天然知能の創造力によって「アイデア」を招き入れる方法について

2020年、YouTube動画で最も感銘を受けたのは、NewsPicksの宮台真司さん・波頭亮さんによるお話でした。

全編パンチラインの連続で、しかも矢継ぎ早に展開していくので、聴いていて頭が(二つの意味で)クラクラしてくるのですが、中でも印象的だったのが、「天然知能」というキーワード。人は、帰納・演繹的な思考方法だけを続けているとAIなどの機械化で代用できてしまうので、閃きが必要である、といったような文脈ですが、色々と今の生活や仕事、将来のことについてヒントがあるような気がして、郡司ペギオ幸夫さんの「天然知能」を購入し、読んでみました。表紙に描かれた、魚の頭を抱えたカエルの水彩画にギョッとさせられます(魚だけに)。魚の頭にカエルの手足が生えているようにも見えるし、カエルの頭が魚になってしまったようにも見えます。いずれにしても、単にカエルが魚の頭を抱えて日本足で立っている、ということが持つ奇妙さ以上の妄想が広がっていく、魅惑的な絵です。

2019年1月に発行された本なので、既に2年が過ぎていますが、まだまだ新しいと言えるだけの今日性を持っています。

本書の概要は、「自分にとって役に立つ情報のみを集める人工知能(一人称)、客観的知識で世界を理解しようとする自然知能(三人称)ではなく、世界をあるがままに受け入れ、無指向的に取り込んでいく天然知能(一・五人称)こそが、創造的で、自分らしく生きることができる概念だ」ということを、科学や哲学などを用いて解説していく、というものです。

著者は天然知能を「ダサカッコワルイ」と表現しています。

「ダサカッコワルイ」は、かっこワルイことで意図と実現の間にギャップを開き、ダサいことで無際限な外部を呼び込み、意図と実現の間を開きながら閉じ、閉じながら開くのです。(P.212)

「ダサカッコワルイ」という表現から感じられるように、著者ご本人は、一般向けに相当平易に書いたつもりのようですが、さすが理学博士、僕にはついていけない部分も結構ありました。特に要所要所で出てくる図解が、分かりにくいのなんのって……。

とは言え、僕なりに最後まで読んで、さらに読み直しながら赤線を引いたりメモ書きをしたりしていると、色々と驚きや気づきもあり(特に自閉症スペクトラム、統合失調症、普通の人を脳科学・哲学・量子力学を引き合いに出しながら分析して、この三つの中間形態であり、参考関係ないを自由に動き回るのが天然知能だ、という結論に至る展開にはゾクゾクしました)ました。特に僕は、普段広告など販促のデザイン業を行っているので、この本の概念は「アイデアを出すときのプロセス」と同じなのでは、と思いました。

そこで、今回はアイデアを見つける方法について、天然知能の概念と照らし合わせることで明快にし、かつ実践的な型として整理してみることにします。

アイデアを生み出すための基本プロセス

本書には、実践としての天然知能の作動の方法や具体的な効用についてはあまり触れられていません。それもそのはず、本書で天然知能は「待つ」という構えが前提とされていて、能動的に使うものではないし、そもそも目的意識とは相反する概念として設定されているからです。目的を持たず、目的があったとしても、それを脱臼させたり、目的を忘れてあらぬ方向へ進んでしまうのが天然知能だからです。もっと言えば、天然知能とは、普通の人ならば当たり前のように備わっている能力で、しかし多くの人はその「ダサカッコワルイ」状態を悪だと捉えてしまい、無視あるいは拒絶して無かったことにしてしまっているのですから、無視せず素直に受け入れれば、それで問題は解決するのかもしれません。

しかしこれでは、アイデアを生み出すときに「降りてくるのを待つ」と言っているだけ、つまり技術的な鍛錬や練習の積み重ねとは無縁の、「偶然身についたセンス的なものを、直感でなんとなく使う」だけと同じです。いや、きっと同じなのでしょう。天然知能とはそういうものなのでしょう。しかし、ここでは、アイデアを盲滅法に探し回らず技術的に見つけ出すために、天然知能を「作動させる」方法、天然知能を「上手く使う」コツについて考えてみたいと思います。

アイデアは、センスや直感だけで生み出されるものではありません。勿論センスも直感も必要ですが、このような生まれ持った能力に依存しなくても、後天的に身につける技術によって十分カバーできるのです。

この、アイデアを出すための技術は、脳のハッキングです。人間の脳は、人工知能と違って命令系統が筋道だってないところが多く、極めて曖昧な挙動をしますが、ゲームの裏技のように、ある一定のプロセスを行うと、特定の部分が高速回転したり、開かなかった引き出しが開いたりすることがあります。アイデアを出すための技術は、脳をハッキングし、効率的にアイデアを出力するためのプロセスというわけです。

それではまず、アイデアはどうやったら生まれるのか、その基本を確認しておきます。この点についてはやはり、ジェームス・W・ヤングの有名な命題から始めるしかありません。すなわち、

「アイデア=既存の要素の新しい組み合わせ」

です。数十年前に提示された命題ですが、シンプルゆえに未だ古びることなく、完璧に通用します。アイデアの源泉は、今まで誰も見たことのない奇抜なものや全く新しい思想や概念の中にあるのではなく、既知の、古さや新しさも関係のない、今まさに周辺に存在するものの中から選ばれた組み合わせにあるわけです。おそらくこの命題が今後変わることはないばかりか、物も情報も飽和し、新しいものが生まれにくくなっていくことを考えれば、ますます重要な命題となるでしょう。

言ってしまえば、現在書店で売られている「アイデアづくりのための指南書」の多くは、このジェームス・W・ヤングの変奏曲のようなものがほとんどです。いわゆる「standing on the shoulders of giants」というやつです。

僕も一時期その手の本を何冊か読み続けていましたが、どの本も大枠は同じようなものでした。この入り口から進むべきルートも基本的な骨格は大差ありません。つまり、

アイデアを生み出すための第一段階:データを集める。
第二段階:データを咀嚼する。
第三段階:一旦忘れて他のことをする。
第四段階:アイデアの出来上がり。

という感じのプロセスを踏んでアイデアは形になります。

第一、第二段階は、「アイデアを出そう」と業務に取り組む人が行う作業としてはわりと普通のことです。クライアントからお題を出された時に、そのお題に沿った様々なデータを、可能な限りたくさん集めます。集められたデータは、じっくり読み解き、理解し、アイデアの下地として自分の中にため込んでおきます。ここまでは、職場で勤務時間中にできる、一般的な、外から他人が見ても「仕事をしている」感じがします。

第三段階は、できれば勤務時間外に行った方がうまく行きやすいです。外から他人が見て「仕事をしている」感じがしないプロセスです。また、この段階の作業で「アイデアが見つかった」という体験をしないと、確信を持って取り組みづらいかもしれません。しかし、旧態依然としたサラリーマン的枠組みでアイデアを出す作業を行うことは、この第三段階を使いこなせるようになると、非常に非効率になってくる場合があります。

「一旦忘れて他のことをする」は、集められた情報を脳内にストックし、馴染ませるための一呼吸と、その後、集められた情報と、過去に脳内にストックされている情報を、境目なく一気に解放して、混ぜ合わせるためのプロセスです。

「外部」からアイデアの素を招き入れる準備

「天然知能」の中で、郡司氏は、アメリカのモーテルでの体験を語っています。そのひなびたモーテルで手続きに並ぶ人は、自分以外はメキシコ系の顔立ちをして、体には刺青が彫られている、いかにもいかつい男性ばかりで、その風貌に郡司氏が臆しながら並んでいると、そこに老婆が入ってきます。彼女がガラス扉のそばまで来た時、郡司氏が警戒していた男性はおばあさんが入れるように、扉を開け、彼女がゆっくりと室内に入るのを待っていたというのです。警戒による緊張の糸がほぐれた軍事史の頭に浮かんだものは、なぜか蜂蜜をかけた塩辛いベーコン、豆のペースト、太いキュウリといった食べ物のイメージでした。この、無自覚に、無関係なイメージが溢れ出す現象について、郡司氏はこう書いています。

「無意識」と想定するしかないものが我々のなかにある(=天然知能)ということです。(P.62)

他にも、足の指をぶつけた際に起こる「痛い」という意識が、同時に(上記のベーコンやキュウリのように)侵入してくる様々なイメージによって逸らされたりはぐらかされる現象についても書かれていますが、つまり脳内には意識的に制御できない、ある種の「外部」があって、時折それが意識の中に漏れ出してしまうことで、想定外のイメージが浮かんでくる、ということです。これは、第三段階でアイデアを見つけ出すプロセスには非常に合致します。

郡司氏は、天然知能について、「外部を取り込む」ことの重要性を繰り返し述べています。

決して見ることも、聞くこともできず、全く予想できないにもかかわらず、その存在を感じ、出現したら受け止めねばならない、徹底した外部。そういった徹底した外部から何かやってくるものを待ち、その外部をなんとか生きる存在、それこそが天然知能なのです。(P.9)

外部から押し寄せるイメージによる理解は、停止しません。不定な文脈は、一個の文脈に留まることを許さず、そこにあるのは逸脱の連続です。(P.89)

言葉もまた天然知能なのです。言葉を並べることで、組み合わせどころか、逆に外部の、想定外の意味が招喚されるのです。(P.126)

天然知能は、無から有へと起源するものではなく、以前からぼんやりと存在し、絶えず外部を待って、外部の到来によって変質しながら、以後も存在するのです。(P.156)

「外部」と言っても、現実の世界に肉体として存在している自分自身の外側からの干渉を起こすわけではありません。天然知能においても、

つまりわたしは、むしろわたしの内部に、外部・他者を内蔵している。それはわたしが勝手にでっち上げたものではなく、わたしの真の外部なのです。(P.64)

と考えられています。

郡司氏は、人工知能、自然知能は外部を取り込まない、一見外部に見えるものも、予測可能で想定範囲内の、有益かつ合理的な外部なので、本当の外部とは言えない、と言います。アイデアについても、「既存の要素の新しい組み合わせ」を生み出すには、外部につながらなくてはいけません。しかし、職場にいると、そこには内部しか存在せず、外部に移動しようとしても、内部に引き寄せるバイアスが非常に強く働いているのです。視界に入るものは既視感のあるものしかなく、ネットに接続しても自身の内部から発せられるキーワードでしか検索できず、結局内部をずっとウロウロしてしまいます。周囲の環境に反応してしまい、硬直している内部の強い意識が硬い壁となって、脳内にある外部が、内部に侵入できなくなるのです。

このために、内部の強張った意識をほぐし、情報が自由に出入りできる状態にするためには、第一・第二段階で詰め込んだ情報を、一旦棚上げしなければなりません。情報が詰め込まれていると、それが外部からの情報の出入りを止めてしまうからです。

ですから、アイデアを出すためには、職場のデスクのような場所に自らを固定していると、内部の強い意識はほぐれるきっかけがありません。そのために、「外部へつなげる場所」へと移動し、意識の調整を図らなければならないというわけです。

言い換えると、「外部へつなげる場所」でのアイデア探しとは、第一、第二段階で下地作りをしたデータを反芻する際に、自分自身の内部にあるものを、データの下地の上に放流し、混ぜ合わせる、ということです。

「外部」を招き入れ、アイデアに結実するための実践

僕にとっての「外部へつなげる場所」は、「風呂場」です。僕は家庭内で一番最後に入浴するので、風呂上りにはそのまま風呂掃除をします。入浴に約30分、掃除に約30分、計1時間の間、体を洗い、掃除をするという行為に没頭しながら、頭だけはアイデアを探してフル回転させます。帰宅までの電車内で仕事と無関係の本を読み、駅から自宅までの道すがら、音楽を聴き、帰宅後に家族と世間話をしていると、脱衣所に来る頃には脳はすっかりほぐれています。しかし、ほぐれたままでアイデアが自動的に生まれるわけではありません。そこで、入浴・風呂掃除をします。入浴・風呂掃除は単なる習慣なので、脳はほとんど使いません。無意識のうちに風呂の蓋を開け、石鹸を取り、湯をかけ、湯に浸かり、入浴後は換気扇のスイッチを入れ、ブラシを手に取り、洗い流し、排水溝の髪の毛をゴミ箱に入れます。このタイミングで、アイデア探しの脳内探索を始めると、脳内の外部から、じわじわとさまざまな情報がにじみ出してきます。これらを、意識というテーブルの上に広げて、パズルやブロックのようにつないでみたり外してみたりするわけです。

「内部にのみ意識が集中してると見つからない、特に脈絡もなく外部から侵入してきた無関係なパーツが、つないでみたら意外にもぴったりと合わさった」。
これが、アイデア誕生の瞬間です。

天然知能は、文脈の逸脱にこそ、その本質があります。(P.169)

この際、この外部(とされている自分自身の内部)に蓄積されている内容によって、アイデアの良し悪しが左右されます。「アイデア=既存の要素の新しい組み合わせ」ですが、「新しい組み合わせ」のためには「既存の要素」があまり似たり寄ったりですと、「組み合わせ」が「新しい」ものになる可能性が低くなってしまいます。脳内にある「既存の要素」は、日々の蓄積がものをいいます。外部も内部も、アイデアの源泉は自分自身ですから。

例えばビジネス書や自己啓発書ばかり読んでいる人は、即効性があり、表面的には役に立っている実感があるのでしょうが、アイデアの素材としては新しい組み合わせを生み出しづらいと思います。むしろ漫画を読んでいる人の方が、クライアントの事業や日々の業務とはかけ離れたところからネタが持ち込まれるので、データの下地と混ざり合ったときに、意外な組み合わせを見つけられるかもしれません。とは言え、「ONE PIECE」や「鬼滅の刃」、「スラムダンク」だと、誰もがアイデアの素材として使いすぎていて、「新しい」ものにできる可能性は低くなってしまいます。そういう意味では、テレビからの情報も脳内に蓄積する場合には注意が必要でしょう。ちなみに僕は、なるべく仕事とは全く関係がない本を読むようにしています(というか仕事に関係する本を読むのは、若い頃にやってもううんざりしました)。

「外部へつなげる場所」は、人によって違うと思います。できるだけ集中できて、自分の脳内を探索できる状況が良いので、なるべく毎日ルーティンにしている行動を使うのが良いと思います。例えば通勤時を利用するなら、全く同じ道を通れば、景色や周辺の看板や広告に気を取られないので集中できるでしょう。

というわけで、天然知能という考え方を通して、誰もができるアイデアの生み出し方について整理してみました。天然知能については、本記事は単なるいち解釈ですので、誤解や読み違いもあるかと思いますので、詳しくは実際に読んでみてください。読む人ごとに発見のある本だと思います。

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