音楽を変えたオーディオと録音の歴史① エジソンとベルリナー、そしてド・フォレストの時代

今の時代、「オーディオ」という言葉は浮世離れしたもののように響きます。今、多くの人々が音楽を鑑賞するとき、再生するためのハードウェアは、「オーディオ」と呼ばれる(ある時代には「ステレオ」とも呼ばれていた)ような独立した機器ではありません。しかしその昔、オーディオはかつて家庭内で花形の地位にあり、音楽鑑賞を豊かで充実したものとする役割を担っていました。そして当時のオーディオの裏に横たわる100年以上に及ぶ歴史は、録音技術を介して音楽文化と密接につながり、現在では当然のように流れている多くの音楽は、このオーディオの歴史と録音技術がなければ、全く違う形になっていたか、存在しなかったかもしれないのです。テクニクスがいなければヒップホップは全く違う形になっていたでしょうし、LPがなければモダンジャズは生まれてこなかったでしょう。SP無しにカラヤンが戦後クラシック界の帝王とはなれなかったでしょうし、磁気テープがなかったとしたら、The Beatlesは今ほど評価されなかったかもしれません。

この記事の結論は、「オーディオの時代は終わった」となります。ただし、「結論」は「答え」ではありません。なぜ終わったのか、そもそもいつ始まったのか、どのような道を辿ってきたのか。一世紀を超えるオーディオの歴史は、今やその道のりにこそ意味があるのです。

そんなオーディオの誕生から発展、そしてそのことが要請した録音技術の発展、さらにそれによって現在我々が触れている音楽がどのような影響を受けたのかを、それぞれの関係性を確認しながら振り返っていきます。

蓄音機を巡るエジソン/ベルリナーのライバル闘争

オーディオをカテゴリー化する場合、実際のところどこまでをオーディオと捉えるかは難しいですが、仮に「自動演奏」することを定義とすると、自動演奏ピアノやオルゴールまでさかのぼることになります。また、録音を「再現可能性」で定義した場合は、楽譜によって再現可能な最古の音楽としてグレゴリオ聖歌を挙げなければなりません。しかし、現代の感覚としての「オーディオ」「録音」の概念からすると、やはり蓄音機から始めるのが適切でしょう。

蓄音機は、ご存知トーマス・エジソンの手によって1877年に「フォノグラフ」の名で発表されました(同年にフランスでシャルル・クロが「パレオフォン」と名付けた蓄音機を発表していますが、こちらは論文のみで実機を作るまでには至りませんでした)。

エジソンは記者たちを集めて公開実験を行います。フォノグラフには手動ハンドルのついた錫箔の巻かれた円筒に垂直になるようにマウスピースがついており、そのマウスピースに向かってエジソンが「メリーさんのひつじ」を歌いながら円筒を手動で回転させると、録音針が錫箔の表面に音声振動による波形が刻まれ、その後、刻まれた波形を再生針がなぞることで、フォノグラフが先程歌った「メリーさんのひつじ」をそのまま再現して歌い出したのです。エジソンが「メリーさんのひつじ」を歌った理由は、幼児が歌うために作曲された童謡には濁音が少なく、特にザ行の再現が苦手だった初期のフォノグラフの欠点を補うためだったそうです。

エジソン自身の歌が、その場で録音/再生される様子をライブパフォーマンスしたエジソン。しかし当初、エジソンはフォノグラフを音楽再生のための機械とは考えていませんでした。

エジソンの当面のねらいはいたって現実的なものだった。誕生して一年が経ったばかりの最新電話機は、いまだごく一部でしか使われておらず、しかも非常に高価だった。そこでエジソンが考えたのは、小さな携帯型蓄音機を使って好きな場所で声のメッセージを録音し、それを町の中心部に設置された電話交換機まで持っていって再生することにより、電話機を通して大量のメッセージをまとめて送信するという方法だ(インターネット・サーバーが電子メールをひとまとめにして送るようなものだ)。オーディオ版の電報と言ってもよいかもしれない。このような仕組みは、電信を表す「テレグラフ」に代わって、「フォノグラフ」(「フォノ」はギリシア語で「サウンド」を意味する)と呼ばれた。
「音楽史を変えた五つの発明」(ハワード・グッドール著/松村哲哉訳/白水社 2011年)

必要は発明の母と言われる様に、ニーズがあって始めて新しい便利なものが考えられるのが順序であり、エジソンの発明品もことごとくそうでした。しかし「フォノグラフ」だけは例外で、彼自身、何に使うのか考えていなかったのでした。(中略)そして、翌年(引用者注:1878年にアメリカ特許庁より。ちなみに出願は1877年の12月24日)の2月19日に第200521号で登録されました。その出願書に書かれている「フォノグラフ」の用途として、エジソンは次の様にあげています。 1. 速記者を使わないで手紙を書いたり、各種の口述に使える 2. 耳で聞く書籍、盲人用の本 3. 話し方の先生 4. 音楽の吹き込み 5. 家庭用娯楽機、家族の声の記録 6. オルゴールなどの玩具 7. いろいろなことをするための時間を言葉で告げる 8. 正確な発音の保存 9. 教師の講義を入れて生徒が繰り返し聞ける 10. 電話につないで録音・再生する
「オーディオの一世紀」(山川正光著/誠文堂新光社 1992年)

エジソンはフォノグラフをもっぱらひとの声を記録するための機械として位置づけていた。このことは「フォノグラフ」という名称にも明確に表れている。その由来には諸説があるが、当時「フォノグラフィ(phonography)」といえば、表音式の速記術のことを指していた。エジソンはおそらくそこから発明品の名称をとったものと思われ、速記の機械としてフォノグラフを用いようとしていたことが推測される。
「フォノグラフ、あるいは「音を書くこと」の来歴―録音再生技術の着想をめぐる考察―」(京都精華大学紀要 第51号収録 秋吉康晴著 1992年)

いずれにしても、エジソンは音楽鑑賞のような娯楽よりも、実用品として役に立つものとして考え、活用してもらうことを期待していたように思えます。

また、原初の蓄音機は音源となるメディアも円筒形だったので、外観は今の一般的なオルゴールのようなものでした(オルゴールも過去には円盤式のものが存在しており、現在オルゴールミュージアムなどで鑑賞できます)。円盤型のレコードの歴史は、この10年後、エミール・ベルリナーが生み出した「グラモフォン」から始まります。

ベルリナーは、円盤型のレコードを再生する蓄音機・グラモフォンの販売会社として「ベルリーナ・グラモフォン」を立ち上げます。このベルリーナ・グラモフォンが後のRCAやEMI、ドイツ・グラモフォンなどのレコード会社の源流となり、蓄音機から流れる主人の声に耳を傾ける犬でおなじみ「His Master’s Voice」を商標登録したのも、ベルリナーでした。このベルリナーの指揮のもとで、円盤型レコードの蓄音機と円盤型レコードを販売するレコード会社が組合わさることで、蓄音機は現在の我々が認識する「レコードとレコードプレーヤー」という音楽鑑賞の道具としての一歩を踏み出し、「オーディオメーカーがレコードも制作・販売する」という、ある時代までの音楽レーベルのありようを決定づけることにもなるのです。

少し遡って1886年、フォノグラフのことはすっかりそっちのけだったエジソンは、チチェスター・ベルとサムナー・ティンターによる「グラフォフォン」(1885年に特許出願)の登場に激怒しました。フォノグラフでは錫筒だった録音媒体を蝋筒に改良したグラフォフォンを、エジソン自身のアイデアを盗用したものだと特許裁判を起こしたのです。エジソンにはグラハム・ベルと電話の特許で争い、敗北した過去がありましたので、彼らがグラハム・ベルの従弟であることも気に入らなかったかもしれません。そして、そのベルとの特許争いの際、エジソンの特許をかいくぐった案をベル研究所に持ち込み、ベルに勝利をもたらしたのは、他ならぬベルリナーだったのです。

再びフォノグラフの改良に挑んだエジソンは、1887年に「スペクタクル」の名で改良型蓄音機を発表します。この時の写真が、かの有名な「蓄音機を置いたテーブルに右肘をついて、こめかみをその手首に預け、左腕を椅子の背もたれに回している」写真ですが、数日寝ずに改良したこの新型機も、同年12月に発表された「グラモフォン」の登場の前にかき消されてしまいました。

ライバル心に火がついたエジソンは、この後フォノグラフの改善に必死になりますが、ベルリナーは1894年にシェラック盤(後のSP盤)を完成させることで7インチレコードを大ヒットさせ、蝋筒のレコードの複製技術を向上させるなど円筒型にこだわり続けていたエジソンもやがて円盤式に移行することになります。

彼の執念による蓄音機開発合戦は、ベルリナーが世を去る1929年まで続きました。82歳を迎えていたエジソンは、この2年後に他界。ライバルがあればこそ続けられた研究だったこともあるでしょうが、この時期に磨き上げられていったオーディオと録音の劇的な進歩が、天才発明家を魅了していたことも大きかったと思います。

二人の天才が火花を散らしていた30年間。それは、娯楽産業が怒涛の進化を遂げる、衝撃の時代でした。

真空管が実現した電気録音とトーキー映画、その立役者の悲哀

エジソンの時代までの蓄音機における最初の大きなキーワードが、円盤式を確固たるものにした「シェラック盤」だとすると、その次は「真空管」となるでしょう。つまり、「電気録音」の登場です。

エジソンが「メリーさんのひつじ」を歌って以来、電気録音が登場するまでは、集音器の前に演者が集まり大声で歌う「アコースティック録音」が行われていました。録音のことを「吹き込み」と呼ぶことがあるのは、歌い手がこの集音器に向かって息を吹き込んでいるように見えたことによります。集音器は徐々に改良されていったのですが、手前に向かって口が大きく広がったメガホン型のホーンが、録音規模の大型化に伴って大きくなり、管弦楽のオーケストラが録音される頃には、全長1メートルはあるかという巨大なラッパになってしまいました。

そのころの録音は、壁から突き出たメガホンに向かって行い、独唱の場合でも首を横に振ると音がゆらぐので真っすぐ前を向いたまま歌わなければならなかった。大編成のオーケストラでは、巨大なメガホンを用意して、弱い音の楽器は前に、強い音の楽器は後ろにさがってレベル合わせをしている。その上、通常より大きな音を要求され、何回もやり直しをさせられている
「オーディオの一世紀」(山川正光著/誠文堂新光社 1992年)

当時の蓄音機は感度が非常に低いために、人間が発する音量では入力される音波が小さすぎたので、音量をどうにかして増幅する必要があったのですが、増幅するためには演奏側が「でかい音を出す」か蓄音機側が「ホーンをでかくする」しかなかったのです。その両者を一挙に解決したのが、「三極真空管」でした。

1904年に「フレミングの左手の法則」で知られるイギリスのジョン・アンブローズ・フレミングが、二極真空管を発明します。二極真空管は、白熱電球におけるエジソン効果をアナログ→デジタル変換するための整流管として使えるよう開発されたものです。

1906年、この二極管を、アメリカの発明家リー・ド・フォレストが検波管として機能する特許を出願。この機能は、電波から音声を復調するための検波器として、ラジオの受信機に使われました。

ちなみにこの年のクリスマス・イブ。大西洋上の船舶にいた通信士は、それまでモールス信号しか受信したことがなかった受信機から、バイオリンによる音楽の演奏が流れてくるのを耳にしました。その妙なる響きに魅了され、通信室は噂を聞いた船員で満員になったそうです。カナダの発明家・レジナルド・フェッセンデンが行ったこの実験は、世界最初のラジオ放送と言われています。

1908年、ド・フォレストは二極管にさらなる改良を加え、二つの電極の間に三つ目の電極としてグリッドを配した三極真空管を発明。1912年に行った実験の際に、増幅作用が発見されます。この増幅作用が、後の音楽、録音、オーディオ、そして映画界を大きく変えることになります。しかしド・フォレスト本人は、そのポテンシャルも原理も生かしきらないうちに、金銭的な問題から、三極管の特許を、グラハム・ベルが興したベル電話会社を前身とするAT&T(American Telephone & Telegraph)に売却してしまいます。AT&TはWestern Electric、General Electricに三極真空管の製品化を依頼し、この2社によって三極真空管はついに実用化されることになるのです。

Western Electricは、(送信管でありながらハイパワー管として今もオーディオファンに重宝されている「211」を発表した)1924年、コンデンサマイクに真空管を組み込み、マイクが拾った電気信号を増幅し、カッティングマシンに届けることに成功しました。これにより、音域も広がり、過度な音量で演奏する必要もなくなったのです(この電気録音による音量の改善は後の、囁くような歌唱法やボサ・ノヴァのヒットを準備していたとも言えます)。アルフレッド・コルトーがピアノ演奏を電気録音した1925年には、ラッパがむき出しではない、キャビネット型のムービングコイル・コーンスピーカーが発表され、その翌年には実験的にトーキー映画「ドン・ファン」が上映。この時点では、BGMが同期されるのみで音声はなく字幕で済ませていたので、厳密にはトーキーとは言えませんでしたが、翌1927年、声と口の動きが同期する実質上初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」が上映されました。実はWestern Electricは、音楽の録音のために電気録音を考えていたわけではなく、初めから映画のトーキー化を見越して技術開発を行っていたということです。

「アメリカを変えた夏 1927年」(ビル・ブライソン著・伊藤真訳/白水社 2015年)によると、1927年当時のアメリカは、毎年800本の長編映画(世界の映画市場の80%)と2万本の短編映画を製作しており、劇場は全米2万館、入場券が毎週1億枚売られていたそうです。入場者たちは作品そのものにも増して劇場自体の豪華さにこだわるようになり、数千人を収容する壮大な建築物が次々と建てられる一方、パラマウント、ロキシー、キャピトルという主要巨大映画館3館を埋めるだけで毎日7万人分の入場券を裁かなければいけない状況に陥ってしまい、映画業界は新たな戦略を迫られていたということです。当時弱小映画製作会社であったワーナー・ブラザーズの「ジャズ・シンガー」は、撮影時点で上映可能な劇場がわずか2館しかなかったにもかかわらず大ヒットとなりました。このトーキーのヒットを契機に、映画業界は急激な変貌を遂げることとなります。

サイレント期の映画において音楽は、ヴォードヴィル劇場でいくつもの演し物の一つとして上映されていた時代から、さまざまな形で関わっていました。それは、レコードを介したものではなく、伴奏音楽家によって、主に楽譜を介して生演奏されていました。1910年辺りから、映画産業が巨大化するに伴って、映画館が生まれ、観客からの要求もより高度化してゆき、それまでは内容と無関係なものをおざなりに演奏されることも多かった音楽への要求も、次第に高まっていきました。

この頃、エジソン社は「伴奏音楽集」(一九〇九)を発行するとともに、個々の映画を配給するときには「音楽のための手引き(キュー・シート)」を添えた。キュー・シートには、場面ごとに伴奏音楽集の番号が指定してあり、ムードにあった曲を伴奏する仕組みだった(中略)通常、キュー・シートは上映期間の一、二週間前に劇場の伴奏家のもとに届けられた。伴奏家は、ただ指定された曲を弾くだけではなく、映像の長さに合わせて音楽のテンポや演奏する箇所を調節し、場面から場面に映る部分を捜索し、場合によっては即興でつなぎ、ときには一つの場面をまるごと創作や即興で切り抜ける必要もあった。
「ミッキーはなぜ口笛を吹くのか: アニメーションの表現史」(細馬宏通著/新潮社 2013年)

キュー・シートに沿って当意即妙にライブ演奏する伴奏音楽家という存在は、映画産業の生み出した一つのジャンルでした。前述の巨大な映画館には、座付きの楽団が存在するほどでしたが、それはトーキーの到来によって存在意義を失ってしまう、時代の徒花でもありました。映画産業におけるこの大革命は、新たな事業を生み出した一方で、多くの楽団員と、バスター・キートンらサイレント期のスターから仕事を奪うことにもなったのです。

「ドン・ファン」、「ジャズ・シンガー」は、配給元のワーナー・ブラザースが出資しWestern Electricが開発した「ヴァイタフォン」で上映されました。ヴァイタフォンは、直径約40cmのレコードと映画のフィルムを同期させて再生するシステムです。同期と言っても、単純にフィルムの回転速度と同じ速さでレコードを再生させるというもの(現在の12インチレコードと同じ毎分33.33回転というスピードでした)で、不安定極まりなく、まもなくサウンド・オン・フィルム方式(映像フィルムの端に音声を焼き付ける方式のことで、そのフィルムの音声部分を「サウンドトラック」と呼んだことが現在劇伴を「サントラ」と呼ぶ元となっています)に置き換わりました。ちなみにサウンド・オン・フィルム方式によるトーキー映画用のフィルム「フォノフィルム」は、1919年に三極真空管の生みの親でもあるリー・ド・フォレストにより特許出願されており、1923年にはすでに18本の短編映画が上映されていました。

不幸なことに、ド・フォレストは四六時中ビジネス上の問題に振り回されていた。設立した企業数社は倒産してしまったし、支援者に騙されたことも二度あり、それに常に法廷で金や特許をめぐって争っていた。このためド・フォレストは自分の発明をとことん突き詰めることができなかったのだ(中略)三極真空管も、自分の発明なのにド・フォレストは利用できなかった。AT&T社傘下のウェスタン・エレクトリック社が特許を持っていたからだ(中略)まもなくヴァイタフォンは、より進んだ音響システムに取って代わられた。それらはすべての音声を直接フィルムに刻むという、ド・フォレストの独創的なアイディアに基づいていた。ド・フォレストが脇目もふらずにもっとそこに専念していたら、格段に裕福な男として生涯を終えられていただろうに。
「アメリカを変えた夏 1927年」(ビル・ブライソン著・伊藤真訳/白水社 2015年)

戦前には、前述のフェッセンデンの後、ラジオ放送に向けた土台づくりにも貢献していたのですが、第一次大戦の影響で無線の実験が中断され、戦後は大企業の影に埋もれてしまいました。ド・フォレストという人物は、存命中からその多大な功績が称えられる一方で、読みの甘さと間の悪さでもオーディオ/録音史にその名が深く(痛々しく)刻まれています。

この1920年代は、そんなラジオが大衆の娯楽として定着していく時代でもありました。

1920年、米ウェスティングハウス電気製造会社が、世界初の商業ラジオ放送局「KDKA」の放送をスタートさせます。それまでも、レコード音楽を流すアマチュア無線局を開局したり、軍事産業向けに生産・販売していた同社は、この年の大統領選の選挙速報をきっかけに大衆から大きな関心を引くことに成功します。その後、オペラや講演、スポーツ中継などによってラジオは大きな支持を受け、放送局も激増し、鉱石ラジオが飛ぶように売れました。当時すでに真空管式ラジオもありましたが、電源不要な上、小型で安価な鉱石ラジオをヘッドホンで聴くというスタイルが主流だったようです。同年、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(後のRCA)がラジオ専門の会社として設立され、2年後には、Western Electricが開局したラジオ局から、初のラジオCMも放送されています。そして、30年代の到来を待たずに、日本を含む世界各国がラジオ放送を開始。レコードだけを流していた黎明期は、受信機よりもレコードを買う方が安いことから普及しなかったラジオが、音楽以外のコンテンツを充実させることで大衆文化の主流に躍り出たのです。

ラジオ受信機の電化は、20年代前半に実現しており、プッシュプル(アメリカの通信工学者・エドウィン・ヘンリー・コルピッツが考案した、2つの増幅素子を使った増幅回路)方式でスピーカーを駆動させるものもありました。初の電気蓄音機「パナトロープ」が米ブランズウィック社より発売されたのは、「ドン・ファン」上映の1926年でしたが、それ以前からラジオ付きの電気蓄音機は発売されており、その中身は、「アコースティック蓄音機+電化ラジオ」でした。技術面においては、蓄音機はラジオに追い抜かれた形になりました。

「ジャズ・シンガー」が上映された翌年となる1928年、ディズニー初のサウンド・オン・フィルム方式による映画「蒸気船ウィリー」が上映。この年に、Western Electricは劇場用アンプ「WE42」を完成させました。この年に、レコードの音を電気的に増幅し、スピーカーから聴くことのできる電気蓄音機も業務用で続々と登場し、30年以降は、大衆向けの蓄音機の主流になっていきました。

これが、エジソンがベルリナーと開発競争をしていた1929年までの出来事です。巨大な映画市場において35mmフィルムの規格化にも関わっていた老エジソンが、この時代どれほど鼻息が荒かったかは、想像に難くありません。(②へ続く)

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