この日は京都芸術劇場 春秋座に池田亮司のオーディオビジュアル・コンサート「datamatics [ver.2.0]」を観に行きました。春秋座に来たのは約3年ぶり。
「オーディオビジュアル・コンサート」ということで、ステージ上には誰もおらず、中央に巨大なスクリーンがあるのみ。「ビデオ上映会」と言っても大差無さそうですが、PAによる音響と高解像度でハイコントラストな映像は、やはりこの日の一度の上映のために綿密にチューニングされている感じがしました。
音響に関しては、ホ―ムオーディオのデッドな環境とは違い、ホールの鳴りを含んだライブなサウンドでしたが、池田氏の音楽は、基本的に機器をあまり選ばず、何で聴いてもほぼ同様に鳴る(先日の試聴会での機器で確認済み)ので、特に音の印象として特筆するところはありませんでした(それはそれで「再現性」という意味ではすごい気はしますが)。
しかし映像に関しては、パーソナルな空間では体験できない圧倒的な美しさと膨大な情報量、壮絶な破壊力で、終始目が釘付けになっていました。
ミニマルなサウンドシーケンスと同期して、モノクロ二階調(時折RやBのドットや線)で描かれた数字やアルファベットと直線が様々なパターンを描かれていくんですが、僕が座っていた前から7列目の座席でも目視ギリギリの小さな文字が鮮明に描写され、怒濤のように視界全体を埋め尽くす様は、無階調でモノクロームな世界でありながら、美麗な極彩色の映像を観ているかのような快楽を覚えます。
プログラミングで無ければ描写出来ない複雑さと精密さで構築していき、シーケンスの変化に合わせて常に変化し続けていくビジュアル。その映像はサウンドの可視化でもありデータの可視化でもありました。そしてデータがコンプレクシティの果てに有機的な存在に近づいていくことの表れでもあり、数学的で無機質な映像から、観ているうちに強い肉体性を感じていきます。映画「2001年宇宙の旅」での「第3のモノリス」遭遇以降の世界に入り込んだような、宇宙のような無限の広がりと強靭な「意思」がモノトーンの狭間から見えてくるようでした。いやもしかすると、HALが自分の意志を持ち、人間に牙を剥いた瞬間のあの恐怖感の方が近いかも知れません。
上演時間は約1時間。終了後は満席の会場から大きな拍手が上がりました。演者の姿が見えないと拍手をしても心もとない感じがしますが、やはり手を叩かずにはいられない強烈な体験でした。
開演後に途中入場しているお客さんの姿がスクリーン越しにシルエットとして浮かび上がる瞬間も含めて、この日のプログラムはお客さんも含めてひとつの「作品」として作り上げられたかのようにも思えました。それは池田氏の作品が、音楽家としてだけではなく、舞台芸術、インスタレーション、書籍等も含め、多角的にメディアアートを追求してきた上にある表現だからでしょう。そして、氏の徹底した「冷徹さ」「非人間性」「匿名性」によるサディスティックな断絶・突き放しによって生み出された創作物が、「電子音楽」としての一面性では捉え切れず、それでいながらどのメディアでも一貫した表現手法によって作品が作り上げられているのは、ミニマムとマキシマムが同居する氏の作品内のディテールと共通したものを感じます。
Ryoji Ikeda: Datamatics | |
![]() |
Kazunao Abe Maria Belen Saez de Ibarra Benjamin Weil Ryoji Ikeda
Charta 2012-08-31 |