音楽を変えたオーディオと録音の歴史② 戦時下の音楽たち

ナチス/ステレオ/テープ録音

さて、その1929年にはもう一つ、後の録音史を大きく変える存在がドイツに現れます。それは、磁気テープです。

1888年、アメリカの発明家オバリン・スミスが、音声の電気信号を磁気に変換して記録する磁気録音の原理を発表し、それをデンマークのヴォルデマール・ポールセンが10年後に鋼線へ記録する録音機「テレグラフォン」として完成させました。このワイヤーレコーダーはやがて表舞台から姿を消しますが、この技術を起源として、その後テープや円盤への磁気記録が発展していったのです。

ポールセンはデンマークを初め、米、英、仏など主要国でテレグラフォンの特許を取得し、テレグラフォンの大々的な売り込みに乗り出す。1900年のパリ万博にも出品し好評を得るなど、テレグラフォンの前途は有望に思われたが、製品の完成度は十分ではなく故障が多い、期待されたほどの音質がなかなか得られないなどの課題が顕在化し、ビジネスとしては失速する。円盤型録音機の拡大と性能の向上、レコード産業の隆盛など蓄音機の勢いに押されて、磁気録音方式のワイヤレコーダーは大衆の間ではいつしか忘れられていった。
「国立科学博物館 技術の系統化調査報告 第 17集」(編集・発行:独立行政法人 国立科学博物館 2012年)

電気録音が始まった当初の音楽録音の現場は、演奏を直接マスター盤に刻み込む、いわゆる「ダイレクト・カッティング」で録音していました。この方法は、演奏が即座にマスター盤に反映されるため、やり直しも重ね録りも困難でした。切り貼りやトラック分けのできるテープ録音は、音楽に「編集」の概念と「長時間化」をもたらしますが、それはもう少し先の話。この時点ではまだ磁気テープに録音するための機器が生まれていない上に、再生メディアはシェラック盤の片面約3〜5分という時代だからです。磁気テープを音楽の録音に活かすためには、録音機器の登場とともに、重くて脆いシェラック盤に代わる新たなレコードの素材も必要でした。一方で、電気録音による高音質化に目をつけたRCAビクターは、この年に「High Fidelity Record」を発売します。後に「Hi-Fi」と呼ばれ、高音質オーディオの代名詞となるHigh Fidelityという言葉は、この時、世に現れたのです。ただし、「Fidelity」とは「忠実度」という意味で、音の良し悪しを指す言葉ではありません。この言葉は、後のオーディオファイルに「生演奏をいかに忠実に再現するか」を至上命題にさせるという呪いをかけるとともに、今日まで日本語として音の良し悪しを表現するのに適した言葉がなく、「高音質」という、わかったようでわからない言葉と平行して(甘んじて)使われ続けることで、オーディオという実態のないものに対する言語化の困難さを象徴しているとも言えます。

電気録音によって、アコースティック録音時代に周波数特性は100〜2,000Hzだったものが、50〜6,000Hzに広がりました。High Fidelity Recordでは30〜8,000Hz。しかし、このまま従来通りカッティングを行うと、低域の振幅幅が大きすぎて隣の溝に飛び込んでしまいます。それを避けるために、カッティング時に低域を下げて録音し、再生時に低域を上げて再生する方法がとられました。後のLPでは、加えて高音域を上げた状態でカッティングしますが、それらの技術が汎用的な統一規格になるには、あと25年の歳月が必要となります。

翌年、スピーカーの世界では、バスレフレックス型スピーカーキャビネット、いわゆる「バスレフ」が発表されます。アメリカの音響技術者アルバート・テュラスによって発表されたこの方式は、スピーカーをキャビネットに入れる際、キャビネットの前面に穴を開けることで、低音を増強するとともに箱の共振も防ぎ、小型化も可能にしました。現在のスピーカーキャビネットの基本構造は、この時点でひとつの答えを見い出したのです。

この3年後、人類は「ステレオ」の実現へ本格的に歩を進めます。1932年、ベル研究所がレオポルド・ストコフスキーと共にステレオ録音を行います。

20世紀初頭から指揮者として活躍していたストコフスキーは録音にも熱心で、後に多くの楽団で一般的になる「ストコフスキー・シフト」と呼ばれるオーケストラの配置は、ストコフスキーが録音の際の音のバランスも考慮して、バイオリン群を左側に固めたものです(古典的な対向配置では、第1バイオリンと第2バイオリンがそれぞれ左右前方に配置されます)。

後に4チャンネル録音にも挑戦するストコフスキーですが、この時点でも2チャンネル録音のオリジネイターとして積極的に関わりました。そして、彼のベル研究所との録音実験に目をつけたのが、「蒸気船ウィリー」以降、短編のトーキー映画を作り続けながら、より芸術性の高い長編作品の製作を目論んでいたウォルト・ディズニーでした。

1940年、ディズニーはストコフスキー自身も出演した(シルエットながら、ミッキー・マウスと握手までした)世界初のステレオ音声映画「ファンタジア」を公開します。この映画はステレオのデモンストレーションの意味もあったことでしょう、その効果を実感できるように、音が左右から切り替わりで聴こえてくるような効果や、時にはオーケストラがそのまま左右に移動するような極端な演出まで施されていました。当時も賛否両論あったそうですが、今ではこの常識破りな過剰さがストコフスキーの魅力としても捉えられています。そして、このアバンギャルドとも言える過激なステレオ効果は、後のポピュラー音楽が自家薬籠中のものとすることになります。

「ファンタジア」公開の同年、1939年より続く第二次世界大戦の中、フランスがドイツに占領されます。当時のドイツ、つまりナチスの存在は、人類史においてあまりにも深い爪痕を残しただけでなく、音楽史、オーディオ史、録音史いずれにおいても重要な役割を果たしました。

まず、1935年にテープレコーダー「マグネトフォン」が発売されます。第二次世界大戦へと進みゆく中、マグネトフォンは改良を重ね、マルチトラック録音を可能にし、1942年には初のステレオ録音を行いました。マグネトフォンはヒトラーの長大な演説を録音する他、特に軍事目的において大いに活用されました。

また、ドイツ占領下のフランスでは、楽団による演奏が禁止されていたため、当時フランスのナイトクラブでは生演奏の代用としてレコードをかけ、踊っていたそうです。これが戦後「discothèque」の名で定着。DJがレコードをかけて客を踊らせる現在の「ディスコ」の語源とされています。

ナチスは音楽界にも大きな波紋を起こしました。アウシュビッツ収容所内にいたユダヤ人のうち、音楽の素養のあるものを集め、ナチスのための楽団が組織されていたことは、同楽団員による手記「ファニア歌いなさい」に詳しいですが、レイシストであったリヒャルト・ワーグナーの音楽と思想に心酔していたアドルフ・ヒトラーのもと、さまざまな形で音楽を利用していました。当時のヨーロッパの音楽家は、ユダヤ人はもちろん(ユダヤ人だったグスタフ・マーラーはナチス政権の時代には他界していましたが、存命であった彼の妻はナチスから逃れるために亡命を繰り返し、彼の姪でありヴァイオリニストであったアルマ・ロゼは、アウシュビッツ内の楽団に所属し、そのまま獄中死していることが前述の「ファニア歌いなさい」にも描かれています)、人種問わず、その魔の手から逃れることはできませんでした。

亡命せず、国内に留まった指揮者に、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと、ヘルベルト・フォン・カラヤンがいました。巨匠フルトヴェングラーは、生粋のドイツ人であり、ナチスと対立しながらもドイツ人としての誇りを持ってベルリン・フィルを率いていました。時にナチスから命を狙われることまであった彼が、ハーケンクロイツのはためく劇場でワーグナーを指揮する映像が今でも残っていることは、そんな彼の地位をナチスがいかに利用しようとしていたかを物語っています。一方、ベルリン・フィルの首席指揮者の座を虎視眈々と狙う若きオーストリア人指揮者カラヤンは、ナチスのイデオロギーにはまったく興味がなく、あくまでも自身の出世にのみ関心を寄せ、フルトヴェングラーとは反対に、どうにかナチスを利用してキャリアアップできないものかと策謀に熱を上げていたようです。

この二人は、録音に対しても相反する考えを持っていました。フルトヴェングラーの初録音は1926年。カラヤンの初録音は1938年。10年以上の開きは、この間のオーディオ/録音技術の躍進を考えればかなり大きいと言えるでしょう。スタジオ録音を苦痛に感じていたフルトヴェングラーと比べ、新世代のカラヤンは、録音における適切な演奏のあり方に早い段階で気づくことができたのです。

一九三一年に、フルトヴェングラーは「音楽の生命力」と題するエッセイ(『音と言葉』収載)にこう記している(中略)オーケストラでいいレコードをつくるためには、「極端なニュアンスや、本格的なフォルティッシモやピアニッシモは、極力これを避けねばならない」と具体的に指摘し、テンポについても、「極めて緩慢なテンポはややもすれば退屈で気抜けしたものとなり、きわめて速いテンポは騒々しく不明瞭なものになりがち」だし、休止と総休止もできるだけ控え目にすべきだと分析している。実に、よく分析し理解しているのである。
しかし、不幸なことに、このような演奏はフルトヴェングラーの特質とはまったく正反対のものだった。スタジオ録音においてフルトヴェングラーは一生懸命に、極端なニュアンス、本格的なフォルティッシモやピアニッシモ、きわめて緩慢なテンポ、きわめて速いテンポを避け、休止と総休止も控え目にしようとした。だが、そうしてできたレコードは平板で退屈なものとなってしまう。今日でも、フルトヴェングラーの録音で高く評価されているものは、そのほとんどがライブ録音であることからも、それは分かる。この時期、今日の水準の録音・再生システムがあれば、フルトヴェングラーはそう悩まずにすんだであろう。自分のレコードはすべてライブで録音してくれ、と言えばよかった。しかし、技術はそこまで進んでいなかった。
ところがカラヤンはこのレコードという新しいメディアの特質を見抜き、どうすれば「いい演奏」として録音されるかをすぐに会得した。音の鮮明さと、正確さ、そして美しさが必要であることをすぐに理解した。そして、そういう演奏をすることがカラヤンにはできた。フルトヴェングラーという類稀なる音楽家は、《悲愴》のカラヤンのレコードと自分のとを比較し、カラヤン盤の方が優れていることを認識したに違いない(中略)彼はどうすれば良いレコードが作れるかは分かっていた。しかし、そうしようと思えば思うほど、空回りしてしまった。そこに、それを何の苦労もなくやってしまう若い指揮者が登場した。これからはレコードの時代だという認識があればあるほど、フルトヴェングラーはカラヤンに脅威を感じたのであろう。
「カラヤンとフルトヴェングラー」(中川右介著/幻冬舎 2007年)

1945年8月。ポツダム宣言を受けた日本政府は、降伏を決断し、その意図を日本国民に伝えるために「玉音放送」を行います。14日、NHKが宮内庁に持ち込んだ録音再生機で昭和天皇のスピーチを録音し、15日正午にラジオ放送されます。当時の録音方法は当然ダイレクト・カッティング。岡本喜八監督作品「日本のいちばん長い日」では、この録音の様子を丁寧に再現しています。機材をセッティングし、録音再生機を操作するところはもちろん、セルロース盤に音声が刻まれ、削りカスをブラシで払う描写などもあり、レーベル部分に大きく「DENON」の文字があることも確認できる(当時の社名は「日本電気音響株式会社」)など、当時の録音現場を知るにも興味深いシーンとなっています。

終戦後、同じく敗戦したドイツで「非ナチ化審理」が行われます。ナチスと関わっていたと判断された音楽家は、連合国による非ナチ化審理によって「ナチではない」と認定されるまで演奏活動を制限されるというもので、フルトヴェングラー、カラヤンももちろんその対象となりました(特にカラヤンはナチ主催による演奏会に出演するために自らナチ入党を求め、そして非ナチ化審理でも党員であったことを認めるなど、自業自得の面もあります。しかし、1942年に結婚している二番目の妻はユダヤの血が混じっており、単に人種や差別、世の中で起こっていることについて全く無頓着/無神経で、自身の野心にしか関心がなかっただけだという可能性もあります。もちろん、差別意識のない差別が許されるわけではなく、彼が大学時代の履歴書に、自身の人種を「アーリア人」と書いていたことからも、今の基準に照らし合わせれば「彼は生粋の差別主義者だった」と言われかねません)。そこでカラヤンは、演奏会は開けなくても「録音」については制限がかかっていないところに目をつけ、精力的に録音活動に取り組みました。非ナチ化審理は、後にカラヤンが「レコーディングでリハーサルをし、本番に挑む」スタイルを確立し、膨大な録音を残すきっかけともなったのです。彼がのちに帝王と呼ばれるほどの地位を確立することができた大きな理由は、この、転んでもただでは起きない貪欲さによるものかも知れません。(③へ続く)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください