大著「暴力の人類史」を2021年に完読して思う「トランプ政権」の意味と「アフター・トランプ」時代の向かうべき条件

2年以上前に購入した「暴力の人類史」を、ようやく読み終えました。「暴力の人類史」は、人類の歴史の中から、戦争や紛争、殺人、拷問などの「暴力」に焦点を当て、その変遷を膨大なデータとともに検証し、現代の我々が暴力をいかに克服すべきかをじっくりと考えていく一冊です。認知心理学者スティーブン・ピンカーが2011年に著し、2015年に日本語版が出版されました。10年前の作品ですね。

以前、「「レ・ミゼラブル」完訳版を通して読んでみた(まだ読んでない人、これから読もうかと考えている人へ)」という記事を書きましたが、それよりも前に購入していた本です。しかし、ハードカバーで大型のため、もっぱら通勤時間を主な読書時間としている僕にとっては、ついつい先送りしてしまう本だったのです。そのため、休日に自宅で少しずつ読み進めていたら、読了までに1年近くかかってしまいました。

上下巻合わせて約1,300ページ。1ページの文字数も文庫本と比べて約3割増。ノロノロと読み続けていました。遅い理由は、時間と自分自身の遅読もありますが、とにかく内容が濃密で、1ページごとに驚いたり唸ったりさせられて、付箋を次々と貼っていいるうちに時間がみるみるうちに過ぎてしまうためでもありました。

「陰惨な事件は多く、戦争や紛争は果てしなく続いている、と思いがちだが、統計上、陰惨な事件も戦争・紛争も減少傾向にある」といった話は、メディア批判とペアになって耳にすることも少なくないですが、本書はそれを数多くの文献やデータから「事実はどうなのか」を徹底的に紐解いていきます。

第一章は先史時代の人類の化石から見つかった殺人の跡から辿り始め、ホメロスの「イリアス」や聖書といった最初期のベストセラーに描かれる殺人の膨大さ、近世のヨーロッパ、そして20世紀初頭に至る、戦争や殺人、レイプ、拷問、決闘のような殺し合い、DVのありようを辿り、過去は、今となっては信じられないほどに血塗られていて、人の命や尊厳はいかに軽んじられていたかを確認していきます。

残虐行為研究家を名乗るマシュー・ホワイトは歴史上の主要な戦争や大虐殺、ジェノサイドの推定死者数をデータベース化しているが、彼によれば聖書に数を明示してある大量殺人によって殺害された人はおよそ120万人に達するという(ここには歴代誌下13章に描かれているユダとイスラエルの戦いの死者50万人は含まれない。歴史的にありえない数字だからだという)。ここにノアの大洪水の犠牲者を足せば、さらに約2000万人が上乗せされることになる。

核兵器についても、今と数十年前では、随分と捉えられ方が変わっていることを指摘しています。

ビキニというセクシーな女性の水着の名称は、第二次世界大戦後ミクロネシアのビキニ環礁で行われた水爆実験に由来する。デザイナーがこの水着を見た人の反応を、環礁をまるごと吹き飛ばすほどのすさまじい水爆の威力になぞらえたのだ。

第二章から、本書の真骨頂とも言える「データ」が登場します。棒グラフによって、「非国家社会」と「国家社会」での戦争死亡者率・数・殺人発生率を比較します。前者は先史時代の遺跡や狩猟採集民、後者は古代メキシコをはじめとする各時代の国家社会。いずれのデータも、凶悪犯罪が頻発しているイメージの強い現代アメリカが大人しく見えるほど、非国家社会での暴力は、特に過去に遡るほど大きな数字を表しています。

文化人類学者のカレン・エリクセンとヘザー・ホートンは、政府の存在によって致死的な復讐が回避されるようになることを定量的に示した。二人は192の伝統的社会を対象にしたこの研究で、植民地政府あるいは国家統治による平和化が行われていない場合(男性的な名誉が過大に重視される文化をもつ場合はとくに)、狩猟採集社会では一対一の復讐が、部族社会では親族対親族の流血の抗争がよく見られることを突きとめた。これに対して、中央政府の支配下に入った社会や、資源基盤や継承パターンによって人びとが社会の安定により高い関心をもつ社会では、法定や裁判所による裁定が下されることが多かった。

第三章で話は過去数百年に絞り込まれ、冒頭のテーブルマナーにおけるナイフとフォークの取り扱いを通貫するエピソードとして、文明と暴力の関係性について考察していきます。
本章訳注に「civilizeには、「文明化する」のほかに、「礼儀正しくさせる」という意味もある」と書かれているとおり、人は自己を抑制し、公共の場を意識し、礼儀正しく振る舞うようになることで克服してきた暴力があったということです。中世ヨーロッパの人々は今の我々が想像を絶するほど、幼児的な衝動を自由に解放して生活しており、それが無政府状態とともに諍いや暴力を野放図にしてしまい、国家体制と法制度が整い、秩序や公共、ルールやマナーといった概念が徐々に定着することで、現代的な礼儀作法をまとったヨーロッパ人となっていったようです。

オランダ北部の都市フローニンゲン三人のオランダ人研究者が、行った実験はこうだ。多くの住民が自転車を駐輪する裏道を選び、そこに置いてある自転車一台一台のハンドルに広告チラシを貼りつけた。自転車に乗るにはこのチラシを剥がさなければならなかったが、自転車のカゴは実験車によってすべて外されており、自転車の持ち主はチラシをバッグにでも入れて持ち帰るか、道路に捨てるかするしかなかった。駐輪場所の情報には壁があり、落書き禁止と大きく書かれていた。実験はこの壁一杯に落書きをした状態と、落書きのない状態の両方で行われた。その結果、違法な落書きがしてある状態では、そうでない状態に比べて、二倍の数の人がチラシを道路に捨てた(中略)別の実験では、郵便受けから飛び出した封筒(宛名書きしてある)に五ユーロ札が入っているのを見たときの通行人の反応が試された。郵便受けに落書きがしてあったり、周囲にゴミが散乱していた場合、通行人の余人に一人が封筒を盗んだが、郵便受けがきれいだった場合には、封筒を盗む人はその半分だった。研究者たちはこうした結果を受け、整然とした環境が責任を助長するのは、抑止力によるというより(グローニンゲンではゴミを投げ捨てても罰せられることはほとんどない)、社会規範のサイン——「ここは人びとが規則に従う場所だ」——となるからだと主張する。

第四章では人道主義が、意外に新しい概念であり、それ以前の拷問や死刑制度、魔女裁判に象徴される宗教、特にキリスト教文化がもたらした非人道的な行為などが、哲学者らによる人道主義が文明、出版、識字率の発展・向上によって克服されていることを確認していきます。人身供儀や魔女狩りといった歴史の勉強の中で登場する情報も、改めて収集・整理して現代の視点で凝視すると、同じ人間の行いとは思えないものがあります。

ヨーロッパ人が異なる宗教的信念をもつ人びとを殺すことをやめるようになったのは、17世紀も後半になってからだ。1648年に30年戦争を終結させたウェストファリア条約では、領邦君主は自国の宗教をプロテスタントにするかカトリックにするかを決め、宗教的少数派も迫害を受けないことが定められた(中略)スペインとポルトガルの異端審問は17世紀に徐々に下火になり、18世紀にはさらに下降線をたどって1834年と1821年にそれぞれ廃止された。イギリスは1688年の名誉革命後、宗教的な理由による殺人は行われなくなった。

余談ですが、中国の有名な兵馬俑も、元々は殉死を禁止するための代替案のようなものですが、その理由は人命を尊重して、ということではなく、主君が死ぬたびに有能な臣下が死に過ぎて国力が低下してしまうためだったかららしいですね。

第五章は世界大戦後数十年の情勢を「長い平和」として検証を進めます。「世の中は日々悪くなり、暴力は増え、戦争は絶えない」という印象はどこからもたらされ、実際のところ、現実はどうなのか。つまり、今にも第三次世界大戦、核戦争が起こるのではないかという評論家の警告や我々の恐怖とは裏腹に、第二次大戦以降、暴力の波は徐々に穏やかになり、気がつけば史上稀に見る長い平和の期間が生まれていた、という分析です。特に重要なのは、それが「核の恐怖」などによってもたらされた抑圧的な平和ではなく、民主主義が大きく貢献しているということを、非核国の増加、民主国家の増加を示すデータなどを引き合いに説いているところでしょう。

第六章はさらに焦点を絞り、冷戦以降、小国や非民主国家などで発生する戦争、紛争、テロ、ジェノサイドを主に取り上げ、いずれも減少傾向にあるデータを示しながら、この「新しい平和」が、平和維持軍や民主化によってもたらされていることを考察しています。ここで今の我々が考えさせられるのは、昨今、民主主義に対して時折疑問符が示されるようになっていることではないでしょうか。民主主義は機能不全に陥っているのではないか、民主主義は期限切れなのではないか……。しかし、もし現在の平和をもたらした「民主主義」なるものが崩壊してしまったとすると、平和を下支えしていたものは、何に代替されるのでしょうか。

ここまでが上巻。約650ページ。第七章から下巻に入ります。
第四章では人道主義を取り上げていますが、今度は権利、つまり、人種差別、女性や子ども、同性愛者の権利から動物の権利まで、いずれも、いかに減少傾向にあるかを、様々なデータによって実証します。この辺りは、かなり記憶に新しいことや、現在進行中のことも含まれてくるので、示されるデータと実感を照らし合わせて読み進めることもできますね。日本でも女性蔑視への風当たりは日に日に強くなっていますし、LGBTQやルッキズム、果ては家畜やペットに対する問題まで、昨日よりも今日、今日よりも明日のほうがさらに前進している感があります。

過去50年の非暴力への動きを、どう解釈すればいいのだろうか?これらの動向にはいくつかの共通点がある。どの場合でも、人間の本性の強力な流れに逆らって泳いでこなくてはならなかたtのだ。その流れとは、たとえば外集団に属する人を非人間扱いし、悪魔扱いすることであり、男性が性的に貪欲で、女性を自分の財産のように思ったりすることであり、親子間対立が子殺しや体罰のかたちであらわれることであり、ホモフォビアの性的嫌悪を道徳的に解釈することであり、私たち人間が肉を食べたいと思ったり、狩猟にスリルを感じたり、親類関係や互恵関係やカリスマにもとづいた枠組みの外に共感を広げられなかったりすることである。

多くのデータで一通り暴力の減少傾向を立証すると、第八章では「内なる悪魔」と題し、人間の根源的な暴力性について、ゲーム理論や脳科学などを用いながら、事細かに読み解いていきます。ここで示される要因として五つにカテゴリー分けしています。一つ目は実際的な暴力(捕食など、怒りのような感情によるものではなく、ある目的のために行使される暴力)、二つ目は支配を目的とするもの、三つ目は復讐、四つ目は傷つけることに喜びを覚えるサディズム、そして五つ目にイデオロギーを挙げています。

有毒なイデオロギーが国を感染させないと保証できるものは何もないが、一つのワクチンは、開かれた社会だ。そこでは人と考えが自由に移動できるようになっていて、異なる見解を表明しても罰せられることがなく、まじめな人びとの総意からすると異端に見えるような考えであっても許容される。

第九章では、悪魔を抑制するために必要な力として、「共感」「セルフコントロール」「道徳」「理性」を挙げています。特に、「フリン効果」と呼ばれる、世界中でIQテストの結果が毎年右肩上がりに上昇しているという驚きのデータと、それが一般知能の向上を示しているのではなく、抽象化する能力、つまり他者への想像力や道徳観念を身につけるための思考力が向上しているのだ、という考察には膝を打ちました。本書の中でも親子の会話を引き合いに出していますが、僕もよく母親と会話するときに、ある地点でどうしても思考が塞き止められることがあり、もしかするとそれも、世代による抽象化力の違いなのかもしれないな、と少し思いました。

最後の第十章で、これまで積み上げてきた内容を総括し、今後も人類の暴力を減少に向かわせるために必要な条件として、リヴァイアサン(国家)、穏やかな通商、女性化、同情の輪の拡大、理性のエスカレーター(理性の進歩は、エスカレーターのように乗ったが最後、引き返すことはできず、前進するしかないという、ピーター・シンガーによる比喩)を挙げていますが、その前に、減少に向かわせるために一貫して貢献しているわけではないものとして、兵器と軍縮、資源と力、豊かさ、そして宗教を挙げているところが大事なポイントだと思います。

著者は、知識人含め様々な方面から、本書を含む彼の主張が、現在起こっている暴力の問題を、さもとるに足らない小さな問題かのように過小評価させるとして批判を受けていますが、読了した感想としては、彼は本書の中で現状を過度に肯定してはいませんし、未来も全く楽観視しておらず、データを元に、現状をしっかり焦点を合わせた形で把握するために、推測などによる飛躍は最小限に抑え、真摯に丁寧に論を重ねていると思いました。少なくとも、もし読者がそう捉えてしまうとしても、批判している方々のように、自ら批判的に咀嚼できるだけのデータは揃えられているので、問題はないのではないでしょうか。

さて、ここで、10年後の現在から考えてみます。

本書では、現在の平和をもたらした要因として、「民主主義」「交易」「イデオロギーの衰退」などが挙げられています。これらは2020年まで続いたアメリカのトランプ政権と合致しているとも言えます。トランプは政治家ではなくビジネスマンなので、イデオロギーを用いず、それによって北朝鮮の代表ともすんなり交流し、他国との関係を交易ベースで考えます。しかも、民主党時代にフラストレーションをためていた、アメリカの中でもスポットの当たらない人々の存在に目を向け、彼らを表舞台に引き上げようとしました。トランプが支持された/されている理由は、フェイクニュースや陰謀論だけではなく、彼の資本主義・合理主義に進歩性を感じた人がいたこともあるのかもしれません。

ではトランプの姿こそが、人類が暴力を退ける理想の姿なのでしょうか。同じく本書では、前述の通り、暴力を抑制していくための条件として、「共感」「セルフコントロール」「道徳」「理性」を挙げています。トランプが、特にコロナ禍から二度目の大統領選に至るまでの行動は、「分断」「無政府状態」「非道徳」「反理性」という印象に溢れていました。トランプは「戦争しない大統領」として称賛する向きもありますが、空爆は山ほどしていたようです(「トランプ氏は平和主義者」って本当?―4年間の「実績」から検証)。そして、連邦議会乱入の引き金になったことを考えれば、トランプが平和な未来を導く指導者になりうるとは到底言えません。万が一、Qアノン信奉者、オース・キーパーズ、プラウド・ボーイズの主張が正しかったとしても、結果が「共感」「セルフコントロール」「道徳」「理性」にことごとく反しているということは、やはり彼らの考え自体も肯定の余地がないでしょう。Twitterアカウントが削除されたことについて、表現の自由の侵害である、というような批判もありましたが、Twitter社が私企業であるという大前提に目をつぶったとしても、上記条件と照らし合わせれば、彼の発言が自由を主張するには限度を超えていることは自明と言えるでしょう。

もしバイデン大統領が平和な未来を導く指導者としてアメリカを率いていく意志があるのだとすると、彼には「共感」「セルフコントロール」「道徳」「理性」に則って行動するでしょうし、翻って日本の政治家たちには、「共感」「セルフコントロール」「道徳」「理性」に則った発言・行動をお願いしたいと思います(そうでない発言や行動が大変目立っているので)。


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