忘れる遅読者〜覚えている本いない本〜

読書を趣味にしていながら、読むのが遅いために読みたい本が思う存分読めない、というのは、読書好きの遅読者が共通して抱える悩みだと思いますが、もう一つの悩みとして、「読んだのに覚えていない」という悩みは、遅読者の方々にはどの程度共感してもらえるでしょうか。

遅読と因果関係のある現象かどうかもよくわかりませんが、読了後、読んだ内容をとにかく忘れます。何か印象的な断片は記憶に残っていたりしますが、それ以外は跡形もなく消えることがあり、しばらくしてから読み返してみても、内容を何も思い出さないまま、とても新鮮な気持ちで最後まで読み進めることがあるほどです。ひどい時は、本の内容を丸々忘れて、「いい本だった」という印象しか残っていないこともあるぐらいです。

また、記憶していた内容が後で脳内で変わってしまうことは日常茶飯事、記憶していた内容と、その内容が記載されていた本が脳内で入れ替わってしまうこともあり、「確かこの本に載っていたはず」と思って開いてみても一向に見つからず、全く別の本に載っていることも何度かあります。

若い頃はもうちょっと覚えていたような気もしますが、今とあまり変わらない記憶力だったような気もします。

人間の記憶の仕組みというのは不思議なもので、覚えやすいものと覚えにくいものが世の中にはあり、それらを漠然と「覚えやすい/覚えにくい」とだけ捉えていましたが、何かそこには脳が記憶するための機能とのマッチングの良し悪しがあるのでしょう。

僕は駅名や地名がなかなか覚えられず、人に道を聞かれたときに、いつも答えた後で「間違って教えたのではないか」と不安になります。例えば「御堂筋はどちらですか」と訊かれた時に、頭の中に「確かあのあたりが御堂筋だったな」となんとなく絵が浮かび、それが現在地からどちらの方角だったかを思い出し、「あちらの方です」と指し示すのですが、その指し示した方角に、自分が「確かあのあたりが御堂筋だったな」と思った場所が本当にあるのかが不安になるのです。もし記憶している御堂筋の風景に「御堂筋」と書かれた大きな看板があったとしたら、不安は薄かったかもしれませんが、記憶しているのは所詮、道路や信号、ビル群、植木という、日本全国どこにでもあるような珍しくもなんともない情報しかありません。「御堂筋」という名前に、その名を冠する場所を象徴するような明確なものがないからです(本当を言えば、御堂筋沿いには御堂、お寺さんがあり、大阪では東西を「通り」、南北を「筋」と呼ぶので、御堂さんのある南北の通りを御堂筋と呼ぶので、その知識があれば導き出すことは可能ですが)。地名の漢字には元々意味があるはずですが、もはや今の時代にその意味に該当する景色が残っていることはほとんどありません。心斎橋に橋はないのです(しかもWikipediaには「かつて存在した長堀川に架かっていた橋」と書いているではありませんか。それでは今ある長堀橋という呼称とごっちゃになってしまう……)。

人の名前が覚えられないのも、山本さんの顔が山っぽくなかったり、黒部さんが全然黒っぽくなかったり、水木さんに水っぽさも木っぽさもないからで、人が何かを覚える時には、ただなんの理屈もなしに単純に覚えることは非常に難しいです。例えば語呂合わせで年表や電話番号が覚えやすくなるように、名前とその対象とを結び付けるためには、間をつなぐ何かがあることで、その難しさは随分緩和されます。

新記号論という本に、「中国語の部屋」という思考実験について書いてありました。以下、その概要について同書より引用します。「中国語の部屋」とは、

ある小部屋に中国語も漢字もできない英語ネイティブでアルファベットしか知らない人物を閉じ込めておく。部屋の外にいる中国語ネイティブで中国文字(漢字)を読み書きする被験者は、その小部屋のドアの隙間から、中国文字(漢字)で書かれたメッセージを差し入れる。内部のひとは漢字リストと首っ引きで英語で書かれたマニュアルの指示通りに返答を書いてドアの隙間から外に出す。これをなんども繰り返す。すると中国語ネイティブので中国文字(漢字)を読み書きする外部のひとは、すらすらと感じで返事をよこす内部のひとは中国語の意味を理解し中国語で考えていると信じるようになる。しかし、現実には、決してそのようなことはないし、その英語ネイティブの内部のひとが部屋から出てくれば中国語も中国文字もなにひとつ理解していないことが明らかになる、という、「強いAI」を否定するための議論である。

ジョン・サールによるこの思考実験に対して、本筋としての「強いAI」、つまり自ら思考する人工知能についての否定的な論について、著者である石田英敬は同意しながらも、ここで扱われる「中国文字」について異を唱えています。

ぼくはサールが、このような例でもって、人工知能は思考するかを議論できると思っているのは、かれが中国文字(漢字)を知らないからだと思う。中国文字(漢字)がパースの用語で言えば、アイコンのレベルからシンボルのレベルへと複雑に発達した文字システムだ。たしかに中国語も漢字も知らない人間が漢字で書かれた文章と漢字のリストだけを与えられたとして、漢字をマスターできるか、中国語のセマンティックスができるかといえば、事実上は難しいだろう。しかし、思考実験として、論理的には、中国文字(漢字)の部屋に閉じ込められたまったくちがう言語ネイティヴのひとは、漢字リストを手にして十分に長い時間−−たとえば数世紀(!)−−をかければ、中国文字(漢字)を部分的には読めるようになるはずだとぼくは思うわけである。なぜなら、漢字とは、西欧アルファベットのような、完全にシンボリックな−−すなわちシンタクティックな−−文字システムではないからだ。そのよい例が、日本人のケースだ。六世紀の日本(ヤマト)人の文字状況は、ヤマト語という全く異なる言語のシンタクスとセマンティクスを持った人間が、中国文字(漢字)の部屋に入れられたケースであって、その日本人たちは数世紀をかけて漢字を読み書きできるようになったのではなかったか。

つまりアルファベットの場合、一文字ごとに意味を持ってはいませんが、漢字の場合は一文字ごとに意味があり、現実にあるものを絵としてシンボル化したものから、意味を剥ぎ取らないまま発展しているので、アルファベットの組み合わせとは違い、言語を知らなくても理解できる可能性があるのではないかということです。この主張が、「駅名・地名・人名が覚えづらい理由」として「記号」という言葉をつなげるきっかけでした。

人が記憶する仕組みと記号論。この二つについて意識し始めた自分にとってうってつけだったのが、「もの忘れと記憶の記号論」という本でした。

この本は、人間の記憶する能力とそれを忘れたり思い出したりする現象について、記号論を用いて考察している一冊です。第一章ではまず、記号論の成り立ちから説明しているので、パース、ソシュール、そしてヤコブソンやレヴィ=ストロースと、哲学や言語学の世界から始まります。哲学書には挫折とつまずきばかり繰り返してきた僕にもある程度は理解できるようにか、要点だけまとめてくれています。人間の言語によるコミュニケーションの仕組みを記号の処理として読み解き、それが非言語の領域にも適用できる、ということで、記号研究の歴史から実社会における記号性について(街中のサインや信号、人の態度や表情といった非言語なものは大まかに、「兄/弟:brother」のような体系の差異など、言語については比較的詳しく)まとめられていますが、本題となる記憶の話には入らず、この章は前提知識の確認に集中しています。

第一章で、人間の言語習得に至るまでの記憶のプロセスを辿ります。この章では、本書の通奏低音ともなる「三項関係」が登場します。三項とは「類像」「指標」「象徴」の三つ。これらは記号論における表現ですが、人間の幼児における発達の順序に当てはめると、「感情」「注意」「概念」となり、生まれて間もない赤子が一方的に自身の感情を発するのみだったのが、外部の存在に注意を向けるようになり、やがてその関係性を概念として理解していく、という「言語化」までの三つの段階として示すことができるというものです。

言語能力が未だ十分でない幼少の頃に経験したことは、(言語記号に見出せる)象徴性が十分に発達していないために、主として類像的・指標的な非言語的な(=無意識の)記号として記憶の基層に保持されることとなる。そして言語能力が発達した後でも、強く感情に働きかける経験や繰り返し注意を向けた事柄は主として類像的・指標的(=非言語的)な経験として無意識化されることになるだろう。

上記引用部に、この三つのうち、言語化以前の記憶が非常に強く残ること、それが幼少期に限らないことが示されています。感情と反復によって、人が無意識に記憶していく機能については、遺伝子レベルのことも含みつつ、我々が日々の生活の中で考えずに行っている行為(通勤・通学の道順や衣服などの着脱)のことを指していますし、読書で起こる「覚えている箇所」「覚えていない箇所」の違いが起こる仕組みについても当てはまるでしょう。幼い頃の勉強には、そもそも関心がないために執拗に反復して記憶に定着させますが、大きくなってからの学習は、気づきや発見、驚きといった感情への働きかけのあったものが学びとなります。学業において生徒の興味・関心を誘うことの重要性が、反復と同様に大切であるということですね。

本文中では、ジャングルの中で狼に育てられた少年や虐待を受けていた少女など、幼少期に通常通りの言語習得ができなかった子どもの実例をもとに、言語習得の時期が早いほど記憶に定着しやすい傾向についても説かれています。第三章では、そんな幼少期の記憶ほど忘れ難く、後になって記憶していくものと大きな違いがあることを、数カ国語を堪能に操る言語学者のヤーコブソンが、数十年のアメリカ生活で英語を使って生活していたにもかかわらず、交通事故に遭った際に無意識に口にしたのが母国のロシア語だったことなどの例も踏まえながら綴っています。

ヒトの場合、新しい情報は右脳で、そしてそれが繰り返し使用されてパターン化した情報になると左脳で処理され、言語についても、初めての言語の習得である母語は右脳、そしてそれは年とともに左脳で処理されるようになり、大人では左脳で処理されることになるということ、そして第二言語は母語を土台にして習得されるところがあるため、右脳と左脳の両方が用いられる傾向があるという(ゴールドバーグ、藤井訳 二〇〇六)。このことが興味深いのは、右脳は主として感情に、左脳は主として習慣化した言語のパターンが創り出す論理性に関係するところがあるからだ。

上記の(孫引きのような)引用を読むと、受けた情報をまずは一旦生のまま右脳が受け取り、それを整理して使いやすい形に加工したあと左脳に渡し、左脳は加工されたモジュールを適材適所で実行していく、コンピュータかロボットの製造のようなイメージが浮かびますね。つまり記憶するというのは、右脳の中で滞留しているものと、左脳に実行プログラムのように定着している状態で、二箇所に分かれて保存されているということならば、読書体験や駅名・人名の類は右脳に滞留していて、駅名・人名ならば反復しているうちにモジュール化して左脳に送り込まれ、読書体験などは何度も読み返すか、強く感情を動かされた体験でもなければ、右脳の中で埋もれてしまうのかもしれません。

また本章では「チャンク」という概念も登場します。人は言葉の連なりを習慣的な無意識下に「塊(チャンク)」として記憶して、状況に応じて半自動的にそれらを使用することで日常生活を営む、というもので、これによって数多くの判断を無意識に瞬間的に行うことができる反面、

パース は近くも意味解釈によって生ずること、そしてそのような解釈の習慣性が無意識と関係していると述べて、「普通の人は校正刷を読むとき、誤りを勝手に修正して読んでしまう……(CP 5. 185)という例をあげている。ここでは文字を読むとき、無意識のうちにそれを一つのチャンクとして習慣的に解釈して読んでしまっていることが示されている。すなわち、反復→習慣化→自動化・無意識化(意識しない)という流れが指摘されている」

という「読んでいるようで読んでいない」現象を生み出してしまいます。文字校正は複数人で行うこと、できるだけその文章作成に関わっていない部外者も交えて行うことによって、誤りを見つける可能性を高めますが、それでも、誰もが共通して持っているチャンクの中に誤植が紛れていた時に、発見は非常に困難です。ずいぶん前に「こんちには みさなん おんげき ですか?」のような、「間違っていても読める文章」というのが話題になりましたが、「こんちには」を誤植と判断するのが大変だということは、このことからも直感的に理解できるでしょう。

翻って読書体験において、「物理的に文字は追えていても、内容が頭に入ってこない」、つまり「読んでいるようで読んでいない」現象は、状態としては逆(前者は文字が読めていないが内容は読み取れている、後者は文字は読めているが内容が読み取れていない)このチャンクの起こしているような作用も影響しているのではないでしょうか。

第四章で、ようやく「もの忘れ」、それも加齢が引き起こす仕組みについて分析しています。年齢を重ねていくうちに記憶の中から消えてしまうものと、いつまでも記憶し続けているもの。その、「忘れやすいもの」と「忘れにくいもの」にどのような違いがあるのか。

まず、人間が持つ原初の感覚である「五感」がどのように身についていくのかが整理されます。胎内に現れた時から出生してしばらくの間で、この五つは段階的に取得されているとのこと。まずは受胎から7週目に味覚。次に10週目に触覚。その後24週目に嗅覚、28週目に聴覚、そして視覚は誕生時には未完成で、徐々に完成します。

進化の歴史から見ると、ヒトの大脳皮質(大脳半球の表面を縁どる神経細胞の集団)は古い部分(旧皮質と古皮質)と新しい部分(新皮質)から成り立っている。古い部分は、大脳辺縁系の主な構成要素となっていて、それは食欲・性欲・快・不快・好き・嫌いの感情に関与するとともに呼吸・循環・排泄・吸収等の自律系の働きにも関係し、種族と個体の維持に必要な働きをつかさどっている。
感覚についての脳内の情報処理のあり方の研究によれば、嗅覚と味覚は脳内におけるその情報処理の早い段階で感情に関係する扁桃体という古い脳で処理され、感情と密接に結びついている感覚であることがわかっている。古い脳は、進化の段階からいうと原始的な脳で、人間的な知性に関係する新しい脳としての新皮質が発達するとその下にうもれてしまったものである。扁桃体は大脳辺縁系に位置し、原始的な快・不快・好き・嫌いという感情に関係している。
嗅覚には主として古い脳(嗅球、梨状皮質、扁桃体)が使われ、味覚では新しい脳(新皮質)と古い脳(扁桃体、島皮質–島皮質は、厳密に言うと、新皮質と辺縁系の両方にまたがっている)が同時に使われる。他方、視覚情報は大脳皮質で処理された後で、扁桃体と情報の交流があるため、好悪の感情と「直接」結びつきにくい構造になっている。
そして、言語は新皮質に関係するため、味覚には「甘い・辛い・酸っぱい」などの言語表現があるが、嗅覚には純粋な言語表現がない。そのために、嗅覚表現には「甘い・甘酸っぱい、濃厚な」というように他の感覚を用いた類似による共感覚的な表現や「バラ・ジャスミン・キンモクセイ・ジンチョウゲ……の匂い」というように具体的な物に託した表現が多く用いられ、言語本来の特性である一般的な(カテゴリー)表現が難しいものとなっている。「くさい」は、「臭い」と表記されるように、「においがする」という表現の延長にすぎず、「かぐわしい」は語源的には「香細し」(「細(くわ)し」とは、すぐれていること)からきたもので、単に「よい匂いがする」という表現にすぎない。

古い脳、新しい脳、という分類は、「ファスト&スロー」で言うところの「ファスト脳」「スロー脳」を連想させますが、「人間的な知性」を持つ新しい脳の下に潜在的にあることを考えると、無関係ではなさそうです。さて、味覚→触覚→嗅覚→聴覚→視覚の順に取得された感覚についてですが、なんとなく先に取得したものから衰えていきそうな気もしますが、視力の衰えが早い段階から始まることからも分かる通り、実際は後から覚えたものから先に衰えていくようです。当然、言語の取得は、五感の「後」です。

五感の衰えは、視覚→聴覚→嗅覚・触覚・味覚と、新しい感覚から古い感覚へ、遠感覚から近感覚へという順序で起こり、よく保持される嗅覚や触覚や味覚といえども、一般的には加齢によっていくらか衰えてくる。(中略)一般的に言えば、発達に伴う記号の生成と加齢による記号の退行生成の順序は逆方向である。すなわち最後に獲得された概念的思考をつかさどる象徴性は、それが表象的なものであるため最初に失われやすい状態になり、基礎的な記号として最初に獲得された感情的な類像性は最後まで失われずに残る。したがって記号の発達の階梯が感情(類像性)→注意(指標性)→概念(象徴性)と進むとすれば、記号の退行生成において最後まで残るのは「感情的な類像性」であるということになる。

歳を重ねて、ごく最近のことが覚えられない割に、何十年も前の子供時代のことはよく覚えている、という経験は、30も過ぎる頃には誰しも心当たりがあるのではないでしょうか。それも、脳に記憶が定着する仕組みを知ると、納得のいく現象です。人は感情と反復によって記憶するから、より感情主体で記憶する幼少時の方が記憶が深く残りますが、感情が安定し、言語主体で考え、反復の機会も少なくなる後年の記憶は保つのが難しいわけですね。

第四章でのここまでの話は、忘れにくいことについて綴られており、忘れにくいこととして「自尊心」「味と匂い」「子どもの頃のこと」「強く感情的なこと」「しっかりチャンクをなしていること」「身体的習慣」「総合的な深い勘」という7つを挙げていますが、さらにこの章では忘れやすいこととして「関心の薄いこと」「見ただけのこと」「最近のこと」「日常茶飯事」「知人の名前」「頭だけで覚えたこと」「経験の積み重ねのないこと」の7つを挙げていますが、こうして並べて見るだけでも、前段で自分が忘れやすい、覚えづらいと感じていたことに合致していく感じがします。「見ただけのこと」「頭だけで覚えたこと」「経験の積み重ねのないこと」など、読書がどれだけ忘れやすいかを裏付けているかのようです。それでも、「感情と反復」の作用があれば、それだけは覚えられる。全く、その通りではないですか。

このあと本書は、もの忘れから認知症、認知症もアルツハイマー型と脳血管型の比較、そして哲学的な思索を通りながら、やがて表層的な記憶を失った老人は社会の常識といった論理による抑圧から解放され、幼年期の如きクリエイティビティを発揮するようになる、という感動的とも言える展開を見せますが、それは本書を実際に手に取って読んでみてください。ともかくここでは、自分が読後に何を覚えているかいないかは、脳が持つ基本的な記憶の条件に則っているということがわかったということについて、書き記しておこうと思います。

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