反復する遅読者〜4年前に読み、ブログに感想まで書いたのに内容を全く覚えていない本を4年後に読み直してもう一度感想を書く

最近、会議の席で、矛盾した話をする人に対して、論理を明確にして欲しくて、ややしつこく説明を乞うていたら、なんとなく場の空気が悪くなり、最終的に矛盾に対する疑問が解けないまま、なんとなく笑って誤魔化す、という場面が続けてありました。本日のお題である「論理トレーニング101題」という本には、本の最後を締めるような言葉として、こう書いてあります。

論理トレーニングの成果は、親、兄弟、友人、恋人、そしてとりわけ配偶者に対して無分別に発揮してはいけない(1)初心者がうかつに論理的分析力を発揮して批判すると、(2)少なくとも現在の日本社会においては、人間関係を損ねるおそれがある。刃を研ぎ澄まし、懐中に忍ばせておく。そして、ここぞというときに抜くのである。どういうときが「ここぞ」なのか。残念ながら、本書はそこまでめんどうを見ることはできない。読者諸氏のご自愛を願ってやまない

この本は、論理力を鍛えるために、実際に世に出された日本語の様々な文献を抜粋し、その文章を使って、接続詞の使い方から演繹・推測、批判や質問の立て方を、著者の指導を受けながら理解していく、ちょっと変わった問題集です。

僕はこの本を4年前に一度通して読んでいましたが、普段の仕事における作文力や文章の理解力を改めて鍛えようと、最近になって(上記のような出来事の少し前)再び頭からページを開いていくことにしました。というのも、以前読んだときにはなかなか答えにたどり着くことができず、著者の解答に首を傾げたり読み込みの甘さを痛感させられたり、半分ぐらいは挫折したような記憶があり、いつか読み返そうとずっと思っていたところ、積読していた本(通勤に持っていくには重すぎるハードカバーの分厚い本を除く)をある程度読み終えたので、4年を経てようやく再読の機運が満ちたのです。

読み直してみて何より驚いたのが、出てくる例文も解説も、ほぼ何も覚えていなかったことです。とにかく新鮮。普通に面白い(元々、問題として引用される原文が興味深いものが多いので、それだけでも結構楽しめる本なのです)。初めて読んだとしか思えない。毎ページ、全く新しい情報に触れるような感動がありました。自分でもまさかこんなに覚えてかったとは思わず、得したような気分になるやら記憶力のなさ加減に情けなくなるやら。

しかし読み進めていくうちに、意外なことに気づきました。以前読んだ時よりも、正答率が上がっているのです。

初めに読んだ時は、自分に論理的な読解力がないことを思い知らされるほど、次々と間違っていましたが、今回は思った以上に読み解けています。後半になって難題が増えてくるとやはり相当苦しくなってくるんですが、それでも以前に比べ、読了までの時間も、はじめは何ヶ月もかかっていたので、2週間強と遥かに短くなっていました。
僕はこの本を読んだことで、曲がりなりにも少しは論理力が身についていたらしく、本文中の問題の解説を読みながら、自分がまさにその解説によって今の論理力を身につけたのだということを、普段の原稿作成の思考プロセスを振り返って思うのでした。

本人は問題の内容もすっかり忘れているのに、何故か確かな「学び」を得ていたという不思議。すごいな読書。というか野矢先生がすごいのか。

そして本書も後半あと数問というところまで差し掛かった時、僕はある予感に襲われ、動揺しました。それは、

「この本のこと、昔ブログに書いた気がする……」
ということでした。

恐る恐る、自分のブログの履歴を探してみたら……。

「歯応えがありつついちいち面白い本「論理トレーニング101題」」

ありました。なんということでしょう。内容も覚えていなければ、それについて感想文を書いたことすらも忘れていたとは。まさかここまで自分の記憶力が悪いとは思いませんでした。

しかしこのことは、読書の力をある意味浮き彫りにしたとも言えるかもしれません。それは、読書とはたとえ内容を覚えていないとしても、読書によって受けた影響までをも失うとは限らず、むしろ読書の力とは、情報レベルの知識や教養ではなく、態度の変容や考え方の変化、世界を見る感覚など、もっとフィジカルな部分での作用にあるのではないかということです。

いやでも待てよ。これは、本の内容を覚えていないんじゃなくて、本を読み、学び、応用していくというプロセスを進めていくうちに、最初の「本を読み、学」んだことを忘れているだけなのでは……。

でも、ということは、本を読み、学んだことすら忘れていたとしても、人は読書によって学び、身につけたことは結構残っているものだ、ということです。つまり読書とは、自分はすっかり忘れたし時間の無駄だったと後で思ったとしても、そうとは限らないケースがある、ということですね。

さて。このブログ記事の文章、ちゃんと論理的に書かれたものになっているのでしょうか。僕はブログの文章は推敲しないのでダメダメだと思いますが、お金をもらって書く文章はちゃんと何度も推敲しますので、仕事のスキルは上がっている……はずです。

以上、遅読者の記憶の不思議について、でした。

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