“Bohemian Rhapsody”考〜オペラとゾロアスター教から導き出す楽曲構造とフレディの思想〜

ボヘミアン:
芸術家や作家、世間に背を向けた者などで、伝統や習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている者。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%98%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%B3

ラプソディ:
自由奔放な形式で民族的または叙事的な内容を表現した楽曲。異なる曲調をメドレーのようにつなげたり、既成のメロディを引用したりすることが多い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E8%A9%A9%E6%9B%B2

2月8日に、岸和田市立公民館で、デアゴスティーニ盤QUEENのスタジオアルバム全15作(1枚当たり1曲ずつ+来場者のリクエスト曲)を鑑賞するイベントを行いました。その際、代表曲”Bohemian Rhapsody”については、ある程度の時間を割いてお話させていただきましたが、本ブログでは、お話できなかったことを含めて、より細かく掘り下げてみようと思います。

そもそもオペラとは何か

まず”Bohemian Rhapsody”の解釈として、近年は、「フレディ自身が自身の性的マイノリティの葛藤を歌った曲である」というものが広まっていますが、果たしてそうでしょうか。同曲収録のアルバム「A Night at the Opera」に収録されている”Love of My Life”が当時の恋人メアリー・オースティンへの思いを綴った楽曲だということを考えても、彼の中にある葛藤が、このような「抑圧からの開放」という形に昇華されているという解釈には、ありえないとまでは言えないとしても、無理があるのではないでしょうか。

この”Bohemian Rhapsody”に込められた意味については後ほど考えるとして、先に楽曲の構成について検証してみます。

この曲は「オペラ」と形容されることが多く、フレディ自身も”Bohemian Rhapsody”を「ミニ・オペラだ」と言っているわけですが、では”Bohemian Rhapsody”は、どこがどうオペラなのでしょうか。中間部分の合唱パートを指して「オペラ的」だと捉えている人が多いのではないでしょうか。しかし実際のオペラは、音楽に乗せて歌いながら演じられる芝居なので、合唱は団体が現れる場面でなければ登場しません。おそらく多くの人は、ベートーヴェン「第九」、ヘンデル「メサイア」、オルフ「カルミナ・ブラーナ」あたりをイメージしているかと思いますが、いずれもオペラではありません。

フレディは少年時代にクラシック音楽について学んでいます。

学校でピアノのレッスンを受けて、それはとっても楽しかったな。母親にやらされたんだ。ちゃんとやるように言われて、それでクラシックの実技と理論のグレード4まで続けた。
「フレディ・マーキュリー 自らが語るその人生」

彼が作曲した初期のQUEENの楽曲の随所に対位法が用いられているのは、少年時代に身に付けた音楽理論があってのことでしょう。また、プライベートでは好んでオペラ鑑賞に出かけていたと言うので、オペラなるものがどのようなものかは重々承知の上で、”Bohemian Rhapsody”をミニ・オペラと呼んでいたわけです。それでは「オペラ」とは、一体何でしょうか。

オペラは16世紀末に「全編が歌によって進行するドラマ」として、イタリアで生まれました。音楽だけでなく、演劇、建築、舞台装置、衣装が一体となった総合芸術として発展していきますが、現在も上演される最古の作品は、モンテヴェルディが作曲した「オルフェオ」です。モンテヴェルディという作曲家の名によって、オペラがクラシック音楽のいちジャンルとして違和感なく理解されるような気がしますが、誕生時点のオペラは、ギリシャ劇の復古を目的としており、クラシック音楽における再現可能な最古の音楽と言えるグレゴリオ聖歌から続く「宗教音楽」としてのクラシック音楽の流れとは少し違います。宗教曲も世俗曲も書いた当時の革新的な作曲家だったモンテヴェルディがオペラに乗り入れることでオペラはその存在を確立し、発展させていくことを可能とした、と考えられるのではないでしょうか。

ちなみに、オペラには本編が始まる前に「前奏曲」があります。その昔(クラシック音楽がリアルタイムな音楽だった時代)、観客は、現代のように「開演30分前に会場に集まり、座席に着いて、スマホをマナーモードにし、音も立てずに静かに鑑賞する」という習慣がなく、開演後に三々五々に集まり、家族や知人と世間話をしながら席に着く、というスタイルでした(ペットも同伴していたほどです)。そんな観客が集まってくる最中に、客入れのBGMとして演奏していたのが前奏曲です。オペラ以外の演奏会でもプログラムのはじめに前奏曲を演奏していました(モーツァルトの時代は、これが交響曲の第1楽章にあたっており、当時彼がピアノ協奏曲ほどには交響曲を重要なものと捉えていなかったのは、そのような地位によるものでした)が、この「前奏曲」という形式は、後に映画に引き継がれることになります。しかし、映画における「前奏曲」も、いつしかなくなってしまいましたね。

閑話休題。「音楽の父」とも呼ばれているJ.S.バッハは、オペラを作曲していません。しかし彼が作曲した声楽曲であるカンタータやオラトリオ受難曲などは、曲の構造にオペラと共通する部分があります。この「共通する部分」が、”Bohemian Rhapsody”の中にも存在しています。

それでは、”Bohemian Rhapsody”の楽曲構成を冒頭から確認していきます。

(オペラに関する参考資料:ハワード・グッドール著「音楽史を変えた五つの発明」渡辺裕著「聴衆の誕生 – ポスト・モダン時代の音楽文化」他)

“Bohemian Rhapsody”のオペラ/カンタータ/オラトリオ的楽曲構成

この曲は「イントロ→ヴァース→コーラス→ヴァース→コーラス→間奏→ヴァース→コーラス」というようなポピュラー音楽の一般的な構成を取っておりません。

“Is this the real life”で始まる出だしの部分ですが、ここではリズム楽器が入らず、フレディの声とピアノによる多重録音で構成されています。ここはポピュラー音楽で指すところの「イントロ」ではありません。それは”Mama,just killed a man”直前の部分です。”Is this the real life”で始まる出だしの部分は、オペラ/カンタータ/オラトリオで言う「レチタティーヴォ」に当たります。「レチタティーヴォ」は、伴奏が少なく、リズムも明確ではなく、歌もメロディがリフレインすることもない、半分語りのような部分です。その後に続く「アリア」に対するイントロになります。ポピュラー音楽でも、例えばジャズのスタンダード”Stardust”でも、”Sometimes I wonder”で始まる有名なメロディで始まる前に、”And now the purple dusk of twilight time”で始まる前振りがありますが、これはレチタティーヴォの名残です。

そしてドラムス、ベースが入り、”Mama,just killed a man”と歌い始める部分が、オペラ/カンタータ/オラトリオで言うところの「アリア」です。「アリア」はポピュラー音楽の形式に近く、キャッチーなメロディがあったり、同じメロディが何度かリフレインしたり、イントロ、間奏、アウトロのある場合もあります。ただしシンガロングできるようなコーラスはあまりないので、”Bohemian Rhapsody”でのこの部分でも、”Mama, ohh…”で歌えそうではありますが、観客ととも歌うために用意された「サビ」はありません。

「The Works」収録曲”It’s a Hard Life”も、冒頭”I don’t want my freedom There’s no reason for living with a broken heart”もレチタティーヴォっぽいですが、その後続く本編を”Bohemian Rhapsody”と比べてみると、「イントロ→ヴァース→コーラス→ヴァース→コーラス→間奏→コーラス」と続くので、典型的なポピュラー音楽の構成だと分かります。”Bohemian Rhapsody”の「アリア」と”It’s a Hard Life”の「ヴァース」との違いが重要です。前者はそれだけでも楽曲として完結しており、後者はあくまでも「コーラス」のための前フリとして存在しています。

一般的に、オペラはこのレチタティーヴォ→アリアの繰り返しによって物語が進んでいきます。

余談ですが、現在オペラのカテゴリーに入れられているモーツァルトの「魔笛」は、レチタティーヴォにあたる部分は音楽のない役者によるセリフで進行しますので、本来は「ジングシュピール」と呼ばれる、大衆演劇に属するジャンルになります(現在のミュージカルに近いですね)。また、ウーグナーの「トリスタンとイゾルデ」や「ニーベルングの指輪」は、レチタティーヴォ→アリアの反復によって物語の進行が度々中断されしまうことを嫌い、レチタティーヴォとアリアの明確な区別を廃し、自らそれを「楽劇(Musikdrama)」と呼びました。このことからも、レチタティーヴォ→アリアの構成が、”Bohemian Rhapsody”のオペラ性を象徴していることが窺えます。

アリアに続いてのギターソロを挟んで、合唱と独唱の掛け合いが始まり、楽曲は最も盛り上がる大きな山場を迎えますが、こうして構造を順を追って確認してみると、この合唱と独唱の掛け合いのパートがオペラなのではなく、曲が始まった時点からがオペラが始まっていた、ということが分かります。

この後、ハード・ロック・パートに入りますが、その解釈については、歌詞の内容について確認しながら触れていきたいと思います。

人殺しは誰か/ボヘミアンは誰か

“Bohemian Rhapsody”は、「レチタティーヴォ」の後、「アリア」に入り、ある人物が母親に人殺しをしたことを告白する衝撃的な歌詞で本編が始まります。「レチタティーヴォ」で”I’m just a poor boy”と言っているのでおそらく若い男性です。この人殺しの場面、”Put a gun against his head, pulled my trigger, now he’s dead,”という描写まで入れて、より凄惨な雰囲気を強めており、「人殺し」が何かの隠喩だったとしても、非常に生々しい表現をしています。

もしフレディが「人殺し」に相当するほどの大きな罪を負うか、深く傷ついた何かがあったとすると、それはなんだったのでしょうか。

「フレディ自身が自身の性的マイノリティの葛藤を歌った曲である」として、”I’m just a poor boy”を「愛に飢えた彼自身」のことだと解釈した上で、彼が”just killed a man”、”I sometimes wish I’d never been born at all”とまで言うほど追い詰められるのはなぜでしょう。元々同性愛が犯罪だったイギリスでは、1967年に男性の同性愛が(第三者がいると思われる場所以外で、という条件付きで)非犯罪化されていますが、社会の理解は(”Bohemian Rhapsody”がリリースされた)1975年当時まだまだ追いついていなかったことは考えるまでもありません。日本に住んでいると想像しづらいですが、同性愛は世界の広い地域で生死に関わる犯罪と捉えられてきた歴史があるのです。

少なくとも聖書の時代以来、ホモフォビアという感情は、同性愛者を死刑や切断刑に処する法律に移し替えられてきた。とくにひどかったのが、キリスト教圏、イスラム教圏、およびそれらの旧植民地だ。二〇世紀における恐ろしい一例は、同性愛者がホロコーストでの排除の標的にされたことである。(中略)今日、同性愛は約一二〇の国で合法化されているが、同性愛を禁止する法律が残っている国も八〇ほどあり、そのほとんどがアフリカ、カリブ海周辺、オセアニア、およびイスラム教圏にかたまっている。さらに悲惨なことをいえば、モーリタニア、サウジアラビア、スーダン、イエメン、ナイジェリアの一部、ソマリアの一部、およびイラン全土では(イランの前大統領マフムード・アフマディネジャドによれば、イランにそのようなものは存在しないということだが)、同性愛に死刑が適用されることもありうるのだ。
スティーブン・ピンカー「暴力の人類史 下」 2011年著

何より、彼はゾロアスター教の敬虔な信者である両親に育てられたため、両親に向けて自身が同性愛者だったことを罪深く感じていたと考えれば、冒頭で母親に告白している点からも筋は通ります。ただそれでも、”He’s just a poor boy from a poor family”は伝え聞くフレディの家庭環境にはどうにも当てはまらない気がします。

また、QUEEN結成前から「QUEEN II」のリリースでバンド活動が軌道に乗るまで、フレディはロンドンの若者向けファッション・ストリートであるケンジントン・ハイ・ストリートで、メアリー・オースティンと古着屋のバイトを(ロジャー・テイラーとともに)していました。当時この辺りは自由奔放な芸術家たち、つまりボヘミアンたちの集まる場所だったそうで、学生時代にアートやデザインについて学んでいたバンドマンであるフレディは、そんなボヘミアンたちの一人だったということになります。この点では、彼こそがボヘミアンであり、本作のタイトルに掲げられ、”easy come, easy go, A little high, little low”な人物としてぴったりと当てはまるように見えます。

テレビ番組で、クイーンの公式ファンクラブのスタッフである女性が、フレディに本作について尋ねたところ、フレディは「relationshipについての曲だ、これ以上は言えない」と答えたと言っていました。人間関係、と訳されていましたが、これは前段の解釈と合致するでしょうか。意味の広い言葉ですので、合致するといえば何でも合致するとも言えます。フレディは他のメンバーに本作の歌詞について詳しい説明をしておらず、ブライアンも曲の説明をすること自体が「自殺行為」だと、その無意味性を主張しています。ではなぜ彼は、メンバーにすらまともに説明しなかった本作の意味を、「relationship」という一言で彼女に説明したのでしょうか。

彼女はその上で本作を、フレディが彼自身のことを歌った曲であり、性的マイノリティとしての彼の思いが込められているというような解釈をしています。公式ファンクラブのスタッフとして、彼を近くで見ていたイメージと掛け合わせることでたどり着いた解釈だと思いますが、本作は、本当にそんな個人的で、ピンポイントで理解されるべき曲なのでしょうか。

どうもこの「フレディが性的マイノリティである自分自身を描いた曲」という解釈は、深読みをし過ぎてしまっているように思います。この曲は本当に、彼がゲイ/バイセクシャルであることを自分で認め、自分らしく生きていこうと決心した、という曲なんでしょうか。

もしかすると、曲名や歌詞の内容を、もっと素直に読んだ方が、フレディの意図はよりわかりやすくなるのではないかというのが、この記事での僕の考えです。複雑な曲構成と突飛な言葉の応酬で、聴く側も複雑に解釈してしまいそうになりますが、それこそが、作曲者でありトリックスターでもあるフレディによる罠かもしれません。

ここで一つ、仮説を立てます。

本作の主人公である青年は、フレディではなく、ボヘミアンでもないとします。

まずアリアのパート。

貧しい家庭に生まれた青年は、何かのトラブルに巻き込まれ、心ならずとも人を殺してしまいます。彼は罪の意識に苛まれ、母に心の中で別れを告げ、自首しようと重い足を引きずりながら刑務所に向かいます。それは、彼にとっては死への旅路です。家族を悲しませ、自分自身も人生の終わりに恐怖する、こんなことなら、自分なんていっそ生まれてこなければよかった……と、ただただ自分を責め続けます。

続いて、演劇的な要素のパート。

その時、目の前に現れたのは、小柄な喜劇役者。稲妻、雷光。喜劇役者は青年を演じ、彼を救おうと声を上げる群衆と罪を贖えと攻め立てる裁判官に翻弄されます。

ここで起こっていることは、青年の前で喜劇役者(スカラムーシュ)を中心に繰り広げられる芝居です。舞台装置、役者、芝居は、芸術家たち、つまりボヘミアンによって作り上げられています。ボヘミアンは、青年に向けて彼自身の物語を舞台化したのです。

このパートについては、Galileo、Bismillah、Beelzebubなどの言葉について様々な解釈が繰り広げられてきましたが、その中で僕が選んだ解釈は、これらは言葉の響きを重視して選んだものであって、実はさほど深い意味はない、というものです。なぜならこれは、ボヘミアンよって作られた芸術的な幻想世界であり、個々のキーワードに惑わされているうちに青年がボヘミアンと化していることこそが重要だからです。ここに、フレディのトリックスターとしての妙技が光っているのです。

つまり、このボヘミアンこそが、作曲者=フレディ本人というわけです。

そして、ハード・ロック・パート。問題は、なぜここで、演劇的な世界から逸脱し、ロックの世界に転換するのか、ということです。

前述の通り、初めのレチタティーヴォ、続くアリア、そして演劇的なパートまでは、すべてオペラの形式を模した構造となっています。これは、ボヘミアン(=フレディ)が、この楽曲をあえてオペラの模倣として作り上げた上で、後半、舞台ごと破壊してしまっている、という風に捉えるべきでしょう。なぜならボヘミアンは、オペラという「古典的な総合芸術」の構築にとどまるのではなく、現代的な、新しい芸術を追求することが本分だからです。言い換えれば、良識人にとって評価の定まったところに止まるのではなく、それらを打ち破ることを求めているのです。

舞台の世界から脱した青年は、ここでボヘミアンとして目覚めます。それによって、世の中のルールに縛られない、自由な生き方を選ぶことのできた彼は、自分を責めるあらゆるものから解放され、ひとり、自由に向かって疾走します。

最後、アウトロで締めくくられますが、このアウトロが、垂直に反転すると、イントロのレチタティーヴォと重なり合います。レチタティーヴォで”Anyway the wind blows, doesn’t really matter to me-to me-“と歌われている部分が、”Nothing really matters to me / Any way the wind blows”とひっくり返っているのは、物語の時系列として、イントロは物語の始まりを語りつつも、その物語は、イントロで語られるより以前のことだからです。

時系列で並べると、
(1)アリア(2)演劇パート(3)ハードロック・パート(4)アウトロ=イントロ(レチタティーヴォ)
となるわけです。

アリアでライトモティーフのように”Anyway the wind blows”というフレーズが出てくる理由は、既にボヘミアン化した青年である物語の語り手が、ボヘミアン化する前の青年を語りながら、時空を飛び越えて彼に”Anyway the wind blows”と語りかけているからです。

仮説によって、辻褄が合ってきたのではないでしょうか。後は、フレディが投げかけた「relationship」について考えてみます。まだこの仮説だけでは、「relationship」とのつながりは不鮮明です。

フレディが言った「relationship」の意味

改めて、青年の行動について考えてみます。青年は、人殺しをしました。人殺しは、許されることでしょうか。彼は自首することなく逃走しました。これは、果たして正しい行動でしょうか。アリアの冒頭を改めて読み直してみますと、”Put a gun against his head, pulled my trigger, now he’s dead,”と書かれている部分、先に非常に生々しい表現だと述べましたが、一方で、ここでは実際に相手の男性が頭を撃ち抜かれ、血が噴き出し、倒れた、といった表現が一切出てきていません。青年が銃口を突きつけ、引き金を引いたら「死んだ」とは書かれていますが、描写が細かいわりに、大事なところが抜け落ちている気がします。「頭が吹き飛び、肉片が飛び散った」とも「頭から血を滴らせながら前のめりに倒れた」とも書かれておらず、青年に殺された男性の描写が、「死んだ」以外に無いのです。当然ながら、拳銃は、引き金を引いたとしても、弾丸が入っていなければ人を殺すことはできません。

つまり彼は人を殺していない可能性があります。しかし殺したと思い込んでいるのです。思い込んだ彼は、絶望し、人生を終わらせようとします。ボヘミアンであるフレディは彼を思い直させるために想像上の演劇を彼の前で披露します。ボヘミアンの洗礼を受けた彼は人を殺していないことに気づき、彼を殺そうとした彼自身の意識を捨て去ります。

ここで発生している「relationship」は、青年と殺された(と思われている)男性、そして「彼を殺そうとした彼自身」の間に起こっています。舞台を進行しているボヘミアンは青年に一方的に影響を与えている超常的な存在ですので、ボヘミアンと青年の間に「relationship」はありません。

当然のことながら、この物語は隠喩によって作られています。青年は聴き手自身であり、殺された(と思われている)男性は、聴き手の実生活における人間関係、そして「彼を殺そうとした彼自身」とは、「聴き手の中にあるネガティブなイメージ」です。

1975年当時、イギリスは「英国病」と呼ばれ、経済成長が長期にわたって低迷していた真っ最中で、物価も上がり、失業者も増え、階級社会の中で労働者たちは無気力感に襲われていました。この状況は、今の日本の状況と比較されることがあります。

今、日本人の多くは(僕自身も含め)将来の不安に苛まれながら生きています。不安は、様々な問題を引き起こします。心の病、いじめ、パワハラ、ブラック労働など、人間関係におけるトラブルは、個人が抱える不安の集積です。集積されてしまった心の持ち主は、時にその重みに耐えられなくなり、最悪の選択をしてしまうことがあります。

僕は、フレディの言う「relationship」とは、このことではないかと思います。

社会で起こる人間関係のトラブルは、人の心をひどく蝕みます。しかしフレディはそんな彼らに”Nothing really matters”と語りかけ、自分で自分を追い詰める人たちに”just gotta get right outta here”と叫ぶのです。

「あなたは人殺しでもしたかのように罪の意識を感じてるかもしれないけど、全然そんなことはない。こんなこと、大したことじゃない。考えすぎだよ。辛かったら、そこからさっさと逃げ出してしまえばいいんだ」

オープンマインドなフレディだからこそ、自己表現を音楽に全力で込めていたフレディの渾身の一作だからこそ、”Bohemian Rhapsody”では、そんなことを訴えているように思えてならないのです。

死にたくなるほど辛い気分でも、”Bohemian Rhapsody”を聴けば、フレディ扮するボヘミアンが幻想の世界に連れていってくれて、聴き終わったあなたにはボヘミアンのような自由と想像力が備わっている……そんな魔法の6分間。ロックバンドだからできる、古典的オペラのパロディからの破壊的な脱皮。劇中劇によって聴き手それぞれの人生を客観視し、戯画化してしまう魔力。

究極の全肯定、他者への慈しみ。現代でも揺るぎなく通じるこの前向きなメッセージを、フレディはなぜ発信することが出来たのでしょうか。僕はその背景には、ゾロアスター教があると思っています。

フレディの中にあるゾロアスター教の「跡」

先に書いた通り、フレディの両親は熱心なパールシー(ゾロアスター教徒)です。

中央アジア〜イラン高原付近に住んでいた古代アーリア人(後にナチに代表されるドイツ人が指すアーリア人は、この当時のアーリア人を拡大解釈した上に曲解した虚構のもの)。その中から、ザラスシュトラ(ギリシャ語読みで「ゾロアスター」、ドイツ語読みで「ツァラトゥストラ」)・スピターマによって紀元前12〜9世紀辺りに誕生したと言われているゾロアスター教は、古代アーリア人が信仰していた様々な宗教をベースにしながらも、神の概念や神との交信を表す日々の儀式に止まらず、「善行を行うべし」という、宗教としては世界で初めて倫理を教える機能を持っていました。これは当時の世の中に対してザラスシュトラ・スピターマが抱いていた暴力や貧困などに対する怒りから生まれたようで、ここから善悪二元論、そして世界が終わりを迎えるという終末論が生まれました(後の仏教における弥勒菩薩やキリスト教におけるヨハネの黙示録などの救世主論/終末論は、ゾロアスター教からの影響だとも言われています)。

3世紀にサーサーン朝ペルシア帝国に国教として認められることで、ゾロアスター教は最盛期を迎えますが、7世紀にアラブ人たちによるイスラム帝国に覇権が奪われるとともに、多くの信者はイスラムへと改宗し、一部はインド亜大陸へと亡命し、信仰を続けました(インド出身のフレディの両親はその流れにいる信者ということでしょう)。彼ら亡命者が「ペルシアから来た人」と呼ばれたことから、現代のゾロアスター信者は「パールシー」と呼ばれています。

ゾロアスター教における、呪文や聖火、善と悪の戦い、というゾロアスター教に象徴的なモチーフは不穏なイメージを抱きかねないものですが、実態としては、全ては外部にある「悪」から身を護るための儀式であり、彼らの呪術はそのほとんどが「白魔術」的性質しか持っていません。つまり、何者かを呪い殺したり、滅ぼしたりはしないのです(犬は善で、カエルは悪なので、カエルはひたすら殺し続ける、という荒唐無稽な行為が過去にはあったようですが)。後の十字軍において、敬虔な修道士であったテンプル騎士団が、当時「ハシシを吸う者」と呼ばれた暗殺者集団(現在の「アサシン」の語源で、麻薬で酩酊しているため、命を顧みずに襲ってくることで十字軍を震え上がらせていました)に「あいつらだけはヤバい」と恐れられていたのは、彼らが麻薬中毒者以上に「神の名の下」では死を恐れずに殲滅に向かう殺人マシーンたちだったからで、このことは、聖地を命がけで奪還(彼らの理屈において、ですが)しようとするキリスト教徒と、いざとなれば自身の命を優先する(勿論、敬虔な信者による反乱もありましたが)ゾロアスター教徒との根本的な違いを象徴しているように思います。

ゾロアスター教がこのような誤解を受けたのは、ペルシア帝国滅亡とともに衰退の一途を辿ったことにより、ヨーロッパに於いて正しい資料や情報が不足していたため、実態よりも大袈裟かつ的外れな方向に解釈が膨らんでしまったことがあります。「マジック」の語源がゾロアスター教の神官の呼称「マギ」から来ていることや、ニーチェが「ツァラトゥストラ」の名を著書に使ったことなどに、誤解の一端が現れています。つまり、ゾロアスター教を本来の教えから捉えると、悪行から身を護り、善行に邁進することが求められている、というわけです(某映画でのフレディと両親とのシーンにも、そのような会話がありましたね)。

フレディは自身の宗教観については、殆ど話していませんし、個人的な思想・信条は音楽には意図的に反映させないように努めてもいました。QUEENのデビューアルバムで”Jesus”という曲があり、キリストの起こした奇跡と彼の誕生の際のエピソードを、福音書をベースにした歌詞で歌っていますが、こちらも彼の信仰とは無関係に、主に新約聖書の持つ物語としての魅力に感化されて生み出されたものと考えられます。フレディの発言や彼にまつわる写真やエピソードを見ても、彼がパールシーであると考えられる節は見当たりません。しかし、「信仰」という形ではないにしても、フレディの中には、彼を育てたパールシーの両親を通した社会の視座が潜在的に焼き付いており、それが”Bohemian Rhapsody”を生み出した際に、自身を苛む「悪」から脱出し、自分が正しいと思う道へと進むよう後押ししてくれるようなメッセージを込めることにつながったのではないでしょうか。親の影響とは、全てが自覚的ではありません。自分個人の考え・意志として取っている行動が、実は親の影響下にあった、ということは、しばしば起こることです。フレディの葬儀はゾロアスター教の教義に則って行われました。それほど信仰の厚い父母からの影響は、発言や行動に具体的な教義の現れとしては出なくても、根源的・本質的な、人が生きていくための親からの教えとして、彼にとって血肉化していたのかも知れません。

“Bohemian Rhapsody”という、他に類を見ない、圧倒的かつ呪術的な楽曲が、聴き手の身を守る「白魔術」であると考えれば、アルバムのジャケットが「白」であることともつながり、実は非常に「ゾロアスター」的な作品であるとも言えるのではないでしょうか。

(ゾロアスター教に関する参考資料:青木健著「ゾロアスター教」他)

“Bohemian Rhapsody”に込められた可能性

以上が、僕が考えた、”Bohemian Rhapsody”の中に込められたメッセージです。

日本でも大ヒットを記録した映画「ジョーカー」について、監督のトッド・フィリップスは、

「今回の脚本やみなさんの反応で面白いのは、みんなが別々の感覚を抱くところ。あるものが何を意味していて、どこが現実でどこがそうでないのか、みなさんが全く違うことを考えるところです。だから、もし僕自身の意見があったにせよ、それをお話しするつもりはありません。普通の映画にはない形で観客を作品に参加させることが、この映画の面白さのひとつだと思っていますから。映画に参加して、どれが現実でどれがそうでないのかを判断するのが楽しいんですよ。」

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と語っています。もしフレディが本作で彼自身のことを歌った、ということが事実だったとしても、それは解釈の一つであるべきですが、僕は、彼がこの曲にかけた魔法は、より広く、国も、人種も、そして時代も超えて様々なメッセージを伝えることのできる巨大な力が潜んでいるのだと思います。そして、現在の本作の様々な解釈を見ていると、本作には、まだ誰も気づいていない様々な物語が、みんなに気付かれるのを待っていることが、確信をもって感じられます。

それではみなさん、もう一度、”Bohemian Rhapsody”を聴いてみましょう。

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