくとも僕がよく限りでは)それと分からない程度の発言であっても、その言葉尻を拾って「はいアウト」などとカジュアルに人格否定していく様には「自分も何かつぶやいたらヘイト認定されるかもしれない」という恐怖と「っていうかてめぇら何様だよ」という不快感を強く覚えました。

そこに溢れる排他的な空気、「俺が正義、お前は悪」という威圧的な正義感。それまでのデモ、関電前抗議などの不毛感(関電前抗議は盛り上がる前から盛り上がりのピーク、そして盛り下がった後まで一通り現場を目にしました)の積み重ねに押しつぶされ、当時プライベートでの混乱があった僕にとっては「一旦忘れる」ことにしないと身がもたない状況でした。

その後、日本は安倍政権が揺るぎない勢力となり、原発は再稼動、辺野古工事は着工、イギリスはEU離脱を選択し、アメリカにはトランプ大統領が誕生するという、“左向き”な人たちがやってきたことがことごとく否定されたような流れになっていました。

左も右も排他的。左に行けば正義を振りかざして一問でも間違えればタコ殴りにする世界、右に行けば軽蔑すべき無知蒙昧な世界。「ゲンロン0 観光客の哲学」はそんな2017年から先の世界を歩んでいくことに尻込みし、迷いと不安から逃れるために「無関心」を選択してしまいそうになる僕に、先へと進む「道」を探すヒントを提示してくれたように思いました。

読後に「ずいぶん男目線な書き方に終始してたな」「訪日外国人客って歓迎されなかったり不快感抱かれたりするケースもあるよな」「否定神学的マルチチュードって言うけど、観光客/誤配って考え方からすれば、SEALDsも許容できるんじゃないの」などと思ったりもしましたが、何より思ったのは、「これって広告/デザイン/マーケティングに関わる僕らも使える考え方だ」ということでした。それどころか、他にもさまざまな業界で応用が効くんだと思うんですが、僕がこの業界で可能性を感じたのは、先の「左右」の問題と同じく、強い閉塞感に襲われていたからです。

ヒット商品の多くは、消費者の問題解決を図り、さまざまなプロモーションを行って生まれていますが、これにはいくつもの限界があります。あらゆるものがコモディティ化した中で必然性を見出しにくいこと。それに製品開発、プロモーションのコスト。

しかし今はSNSなどが“観光客”的な無責任さで“二次創作”“誤配”することで大きなヒットに繋がるケースも増えています。

例えば森永乳業が出した粉ミルク「ミルク生活」は(リンク先を見れば歴然ですが)シニア層の女性を狙って開発されました。実際7割は60代以上が購入しているようですが、20代男性なども「赤ちゃんが飲むイメージの粉ミルクなのに大人向け」というギャップを面白がったSNSの投稿などにより、広い年齢層でヒットしたそうです。

こんな事例もあります。

P&Gの「くさや炎上」に学ぶ、デジタル時代の戦略PR:「危」承転結という発想

はじめはよくあるネット炎上案件で、CM放映中止という結果で終わると思いきや、くさやを作っている八丈島水産加工業協同組合から正式にPRを持ちかけられるという発展を見せる。これも“誤配”が生み出した新たな可能性と言えるでしょうし、このPRコンテンツがまた“観光客”的です。

こちらも“観光客”的であり、“二次創作”が反転して主役になる(YouTuber的とも言えるかもしれませんが)現象ではないでしょうか。

素人の写真がプロの20倍以上の値段で売れる理由

写真に関しては、こんな話もあります。

メルカリって「写真が下手」なのが良くって。洋服の場合「素人っぽい写真」の方が良いんですよ、だって、ウソつけないから。笑

楽天の写真とかって「綺麗でプロっぽい」じゃないですか。だから、実際に届いたときに「わわ、思ってた色と全然ちがう!」ってこともある。

もちろん「汚い写真」じゃイヤですけど、変に盛ったり加工したりしないで欲しい、って意味です。

思えば、僕がやっていたピュアオーディオ視聴会も、“観光客”“誤配”を、そして“二次創作”を求め続け(しかしどれも叶わなかっ)た企画でした。何故どれも叶わなかったのか(オーディオに興味のない若い音楽ファンに高級オーディオの魅力を発信するという“誤配”と“観光客”の視点でオーディオに触れてもらうという意味では成功しているという部分もあったかも知れませんが、結果としては世の中に波紋を起こすまでには至らず、僕が手を上げなければ持続しなかったという意味でも失敗と言わざるを得ません)。それは、「それこそが肝である」という考えのもとにイベントを運営してこなかったからかも知れません。明確な目的を持たずにフラッと訪れ、その人なりの勝手な解釈によって、ちょっと違う受け取られ方をする。このことを目標に徹底的に考えれば、僕らの想定を超え、大きな現象を生み出せていた可能性が、あの中に潜んでいたような気がします。

問題は、「ゲンロン0 観光客の哲学」における“観光客”“誤配”“二次創作”と広告/デザイン/マーケティングにおける“観光客”“誤配”“二次創作”では、主従が逆転しているということです。「ゲンロン0」では自らが観光客として行動することを訴えていますが、こちらはその観光客を招き入れなければなりません。しかし、本書内でも取り上げられており、東氏も実践の一つとして例に挙げている「チェルノブイリへのダークツーリズム」は、主従が融合していますので、おそらくこの「主/従」も、本書で政治と文学をはじめとしていくつも例に挙げられている対立軸をつなげること、もっと自由に行き来できるようにしなければならないのでしょう。

これこそが答えであり、これで問題が解決する、とまでは言いませんが、まるで袋小路のような現状に次の手を打ちかねている中では、大きなヒントになります。この本は、思想・哲学書を読まない人が興味本位で読む中で、ある人はビジネス書としての機能、ある人は自己啓発本としての機能など、その人が持つ問題意識に“間違って答えを提示してしまう”ことに、実は本質があるのではないか、という気が(大きな誤解である確信とともに)しています。

Pocket


子供にも分かる勉強の理由って何かしら

「なぜ勉強するのか?」という、子供が小学校に入学し、子供にどうやって「勉強の大切さ」を分かってもらおうかと考えていた頃に買い、読んだ本ですが……。

「子どもの勉強に悩んでも、この本だけは手にとってはいけません!」

読んだ後にこのレビューを読んだら、「ああ、読後のモヤモヤが一気に晴れた」と爽快な気分になり、「なんでこれ読んでから買うかどうか判断しなかったんだろう」と思う反面、「読後の答え合わせというのもなかなか面白いの」とも思ってしまう、なんとも言えない印象の残る本です。

表紙画像(頬杖をついた女学生が斜め上―おそらく黒板―を見ている写真のもの。よくある、表紙全面を覆う帯のようなものだと思いますが、僕が購入した中古本には付いてませんでした)に「必要なのは、「理解力」「想像力」「表現力」」と書かれています。この言葉が本書の根幹となるもので、ジャンルに限らず、あらゆる勉強はこの三つが大事である、という論旨で、本書前半で出てきたときには「成る程」と思ったんですが、結局最後までそれ以外の大事な話は出てこないままでした。後は、自分の体験談などが擬似的な質疑応答形式でつらつらと書かれているだけで、首を傾げるか「あなた偉いんですね」と嘆息するかしかないという内容でした。

上記レビューで、

そして最後の締めくくりで鈴木は読者を盛大に笑わせてくれる。なんと「なぜ勉強しなければならないの」への模範解答は「未来をよりよいものにするため」「社会をよくするため」なんだそうだ。これで「あ、そーか、分かったア」と勉強に目覚める子ども(しかも高校生)がいたとしたら、是非一度お目にかかりたいものだ(大笑。

と書かれていますが、子供がそれで納得しないだけでなく、氏の説明を読んでいても、親であるこちらが「未来、社会をより良くするために勉強する」ことに同調できないという辛さがあります。

この本を一冊読むんだったらこのレビューだけ読んでも大差無いかな、と思わないでもないですが、両方読むと一番いいかも知れないです。レビューはコテンパンですが、上記の「理解力」「想像力」「表現力」など、当たり前のことを言ってるようで、そういう当たり前の話をちゃんとすることの大事さも伝わる内容にはなっていると思いますので。

で、「なぜ勉強するのか?」を子供にどう考えてもらうか、という結論については、何せこの本における答がお花畑な感じなので保留状態なわけですが……うーん、ぶっちゃけ、「勉強するために勉強する」ってこと以外に理由ってないのかなぁ、と思ってしまいます。様々な科目においてそれぞれに適した手段を用いて学習することで、将来何かを新たに学びたい、習得したいと思うときに、学校教育上の勉強をやっていると、勉強することに耐性があるから、勉強をやっていない人より身につけやすい、ということでしょうか。自分自身の落ちこぼれ経験、そして、年を経てから勉強の面白さを知ったのに、やり慣れてないものだからからうまく集中できなくて「ちゃんと勉強しておけば……」と後悔している、という経験からするとそんな感じなんですけど、どうでしょうかねぇ。

Pocket


最近、本屋が混んでる気がします

元々本屋は好きでしたが、ここ最近は、より頻繁に本屋へ行ってます。

なぜだか自分でもはっきりと認識しているわけではないんですが、理由の一つは、大型店が充実したことにより、興味の対象の本に遭遇する率がぐんと上がったことがあると思います。

小型・中型店は徐々に淘汰されているかも知れませんが、本はどこに売っていようが中身は同じなので、本屋は数が揃えばそれだけで強力な存在になります。

もう一つの理由は、ネットで安く買えるとしても、手に取って中身が見たい、という欲求と今すぐ欲しいという欲求がネットを超えてしまうことが増えたからだと思います。

本にもよりますが、アマゾンのレビューさえ読めば、中身を見なくてもまあいいや、とアマゾンの中古品最安値のものを買ったりしていましたが、安く買える分、意外に負担は少なくないな、と感じ始めていました。

一つは価格差を計算する手間。送料を含めると100円の差もない、ということも少なくありません。

もう一つは、受け取る手間。今問題となっている再配達については、料金上げるだの再配達を有料にするだの、配る側の負担ばかり取沙汰されている気がしますが、受け取る側の負担だって相当なものです。配達日も配達時間帯も指定できないのに、配達時に在宅していることが容易な人が、全人口の中でどれぐらいの割合なのか教えてほしいものです。再配達ですら、ピンポンダッシュかのような勢いで立ち去る配達員を逃さないために、インターホンの傍に3時間近く待機しなければならないわけですから、金で解決するなら仕組みをどうにかしないと駄目なんじゃない、と思うのですが。

それらの負担を別にしたとしても、中身を見ずに買うのは、やっぱりリスクあるな、というのも最近感じ始めました。過去に読んだことのあるシリーズものやマンガなど、大体内容の見当がつく、もしくは読めないことはまずない(そもそも本屋に行ってもシュリンクされてて読めない)ものなら別にいいんですが、内容が堅めの本や、どんな内容かちょっと捉え切れない本など、本屋に行って中を見てから判断したい、という本は少なくありません。で、本屋でいいな、と思った本をその場でアマゾンで検索したりもするんですが、最近はよほどの差がない限り(それこそ1円とか100円とかで売ってない限り)、そのまま本屋で買います。前述の負担が頭をよぎるから、というのも大きいです。

ただ、よく作り手側が口にする「本屋で取り寄せてほしい。そしたら本屋に並びやすくなるし本屋も潤うので、本屋/作家両方にメリットがある」という話にはあまり気乗りしません。こちら側に「中身が見られない」「待つ」というデメリットがあり、その見返りが殆ど無いので。

そんなことで、わりと本屋に長居することが増えてますが、去年ぐらいから、レジ前に行列ができている、という経験が増えているように感じます。昔から、時間帯などによってはそれなりに並んだりすることはありましたが、今は「サイン会でもやってるのか」と思うほどの長蛇の列で、書棚の向こうの数メートル奥まで行かないと最後尾に辿り着かない、という状況に何度も遭遇しました。

繁華街にある超大型店だけの現象かと思ったら、そうでもない書店でもかなり待たされることが多く、知人に聞いても「最近、本屋混んでるよね」という話になったぐらいなので、それなりの規模の書店は、結構混んでるんじゃないかという気がします。小型店は混んでません。

購買層も多種多彩で、老若男女問わず列に並んでいるようです。それも3、4冊まとめてドンッと買うような人を頻繁に目にします。目立つだけかも知れませんが、自分を振り返っても、やはり毎回1冊だけ買う、ということは余りありません。やはり大型店は様々なジャンルの本がどれも充実しているので、スーパーで目的の大根だけ買うつもりが店内をうろつくうちにあれこれと買ってしまうのと似たような現象が起こっているのでしょうか。

出版不況、活字離れと叫ばれて久しいですが、電子書籍やアマゾンに浮気しているうちに、気づけば大型書店がとても楽しい空間になっていたな、というのが実感です。

↓最近、娘が面白がりそうと思って本屋で衝動買いした一冊です。

Pocket