「レ・ミゼラブル」完訳版を通して読んでみた(まだ読んでない人、これから読もうかと考えている人へ)

ヴィクトル・ユゴー「レ・ミゼラブル」新潮文庫版全5巻を読みました。

完訳版に挑戦してみたかった

きっかけは、トム・フーパー監督、ヒュー・ジャックマン主演版の映画を観て感動したこと。文庫版で約2,000ページもあり、しかも読みづらいとも言われていたので、原作に手を出すことに及び腰になっていましたが、児童用の編集版で済ますのも癪だと思い、その後、みなもと太郎版解説書などを読み、準備を整えた上で、完訳版に挑みました。


冒頭から読みづらい……

結果、冒頭からミリエル司教の生い立ちを100ページぐらい読まされて、早速くじけそうになり、その後も随所にワーテルローの戦いだの当時のパリの街並みだの隠語だの下水道だのの(辟易とさせる)長々とした解説が挿入され、その度につらく苦しい思いをしましたが、事前の予習のおかげか、読む気持ちが断たれることなく、なんとか最後までたどり着きました(本書は主にユゴー本人が語り手であるような書き方をされていて、書き手が「私」と言って、自らの思想や哲学を披露したり、個人的な思いやエピソードを語ることもあるのですが、この余談(まさに「余談」と題された章すらある)についての言い訳まで書かれていて、これまた話の続きが読みたい身としてはまどろっこしい)。

でも本筋は意外に読みやすい

実はこの、物語の流れを寸断するうんちく部分を除くと、本書は意外に読みやすく、話は割とさらりとスムーズに流れていきます。物語の中で非常に悲しいシーンである、ファンティーヌが堕ちていくところ、コゼットがテナルディエ夫人にいびられるところなどは、今時の語り口からすると結構あっさりしていて、ネチネチと辛い描写が続かない分、この手の話が苦手な僕にはありがたく感じました(この辺りをしつこく描写してほしいという趣味の方には不満が残るかもしれません)。

逆に、非常に感動的な場面も、それほど長々と引っ張らないので物足りなく感じそうなところですが、そこはそもそも詩人として名を馳せたユゴー、短い中にも痺れるような語り口で涙腺を刺激します。ジャン・ヴァルジャンに優しくも厳しい言葉を投げかけるミリエル司教、マリユスの訪問を待ち、腰掛ける石さえも愛おしそうに愛でるコゼット、自分の命を救った存在に気づき、矢も盾もたまらず飛び出すマリユス……。

善悪の表現が、実に味わい深い

本書のオリジナルの発行は1862年。今から150年以上前ですが、そういった時代の差によるものなのか、本書がいわゆる「善・悪」を明確に描写しているわりに、登場人物たちの描写は型通りの善悪に当てはまるような性格には見えません。

ジャン・ヴァルジャンは運命を左右する決断を何度も迫られますが、その度に善悪の間で揺さぶられ、存分に苦悩します。彼は根っからの善人ではなく、悪にとらわれながら、必死になって善行へと向かおうと努力し続ける、言わば「普通の人」です。彼を導いたミリエル司教ですら、銀の燭台のエピソードで見られる完璧なまでの正義がいつもゆるぎなく発揮されているわけではありません。

悲劇のヒロインであるファンティーヌは、結構自業自得なところがあるし、ジャベールは何も悪いことはしていないし(ジャン・ヴァルジャンは窃盗と脱獄を重ねていて、彼を逮捕することは正当で、ただそれによる罰が大きすぎるというだけ)、原作を読んでいると、結構格好良く描写されていたりします。テナルディエは「こいつはどうしようもない悪人です」と語られているわりに、社会の底辺で必死にもがく彼の発言や行動には、ある種の共感や同情すら浮かんできます(それでも悪人だと言いたかったのか、最後は渡米して奴隷商人になりましたというオチまでつけられていますが)。

本作を原作の完訳で読むことの魅力はそういった、簡潔に語ると見えなくなってしまう、各登場人物の、紋切り型ではない人間性に触れられるところにあるように思います。ユゴーが「こいつが善で、こいつが悪だ」と振り分けていることも気にかけず、彼らは彼ら自身の人生を、著者の手を離れて生きているようなのです。

最高に魅力的な少年・ガヴローシュ

特にユゴーの手を離れている印象があるのは、ガヴローシュ。本書の登場人物で最も輝き、魅力的なのはやはりガヴローシュですが、彼の生き生きとした描かれ方は、物語中でも群を抜いています。ネグレクトされた彼が、あらゆる束縛から自由になり、話の上でもユゴーの筆の上でも奔放に駆け回っていたのだと思うと、大変痛快でもあり、そして彼の人生を思うと少し切なくもあります。

レ・ミゼラブルは完訳版で読むべきか否か

さて、長く苦しい、でも感動的な完訳版ですが、編集版ではなく完訳版で読む価値は、それでもあると思います。おそらく児童向けの編集版の小説だと、余談の類をバッサリ切って、読みやすい部分をつなぎ合わせた内容なんだろうと思いますが、話だけを追う分にはそれで十分です。僕は、読んでいてフランスに精通していないとわからないようなところ(ユゴーは明らかに当時のフランス人に向けて書いています)は、理解しようとしても無駄なので軽く読み流していました(その他訳注が入るような人物名が連発し、注釈を読んでも意味がわからないことも頻発しましたが、気にしませんでした)が、それでもこの余談があるのとないのとでは本書の描いている世界の大きさや厚みは随分違った印象になります。

完訳版を楽しむために挿絵は結構重要

ただ、冗長な余談含めて何の予備知識もなく通して読むのはなかなか苦しいかもしれません。もし本書のあらすじ含めて何も知らないのなら、そのまま頭から通して読むとその先には大きな感動が待ち受けていると思いますが、そうであっても、僕が読んだ新潮文庫版ではなく岩波文庫版が良いかもしれません。岩波文庫には挿絵が入っているからです。挿絵の有無は、イメージを補完する上でかなり重要です。僕も事前に「レ・ミゼラブル百六景」という、当時の挿絵を追いながら時代背景含めた物語の解説をしている本を読んで、脳内で挿絵を思い出しながら読んだことで理解の進んだシーンは沢山ありましたので(「百六景」自体、著者が挿絵なしの原著を読んで脱落した後、挿絵付きの版を読んだらはるかに分かりやすかったという経験が元になって書かれていますし)。

もしあらすじを知っていたり、映画やミュージカル、漫画である程度知っている人は、先の「レ・ミゼラブル百六景」と併せて完訳版を読むと、時代背景を踏まえながら読み進めることで理解しやすくなります。

あと、前述の通り、理解しづらいフランスの細かい話や次々に登場する聞いたことのない人物名やややこしい例え話など、理解できなくともさほど問題はないので、わからなかったらBGMだと思って流し読みしても結構大丈夫です。

翻訳は読み比べていないのでなんとも言えないのですが、今普通に手に入るのが新潮文庫版と岩波文庫版しかなく、ちくま文庫版が2000年以降の翻訳で読みやすいんじゃないかと言う気がするんですが、なぜかアマゾンでも最終巻だけプレミアがついていたり、おかしな状況です。岩波よりも新潮の方が新しい訳(とは言え50年は前ですが)ですが、さほど読みやすくもなく、良い文章という感じもありません。ただ、5部構成を部ごとに分けられた新潮の方が心理的に読み進めやすいという気がしますが、この点は好みの違いでしょうね。

そうそう、一点注意しておかなければいけないのは、新潮文庫版をアマゾンマーケットプレイスで購入する場合のカバーの表紙です。初期のタイポグラフィーのみのシンプルな表紙、リーアム・ニーソン主演版の映画を用いた表紙、最近のイラストを使った表紙が混在しているので、5冊バラバラに買うと、背表紙はそろいますが、表紙は全く統一感がなくなること請け合いです。これが許せないという方は新品で購入されるかセット販売されているものを買いましょう。僕は1巻がイラスト、2・3がタイポ、4がリーアム・ニーソンで5がタイポという揃わなさで、本文も活版印刷時代のものが混ざっていたりして、全く統一感なし。でも、巻ごとに話は一応一区切りするので、気にならないといえば気にならないです。

というわけで、あまり売れないのか、現代的に読みやすくした新たな翻訳のないレミゼですが、完訳版でも全365章を1章ずつ読むと1年間で完読できるということですので、試してみてはいかがでしょうか(ちなみに僕は通勤時に読み続けて3ヶ月ぐらいかかりました)。

あ、Kindle版が無料でありました。

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