音楽を変えたオーディオと録音の歴史③ 日本が産んだデジタル録音とDJカルチャー

ビニール盤が生んだモダン・ジャズ

戦後の大きな動きとして、セパレートアンプの登場があります。最初は音声を増幅するに止まっていたアンプも、出力の増大に伴って、帯域の拡大、S/N比の向上、歪率の減少、いわゆる「高音質化」が求められるようになり、「電気蓄音機の中のアンプ部」という存在から独立を始めます。1945年にLEAKが「Point One」(歪率が0.1%という意味)を発売し、以後、QUAD、Electro-Voice、そしてMcIntoshといったメーカーが、パワーアンプのみ、プリアンプのみといった音質重視のセパレートアンプを発売していきます。

この流れが加速するには、1947年の「ウィリアムソン・アンプ」の登場(イギリスの雑誌「Wireless World」に発表)がひとつの大きな契機となったことでしょう。負帰還(ネガティブフィードバック=NFB。出力電圧の一部を逆位相で入力側に戻す方式。歪みを抑制する作用があります。負帰還回路の特許はこの10年前にアメリカの電気工学者・ハロルド・ブラックによって取得されています)の原理については1920年代から研究が行われていましたが、高負帰還を安定的にかけることで高性能/高音質を実現する負帰還アンプの登場が、現代のハイファイアンプの端緒であり、それがアマチュア(=愛好家)文化にも火をつけ、互いに盛り上がる中で、ついにHi-Fiオーディオの歴史の幕が上がったのです。

1948年には、マグネトフォンを元にアメリカでテープレコーダーと磁気テープが発売され、翌年、デッカとEMIがテープ録音を開始。いよいよテープ録音が音楽界で実用化され始めます。多重録音が可能となり、1950年にリリースされたパティ・ペイジ“テネシーワルツ”では、彼女の声が多重録音されました。これまでの音楽の録音では、現実に演奏し得るものを収録していましたが、この録音では、同じ人間が同時に複数存在するかのような録音、つまり現実にはあり得ず、生演奏で再現できないものになっていました。ここに、生演奏では不可能なレコードならではの表現、「レコード芸術」の探究が始まります。先にバックトラックを録音し、そのテープを通常のスピードより遅く再生する。その演奏に合わせて歌をダビングすると、通常通りのスピードで再生した際にダビングされた声は甲高く再生されます。このような、現実ではあり得ない録音手法も、(ピッチの高い声がユーモラスに響くため)ノベルティソングの流行を生む一方で、後のBeatlesたちロックミュージシャンの録音アイデアの助走であったとも言えるでしょう。

テープ録音の発展・民生化というナチス崩壊以降の流れと並走するように、再生メディアの分野でも大きな動きがありました。例の「重くて脆いシェラック盤に代わる新たなレコードの素材」です。

第二次世界大戦により、録音技術の進歩を後押しするような新たな出来事が起きた。日本軍のフィリピン封鎖により、(マレーシアのカイガラムシの分泌物を原料とする)シェラックが急速に不足したのだ。そのため、アメリカでは古いレコードとの交換でないと新しいレコードを売ってもらえなくなった。アメリカ軍もリサイクルされたシェラックを爆撃機の計基盤用コーティング材として利用していたため(シェラックは結露しにくく、都合がよかった)、供給は余計逼迫した。代替品を見つける努力が進むなか、米国のレコード会社コロムビアは、ビニールと呼ばれる新しいプラスチック素材を開発した。
「音楽史を変えた五つの発明」(ハワード・グッドール著/松村哲哉訳/白水社 2011年)

かねてからクラシック音楽を途切れなく鑑賞できるレコードを求めていたピーター・ゴールドマークは、演奏時間を長くするために、音溝のピッチを狭くし、再生速度を落とすという方法を考えていましたが、それを現実のものとするため、コロムビアで開発に挑みます。レコードの長時間化は過去にも行われており、1930年にはRCAがトーキー用のレコードと同じ33.33回転の長時間盤を販売していましたが、通常78回転のものを半分以下に減速しただけのレコードの評判は芳しいものではなく、1年で頓挫してしまいました。そして、ゴールドマークが開発に着手したそのときのコロムビアの社長が、そのRCAの長時間レコードの責任者・エドワード・ウォーラーシュタインであったため、ゴールドマークの開発にあれやこれやとケチをつけ、足を引っ張っていましたが、その結果、発奮したゴールドマークは、音質も収録時間も申し分のない、長時間再生=LP(Long Play)盤を完成させることができたのです。

1948年のプレス発表会で、高さ2m40cmになるほど積み上げられたSP盤(SP=Standard Play シェラック盤)の横に立ったウォーラーシュタインは、その膨大なレコードが、両手に抱えた厚さ37cmのLPの中に収まってしまうのだ、とセンセーショナルなアピールをしました。

鉄の針で大きな音を立てながら削るように再生するシェラック盤と比べ、短く小さい突起が優しく繊細に溝の上を走って再生するビニール盤は、素材の弾力性もあってほぼ消耗することなく再生でき、周波数特性は更に広がり、溝の間隔が狭まることで長時間の収録も可能にしました。また、SP時代には針音に埋もれて忠実に再現できなかった高域の微細な信号も拾えるようになったため、その微細な信号を再生機まで伝達するために、録音の際に高域を上げ、前述のSP時代と同様低域を下げて収録し、それを再生機側で高域を下げ、低域を上げて再生することで、元の演奏を再現するという、カッティング時の波形調整と再生機側での平準化(イコライズ)が確立します。しかし当初はこの平準化の加減がレコード会社や録音ソースごとにバラバラであったため、1954年に全米レコード協会が統一規格として「RIAAカーブ」を提唱しました。以来、現在のレコードプレーヤーやプリアンプに組み込まれているイコライザのカーブは基本的にRIAAカーブを踏襲していますが、RIAAカーブが業界スタンダードになる前後のレコードについては、実際はどのようなイコライジングをかけているのかはっきりしていないものが多く、レコードマニアの間では今も果てしない議論が続いています。

1948年に初のLPレコードがコロムビアより発売されると、翌年にはシングルレコード(EP=Extended Play ドーナツ盤)が、(コロムビアにLPを取られてしまった形になる)RCAから発売されます。長時間再生を目的とした33.33回転のLPと、ジュークボックスでの再生を目的(中央の穴が大きいのはジュークボックスの仕様によるもの)とした45回転のドーナツ盤。目的も開発企業も違ったことが、現在に至るまで形状も回転速度も違う理由だと思うと、この仕様の差もなんとも味わい深いものに感じられます。

LPの誕生は、前述のようにクラシック音楽を途切れなく聴くことを発端としていますが、このLPの普及がテープ録音の一般化と結びつくことで、音楽界に新たなジャンルを確立する契機ともなりました。それまでのSPの収録時間と録音方式の制約は音楽に対してさまざまな影響を及ぼしてきましたが、ジャズにおいて、SP時代は1曲が短いスウィング・ジャズ、ビ・バップがSPとの親和性を持っていました。しかしいずれも、スタジオ録音では短い演奏でも、ライブ演奏ではソリストが長いソロを続ける場合があり、SPにはその要素は簡略化した形でしか収めることができませんでした。LP誕生以前、記録用にライブ録音された長尺の音源が、後に歴史的名演奏としてリリースされるケースがありますが、いずれも録音時点では市場に流通する手段がなかったのです。LPが登場し、それらが日の目を見るとともに、今までよりもはるかに長い時間の演奏が収録できるようになったことを利用し、ジャズ・ミュージシャンは、それまでの速い演奏でコンパクトに収めるスタイルではなく、ゆったりとした時間の流れの中で、よりクリエイティブな演奏を残すスタイルを目指しました。

1951年。マイルス・デヴィスは、前年に録音した「Birth of the Cool」で“クール・ジャズ”というスタイルを追求しましたが、そのリリースを待たず、翌年には当時の若手サクソフォニスト、ソニー・ロリンズとジャッキー・マクリーンを迎え、7分や9分に及ぶ演奏を含む吹き込みを行い、1953年にデビュー・アルバムとして「The New Sounds」を10インチLPとしてリリースします。2年後には、「Blue Period」のタイトルで、同セッションからさらに2曲をリリース。1954年に”Denial”を7インチでリリースしたのち、これらの楽曲を編集して、「DIG」というタイトルの12インチLPとして1956年にリリース。このタイミングこそがLP時代の幕開けであり、「ハード・バップ」という呼称でジャズのレコードが一時代を築く、いわゆるモダンジャズの時代の到来です。

そして、「DIG」の盤面を見ると、盤面内側の製造番号が刻まれる位置に「RVG」の文字が刻印されているのが分かります。RVGとは、当時このレコードをリマスタリングしたエンジニア、ルディ・ヴァン・ゲルダーの略称です。モダン・ジャズ黄金期に数多のジャズ・ジャイアンツの録音現場を支えてきた彼の名は名録音の代名詞となります。そして、演奏者ではなく、エンジニアにスポットが当たる時代の到来は、エンジニアの腕が問われるほど、音質が注目される録音/再生環境が熟し始めていたことの表れでもあります。

ステレオレコードとトランジスタアンプの到来

ところで、ステレオレコードはこの時点ではまだ誕生していません。ステレオで上映された1940年の「ファンタジア」は、映画フィルムのサウンドトラックに記録する光学式録音で、その後もステレオは主に映画界で進化していきました。

1951年にアメリカの録音技師エモリー・クックが発表した世界初のステレオレコードは、2本の溝が刻まれていて、別々のピックアップ、アンプ、スピーカーで再生させるという、力技のステレオレコードでした。それまでのレコードと同様にステレオレコードを普及させるには、モノラルとほぼ同じ再生環境、つまり「1本の針で1本の溝に記録し、1本の針で再生」する仕組みが必要でした。

ステレオに一日の長があったテープが先行し、1955年にRCAがステレオ・テープ・ソフトを発売します。これにより、それまで映画館でしか体験できなかったステレオが、自宅でも楽しめるようになりました。しかし当時のステレオテープの値段は、日本で販売されていたもので1本7,000円。これは当時の初任給に等しい価格であったため、一部の裕福なオーディオマニアの特権でしかなかったのです。

まもなく、イギリス、アメリカ、そして日本のレコード会社は、それぞれステレオレコードの開発に挑みます。そして三国がほぼ同時期に、「レコードの盤面に対して、音の溝を左右それぞれに斜め45度ずつカッティングする」という、いわゆる「45-45方式」でのステレオレコードの実現に到達したのです。当時の日本ビクターの開発担当者は後に以下のように綴っています。

これで左右の音質が完全に対等になり,しかも従来からのモノラルレコードとの互換性を得ることができたのである. まさに一石二鳥の収穫であった.
また,この方式は,左右の音声信号を両方45゚傾けてカッティングしていくところから,弊社によって「45-45方式」と名付けられた. 1956年9月のことである.
そして直ちに特許の申請が行われたが,すでに1931年,イギリスEMI社のA.D.ブルムラインがイギリス特許を取得しており,(今では常識だが)商品化できないままに,すでに時効となっていたのであった.
この1ヵ月後の1956年10月に,米国でRCAビクターから同じ方式のステレオレコードの発表とデモンストレーションが大々的に行われた.
45-45方式レコードの開発リーダーであった井上敏也氏は,「….わたしはそのとき,彼我の研究の差がわずか半年であったことを知り非常に残念に思ったが,到達すべき研究の結論が一致したという点について強い自信を得たのである」と述べている.
その後,1年余,さらに実用化の実験が続けられ,1958年2月,45/45方式によるステレオレコードの商品化が完成し発表会が行われたのである.
「映像情報メディア学会誌 Vol. 58」(2004年)

こうして1958年、各国がステレオレコードの発売を開始しました。もちろん、再生にはステレオ用のカートリッジと、2つのスピーカーを同時再生するための機器も必要でしたので、この後長らく、モノラルとステレオのレコードが併売される時代が続きます。

1958年には、もうひとつ興味深いトピックがあります。フランスで開発され、翌年、日本の朝日ソノプレス社(後の朝日ソノラマ)によって「音の出る雑誌」として商品化されることになる、極めて薄い小型のビニールレコード、その名も「フォノシート」、いわゆる「ソノシート」の誕生です。後にソノシートは出自を離れ、児童向け雑誌の付録やノベルティとして爆発的に広まり、特に児童向け雑誌の付録では、紙製の組み立て式手回しプレーヤーも付属し、小さな子供でも気軽にレコードを楽しむことができるようになりました。

さて、この時代、オーディオ機器はステレオ再生へと対応していく一方で、さらなる大きな転機を迎えようとしていました。

時代は遡って1948年。ベル研究所のジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテン、そしてウィリアム・ショックレーの三人が、トランジスタを発明します。導体と絶縁体の中間の性質を持つ半導体は、「加熱」「光の照射」「不純物と混ぜる」などの方法で導体となり電気が流れるのですが、その性質を応用して、検波・整流には、真空管普及以前から半導体が整流器や鉱石ラジオに用いられていました。一方で半導体の増副作用についても10年以上研究が続いていましたが、この年にベル研究所がトランジスタを発表すると、その後テキサス・インスツルメンツが1950年にシリコントランジスタを製品化します。テキサス・インスツルメンツは54年にトランジスタラジオ誕生にも携わり、その後の集積回路の発明以降、世界をリードするIC企業として業界を牽引していくこととなります。

1962年に米ACOUSTECH社がトランジスタアンプを発表すると、翌63年にはJBLが、さらに64年にはFISHER、65年にはMcIntosh、Marantz、日本からはSONY……と、続々とトランジスタアンプに参入を開始します。真空管と比べ動作が安定し、発熱が少なく、小型でしかも安価に作ることのできるトランジスタは、オーディオの増幅素子として真空管に代わる理想の増幅素子と考えられていたのです。この時代から数十年が過ぎた今に至っても、真空管アンプのイメージとして、柔らかく暖かな音という連想が起こりますが、これは真空管の特性というよりも、クリアでタイトな音を実現するにはトランジスタの方が容易だった、と言った方が正しいようで、現代の真空管アンプにおいては、トランジスタ以上にクリアさ、タイトさを追求できるポテンシャルがあるとも言われていますが、当時のオーディオ市場の盛り上がりは、技術向上が早く大量生産に向いたトランジスタアンプ普及の強い追い風となりました。

一方、ラジオもFMステレオ放送がこの前後に各国で本格化しはじめます。FM放送自体は30年代から行われていましたが、世界的な大衆文化に浸透するのはこの頃からです。

それまでのAM(Amplitude Modulation=振幅変調)波の放送と比べ、FM(Frequency Modulation=周波数変調)波の放送は、音声の周波数帯が広くノイズが少ない(その分、電波の届く距離が短く遮蔽物に弱い)上に、この頃にはステレオ放送も実現していました。AMよりも遥かに高音質なFM放送局では、(AM普及期には流行らなかった)音楽をメインに放送する番組が多数生まれます。それまでオープンリールだった磁気テープの世界にも、62年にコンパクト・カセット、つまりプラスチックのケースに入った小型の録音/再生テープが開発され、60年代後半にはカセットデッキを搭載したラジオ、いわゆる「ラジカセ」も登場し、ラジオから流れる音楽をテープに録音し楽しむという「エアチェック」の文化も生み出しました。

オーディオ/ステレオ/Hi-Fi文化は、ここに一つの完成を迎えたと言えるでしょう。そしてそれは、オーディオブームの終わりの始まりでもあったのです。

ヒップホップの立役者・ダイレクトドライブ、そしてデジタル録音の始まり

1960年代初頭、録音現場において、マルチトラック・レコーダーが2トラックから4トラックへと機能強化されていく中、アメリカでは8トラックまで収録可能なレコーダーが登場し、1966年にはThe Beach Boysが8トラックで制作した「Pet Sounds」をリリースします。翌年、The Beatlesが「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」をリリースしますが、こちらは4トラック2台を同期させての録音でした。ブライアン・ウィルソンが65年にコンサート活動から身を引き、スタジオ・ミュージシャンとともに独裁的に制作した「Pet Sounds」と、The Beatlesが66年にコンサート活動を終了し、レコーディング・アーティストとして「Sgt. Pepper’s〜」以降の作品作りに邁進しはじめたことは、音楽界に多大な影響を与えることになりますが、そのためには録音技術の発展が不可欠でした。

日本が真空管製造のピークを迎えた1970年、アンプにおいて真空管からトランジスタへの置き換えが勢いを増す中、レコードプレーヤーにも決定的な変化が訪れます。松下電器産業株式会社(現Panasonic)のオーディオブランド・Technicsが生み出したプレーヤー「Technics SP-10」の発売。ダイレクトドライブの登場です。

手回し蓄音機に始まる古典的なレコードプレーヤーの機構は、ターンテーブルをウォームギヤーが歯車を介して回転させていました。その後、SP盤の78回転だけでなく33回転、45回転と対応すべきフォーマットが増え、3通りの回転数に切り替えるために、さらに精度の高い機構が必要となりました。ターンテーブルとモーターの間に、ターンテーブルの内周に接する回転盤(アイドラー)を配し、モーターのシャフトの位置によって回転数が切り替えられる(上部から三段階に太くなっており、アイドラーの位置が下がることで回転数が多くなる)アイドラードライブが登場し、モーターをターンテーブルの外へ出し、ベルトを介して回転させるベルトドライブが登場します。アイドラードライブもベルトドライブもモーターの振動が直接影響しない構造となっていますが、ダイレクトドライブはターンテーブルを直接モーターのシャフトで回転させています。アイドラーやベルトといった仲介するものがないため伝送ロスはないですが、モーターの精度が大きく問われます。秒速33回転は、モーターの回転速度としては極端に遅い上、電圧の変化で速度に変化があると、再生音にダイレクトに影響するからです(この回転ムラの問題はアイドラードライブにもあり、ベルトドライブは慣性とベルトの伸縮が回転ムラを吸収することから、現在でも信頼性の高い機構として高級機に多く採用されています)。

ダイレクトドライブの実現には日本の高度な技術が不可欠であり、長らく日本メーカーの専売特許となっていました。

1973年、ジャマイカ出身のDJ・クール・ハークは、ニューヨークのブロンクス区で、2台のターンテーブルにそれぞれ同じレコードを乗せ、曲中のドラムビートのみのパートを交互に繰り返しプレイする“ブレイクビーツ”を生み出します。ブレイクビーツは、レコードの中でドラム演奏のみとなる“ブレイク”の部分を繰り返すために、ブレイクが終わりそうになると、レコードをドラム演奏のはじめまでターンテーブルを手で直に回して即座に戻しますが、回転中のターンテーブルに直接触れ、任意に動かすため、モーターがターンテーブルを直接動かし、手を離せば即座に正確なスピードで回転を再開するダイレクトドライブでなければ不可能な技でした。ターンテーブルを小刻みに前後させてレコードの溝を針先に擦りつけて音響効果を生み出す“スクラッチ”も同様です。ハウス/ディスコのDJが行うレコードの頭出しもピッチコントロールも、ダイレクトドライブのレスポンスの早さあってのもの。結果、レコードがCDに置き換わり、一般家庭からレコードプレーヤーが消えた後も、TechnicsはDJ御用達のブランドとして世界のDJから支持され続けることとなったのです。

クール・ハークによるブレイクビーツに続いて、1977年にはグランドウィザード・セオドアによって“スクラッチ”が生まれ、レコードプレーヤーは更に「楽器」としてのポテンシャルを発揮していきます。そして、ヒップホップに限らず、ダンスカルチャー全般における「DJ」がレコードプレーヤーに与えた「楽器」というポジションは、レコードというメディアにとって非常に重要な生命線となります。なぜなら、90年代以降、CD全盛の中で誰もが忘れつつあったレコードを、それでも愛し続け、パーティーで回し続けた彼らがいなかったとしたら、プレス工場は死に絶え、レコードプレス技術は再現不可能なまでに失われていたかもしれないからです。もしTechnicsがダイレクトドライブを世に送り出さなかった未来があるとしたら、そこにはビニール盤は残っていなかったでしょう。一方で、ブレイクビーツを契機にラップが誕生していたことを思えば、現在の世界中の音楽シーンでさえも、Technicsなしには語れないと言ってもいいほどです。こうして見てみると、音楽と再生機器という存在を強く結びつけた「レコード」の役割が、単なるビニール製の音楽メディアである以上に大きかったことを改めて思い知らされます。

また、ダイレクトドライブ誕生と時期を同じくして、同じ日本で、新たな技術革新への狼煙が上がろうとしていました。「PCM録音」と名付けられたその技術は、後に「デジタル録音」と呼ばれることになります。

1960年代後半。オーディオもレコードも大量に売れていた時代に、レコード会社はさらなる商機を求めて、より高音質なレコード作りを模索していました。通王のLPより高速で回転させ、盤面を贅沢に使った45回転盤、通常より半分のスピードでカッティングすることで音質の向上を図ったハーフスピードカッティング、そして、テープ録音以前の時代に遡って直接原盤にカッティングするダイレクトカッティングに回帰するなど。日本コロムビア(現デノン)は、中でもダイレクトカッティングに注目しました。なぜダイレクトカッティングは音が良いのか。それは、磁気テープを介していないからだという気付きから、テープに代わる録音方法を考え始めました。

磁気テープ録音の場合、ジッターと呼ばれるテープの回転ムラが物理的に避け難く、それが音質悪化につながっていることがわかりました。そこで、磁気テープに直接波形を記録しない録音方法として、「PCM」方式が用いられることになったのです。

「PCM=パルス符号変調」は、1937年にイギリスの科学者アレック・リーブスが考案した、音声のアナログ信号をデジタル信号に変換する方式です。PCM方式は、録音の際に「標本化」と呼ばれる方法で音の波形をサンプリングします。例えばサンプリング周波数が1kHzの場合、1秒間を1000分の1秒ごとに刻みます。合わせて「量子化」と呼ばれる方法で音の振幅を定められたビット数で整数値にします。例えば4ビットの場合、2の4乗=16の段階で刻みます。これによって得られた情報を「符号化」、つまり「0」と「1」のデジタル情報に変換してテープに記録します。符号化されたデータはそのままでは音波として認識されず、デジタル情報から音声信号を再構築することで音波となります。つまり録音側で「アナログ→デジタル」変換し、再生側で「デジタル→アナログ」変換を行うわけです。このため、テープに記録されたデジタル信号は、通常のテープデッキのように記録された音声をダイレクトに再生するわけではなく、テープに記録されたデジタル信号を音声信号に変換してから再生するので、磁気テープ録音の際に発生するジッターの問題が起こりません。

2年後の1972年。PCM録音機「DN-023R」は、来日中のスメタナ四重奏団に演奏を依頼し、世界初のデジタル録音のレコードを完成させました。当時のスペックはサンプリング周波数47.25kHz、量子化ビット数13bit(ちなみに後のコンパクト・ディスク=CDの仕様はサンプリング周波数44.1kHz、量子化ビット数16bit)。

私のスメタナ四重奏団との出会いは衝撃的でした。初めて生演奏を聴いたのは中学生時代でしたが、その生演奏はレコードで聴くものとはまったく違いました。
演奏中でも音程を微調整するほどの、微妙なズレも許さない緻密な表現だったのです。
そのとき「いまのレコードでは彼らのレベルの演奏は再現できないのだな」と思ったのを覚えています。
だから私の中では「デジタル録音するならスメタナ四重奏団から始めたい」と心に決めていました。
逆にいえば、「スメタナ四重奏団を収録するんだ」というモチベーションで開発に取り組んでいたのです。
デノンを作った人穴澤 健明さん その3 「世界初のデジタル録音は、スメタナ四重奏団」

前述のように、当時このレコードは「デジタル録音」と謳われることはなく、「PCM録音」と銘打って発売され、その後もPCM録音の名の下にシリーズが続けられます。録音における「アナログ/デジタル」という言葉は、前者がレトロニムではあるのですが、後者もまた相対する概念として後になって使われるようになった言葉のようです。

ともあれ、こうして音の情報がデジタルデータに変換できたことは、後の音楽シーンに、功罪共に決定的な変化を及ぼすことになります。(④へ続く)

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