「戦慄せしめよ」 at シネマート心斎橋

映画「戦慄せしめよ」を、シネマート心斎橋に観てきました。

題名は、柳田國男の遠野物語の冒頭「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」から引用したそうです。英語名は「Shiver(震える)」。

鼓童のメンバー・住吉佑太が、日野浩志郎に手紙を送ったことから交流が始まり、”Game”という楽曲を完成させたとき、話題としては「日野浩志郎が鼓童とコラボしている」と耳にしていて、確かYouTubeで動画も目にしていたような気がしますが、僕もプライベートな理由からライブコンサートの現場に足を運ぶことから遠のいていたので、あまり深く追うこともなく、時折「あれはどうなったんだろう」と思うにとどまっていました。ただ、「映画を撮っている」という話は、どこかで聞いていたかもしれません。

「緊急劇場公開」の報を目にしたのは、2022年に入ってからでした。ライブコンサートに通う生活から離れたものの、映画館に行く時間なら作れるようになってきたので、このニュースには思わず身を乗り出しました。とは言え、大阪では1週間弱という短期間な上、年度末が近づいて仕事が詰まってきていた時期でもあり、ほぼ諦めかけていましたが、祝日に出勤していたら、思いのほか仕事が捗り、うまく時間が作れたので、心斎橋のシネマートに行ってきました。この日は舞台挨拶があり、監督によるお話も聞くことができました(写真はそのときのもの。なぜか最後に窪塚洋介もゲストで登場し、IWGP世代の僕としては、「キ、キングだ」と心の奥で静かに興奮してしまいました)。

大阪での上映は、「boidsound」と呼ばれる、樋口泰人によってマスタリングされたサウンドでの上映でした。正直なところ、この効果が如何程のものだったかは、違う環境での鑑賞をしていないのでなんとも言えませんが、いわゆる「爆音上映」のような、ウーファーからの音が腰に来る、というタイプのものではなく、通常の映画の音量で、よりリアリティのあるサウンドを求めてチューニングされたもの、という感じでした。

映画は佐渡島を舞台に、「賽の河原」にある仏像のアップから始まります。世阿弥の流刑地であることからのインスピレーションか、渋川清彦演じる「渋川トキ太郎」が、面を被り、のそりと現れます。カットバックで、岸壁に置かれた大太鼓に臨む、褌姿でカメラに背中を向けている鼓動メンバー・中込健太。彼の独奏をアバンタイトルに、本編が始まります。

この独奏から、和太鼓を打ち鳴らす怒涛の映画なのだろうと思って待ち構えていると、その期待を裏切るように、人の気配の感じられない佐渡島の自然の中で、ゆっくりとふいごを動かしながら、静かにハルモニウムを弾く日野浩志郎の姿が映し出され、しばらく彼が佐渡島の岩場を歩く姿を追った後、室内でのウッドブロックを使った、高域を中心としたミニマルな演奏。ジョン・ゾーンのコブラをヒントにしたという、記号的な指示をもとに、各メンバーが演奏パターンを切り替えながら合奏するというもので、指揮者、というよりは儀式の司祭のような佇まいで古道のメンバーたちと向かい合わせに座る日野氏を、後ろから、そして真正面からカメラが捉えます。

この時、カメラは正反対の角度へと一瞬でアングルが切り替わるので、「あれ、カメラはどこだ」と、日野の背景を確認しましたが、カメラは見当たりません。その後も、演奏風景を観ながら、打楽器の音が非常にダイナミックでクリアに録られているのに、マイクの存在が全く感じられなかったので、少し不思議だったのと、太鼓を打つバチの動きが、音と微妙にズレて見えるのが気になっていましたが、後でパンフレットを読むと、これは、演奏だけ先に録り、音に合わせて後で撮影しているためだったようです。本作が素晴らしいことを前提として、玉に瑕なのは、この「音と動きにズレがある」点だと言わざるを得ません。撮影スケジュールの問題があったということですが、確かに本編を見ていると、このウッドブロックをはじめ、手拍子足拍子、ガムラン楽器に男女の歌唱、ハルモニウムといった、和太鼓と音のレベルもバラバラなものが、時に同時に演奏されるとなると、画面の中がマイクだらけになるか、小さな音に関してはほとんど聴こえなかっただろうと思うので、これ以上にうまくいく方法はなかったのだろうと思います。実際、ミュージカル映画などでも一般的に使われている技法でもあるのですが、やはり映画の特性上、絵と音が完全にシンクロしていないという点は、無視するには気になりすぎる要素に感じました。

その中で、「大太鼓だけは同時録音するしかない」ということで、大太鼓には、巴の柄の描かれた皮の下部にマイクが付けられていました。そういう意味でも、本作の白眉は大太鼓の演奏で、特に”Shiver”での中込健太による、エネルギーの漲った肉体を振り絞ってバチを叩きつける迫力、魂に向かって放つよう強烈な絶叫には、まさに戦慄を覚えました。

日野を含めた複数人のハンドクラップを基本に、ときに足踏みを加えた”Clap”は、日野自身がライヒの”Clapping Music”を参照していることを表明していますが、いわゆるダンス・ミュージック界隈のアーティストが「踊れる」という基準からライヒを解釈すると、非常に直情的なビート・ミュージックになりかねませんが、テクノ・アーティストでもありながら、楽器の発する音、ポリリズムに止まらないビートの可能性を、破壊寸前まで突き詰めてきた彼の曲は、ライヒがクラシック音楽のアカデミックな文脈からテープ・ミュージックに至り、辿り着いたミニマルの領域と、道が違いながらも近接した結論に辿り着いたような、非常に豊かなバックグラウンドを感じさせる仕上がりになっていたように感じました。

ガムランの楽器・ボナンを手持ちで叩く”Bonang”、同じくガムランの複雑なアンサンブルを連想させる”Quartets”など、元来鼓童のレパートリーにあるかのように血肉化されたような見事な演奏に耳も目も奪われ、一方で、和太鼓という元来ミニマルでトライバルな音楽形態と、日野浩志郎という稀代の作曲家との相性の良さに、よくぞ手を組んでくれたものだと拍手を送りたくなります。

本作は音楽を聴かせる映画ではありますが、豊田利晃監督は、佐渡島の厳冬の風景を存分に折り込み、渋川トキ太郎が無言で放浪する姿も織り込みながら、まるで世阿弥の時代の流刑地へとタイムスリップしたかのような薄暗い自然が、どこまでも冷酷に迫ってきます。演奏を捉えるカメラも、静謐な動きを主としながら、ただ「寄り」と「引き」でそれらしい絵を繋いでいるシーンはなく、研ぎ澄まされたアングルでの固定カメラから、ドリーを活用し、時にカメラを縦方向に360度回転までさせてしまう驚きの演出まで、楽曲ごとに撮影場所も撮影方法も変えながら、緊張感と見応えを、90分間維持し続けています。”Shiver”での、室内での演奏から、川の水が流れる音が加わり、川のカットへと変わると、その流れを追ううちに徐々に濁流となり、ついに滝となって激しく落ちていくと、そこに大太鼓が移動していて、演奏の続きが始まるというシーンは、演奏の迫力だけでなく、映像・演出としても本作のハイライトと言えるでしょう。

最後、荒波が無限に続く、圧倒的な自然のエネルギーを捉える中、日野の静謐なハルモニウムと鼓童のリズムが絡み合うコーダを観ながら、何かが終わったような感覚がまるでなく、これから一体どうなるのか、映画に関わる様々なことの「続き」が気になる。そんな余韻が心地よく残るような作品でした。

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