子供にも分かる勉強の理由って何かしら

「なぜ勉強するのか?」という、子供が小学校に入学し、子供にどうやって「勉強の大切さ」を分かってもらおうかと考えていた頃に買い、読んだ本ですが……。

「子どもの勉強に悩んでも、この本だけは手にとってはいけません!」

読んだ後にこのレビューを読んだら、「ああ、読後のモヤモヤが一気に晴れた」と爽快な気分になり、「なんでこれ読んでから買うかどうか判断しなかったんだろう」と思う反面、「読後の答え合わせというのもなかなか面白いの」とも思ってしまう、なんとも言えない印象の残る本です。

表紙画像(頬杖をついた女学生が斜め上―おそらく黒板―を見ている写真のもの。よくある、表紙全面を覆う帯のようなものだと思いますが、僕が購入した中古本には付いてませんでした)に「必要なのは、「理解力」「想像力」「表現力」」と書かれています。この言葉が本書の根幹となるもので、ジャンルに限らず、あらゆる勉強はこの三つが大事である、という論旨で、本書前半で出てきたときには「成る程」と思ったんですが、結局最後までそれ以外の大事な話は出てこないままでした。後は、自分の体験談などが擬似的な質疑応答形式でつらつらと書かれているだけで、首を傾げるか「あなた偉いんですね」と嘆息するかしかないという内容でした。

上記レビューで、

そして最後の締めくくりで鈴木は読者を盛大に笑わせてくれる。なんと「なぜ勉強しなければならないの」への模範解答は「未来をよりよいものにするため」「社会をよくするため」なんだそうだ。これで「あ、そーか、分かったア」と勉強に目覚める子ども(しかも高校生)がいたとしたら、是非一度お目にかかりたいものだ(大笑。

と書かれていますが、子供がそれで納得しないだけでなく、氏の説明を読んでいても、親であるこちらが「未来、社会をより良くするために勉強する」ことに同調できないという辛さがあります。

この本を一冊読むんだったらこのレビューだけ読んでも大差無いかな、と思わないでもないですが、両方読むと一番いいかも知れないです。レビューはコテンパンですが、上記の「理解力」「想像力」「表現力」など、当たり前のことを言ってるようで、そういう当たり前の話をちゃんとすることの大事さも伝わる内容にはなっていると思いますので。

で、「なぜ勉強するのか?」を子供にどう考えてもらうか、という結論については、何せこの本における答がお花畑な感じなので保留状態なわけですが……うーん、ぶっちゃけ、「勉強するために勉強する」ってこと以外に理由ってないのかなぁ、と思ってしまいます。様々な科目においてそれぞれに適した手段を用いて学習することで、将来何かを新たに学びたい、習得したいと思うときに、学校教育上の勉強をやっていると、勉強することに耐性があるから、勉強をやっていない人より身につけやすい、ということでしょうか。自分自身の落ちこぼれ経験、そして、年を経てから勉強の面白さを知ったのに、やり慣れてないものだからからうまく集中できなくて「ちゃんと勉強しておけば……」と後悔している、という経験からするとそんな感じなんですけど、どうでしょうかねぇ。

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最近、本屋が混んでる気がします

元々本屋は好きでしたが、ここ最近は、より頻繁に本屋へ行ってます。

なぜだか自分でもはっきりと認識しているわけではないんですが、理由の一つは、大型店が充実したことにより、興味の対象の本に遭遇する率がぐんと上がったことがあると思います。

小型・中型店は徐々に淘汰されているかも知れませんが、本はどこに売っていようが中身は同じなので、本屋は数が揃えばそれだけで強力な存在になります。

もう一つの理由は、ネットで安く買えるとしても、手に取って中身が見たい、という欲求と今すぐ欲しいという欲求がネットを超えてしまうことが増えたからだと思います。

本にもよりますが、アマゾンのレビューさえ読めば、中身を見なくてもまあいいや、とアマゾンの中古品最安値のものを買ったりしていましたが、安く買える分、意外に負担は少なくないな、と感じ始めていました。

一つは価格差を計算する手間。送料を含めると100円の差もない、ということも少なくありません。

もう一つは、受け取る手間。今問題となっている再配達については、料金上げるだの再配達を有料にするだの、配る側の負担ばかり取沙汰されている気がしますが、受け取る側の負担だって相当なものです。配達日も配達時間帯も指定できないのに、配達時に在宅していることが容易な人が、全人口の中でどれぐらいの割合なのか教えてほしいものです。再配達ですら、ピンポンダッシュかのような勢いで立ち去る配達員を逃さないために、インターホンの傍に3時間近く待機しなければならないわけですから、金で解決するなら仕組みをどうにかしないと駄目なんじゃない、と思うのですが。

それらの負担を別にしたとしても、中身を見ずに買うのは、やっぱりリスクあるな、というのも最近感じ始めました。過去に読んだことのあるシリーズものやマンガなど、大体内容の見当がつく、もしくは読めないことはまずない(そもそも本屋に行ってもシュリンクされてて読めない)ものなら別にいいんですが、内容が堅めの本や、どんな内容かちょっと捉え切れない本など、本屋に行って中を見てから判断したい、という本は少なくありません。で、本屋でいいな、と思った本をその場でアマゾンで検索したりもするんですが、最近はよほどの差がない限り(それこそ1円とか100円とかで売ってない限り)、そのまま本屋で買います。前述の負担が頭をよぎるから、というのも大きいです。

ただ、よく作り手側が口にする「本屋で取り寄せてほしい。そしたら本屋に並びやすくなるし本屋も潤うので、本屋/作家両方にメリットがある」という話にはあまり気乗りしません。こちら側に「中身が見られない」「待つ」というデメリットがあり、その見返りが殆ど無いので。

そんなことで、わりと本屋に長居することが増えてますが、去年ぐらいから、レジ前に行列ができている、という経験が増えているように感じます。昔から、時間帯などによってはそれなりに並んだりすることはありましたが、今は「サイン会でもやってるのか」と思うほどの長蛇の列で、書棚の向こうの数メートル奥まで行かないと最後尾に辿り着かない、という状況に何度も遭遇しました。

繁華街にある超大型店だけの現象かと思ったら、そうでもない書店でもかなり待たされることが多く、知人に聞いても「最近、本屋混んでるよね」という話になったぐらいなので、それなりの規模の書店は、結構混んでるんじゃないかという気がします。小型店は混んでません。

購買層も多種多彩で、老若男女問わず列に並んでいるようです。それも3、4冊まとめてドンッと買うような人を頻繁に目にします。目立つだけかも知れませんが、自分を振り返っても、やはり毎回1冊だけ買う、ということは余りありません。やはり大型店は様々なジャンルの本がどれも充実しているので、スーパーで目的の大根だけ買うつもりが店内をうろつくうちにあれこれと買ってしまうのと似たような現象が起こっているのでしょうか。

出版不況、活字離れと叫ばれて久しいですが、電子書籍やアマゾンに浮気しているうちに、気づけば大型書店がとても楽しい空間になっていたな、というのが実感です。

↓最近、娘が面白がりそうと思って本屋で衝動買いした一冊です。

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「ブッダと法然」――念仏の理由と「他力本願」、そして21世紀における仏教の意義

ここ数年、毎年のように身内の不幸が続き、当事者として葬儀の席に足を運ぶことが多い昨今です。ググったら去年が本厄だったので、思い当たることがあり過ぎて一瞬「厄払い」という言葉が脳裏をよぎりました(一瞬だけですが)。

数年前、父が他界した際には、父、そして残された母の考えの元、ごくごく小さな家族葬だけで済ませ、お寺にもお坊さんにもまったくお世話になることなく、遺灰も未だ自宅に置いてある状況です。子供の頃、人が死んだら坊さんが来てお経をあげるのが避けて通れない決まり事だと思い込んでいたので、宗教一切を信じない父と母が死んだときにはどうすればいいのだろうと思い悩んでいましたが、答はお経を上げてもらうよりもはるかに簡単(しかも安価)でした。母の時も同じようにしよう、と母とも父の死後話しました。

ここ数年、仏教の本と言えば、日本に伝来し、紆余曲折を経て今の形になった仏教ではなく、そのルーツになるような原始仏教やブッダについての本しか読んでいなかった僕は、「今、自分たちの生活の中で断片的に関わりを持っている仏教って変じゃないの」というイメージを補完するための情報、つまり「ほら、ブッダの言ってたことからしたら、今の仏教は全然違うじゃないか」という理由ばかりを集めていたように思います。ブッダの言葉に得心するとともに、仏教に移入できない自分を肯定したかった、というような心理。

そこ(つまり今の日本の仏教は可笑しい、という考え)にあまり疑問を持たずに過ごしてきたのですが、去年、「もしかすると、僕は大変な誤解をしているのかも」と思うきっかけがありました。きっかけとなったのは、僕の義理の弟の死に顔でした。

ある病気で突然倒れ、意識を失ったまま数十日の闘病生活の後、この世を去った義弟。病院から彼の自宅へ搬送されたその姿は、生前の精悍な顔立ちが嘘のように黒ずみ、むくみ切っていました。「別人のように顔が変わってしまった」と言われたその顔を初めて見た時、辛く長い病との格闘の壮絶さに胸が痛みつつも、それとは別に、不思議な感情が沸き上がってきました。

その表情が、とても穏やかで、落ち着いていて、美しくて、醜美を飛び越えて、思わずその顔に引き込まれてしまったのです。

「死んだら仏様になる」とは、このことなのか。と、思わずハッとしました。あらゆる欲から完全に解放され、あらゆる拘りも放棄し、迷いも情も何からも絡めとられない、悟りの境地。彼の表情からは、そんな圧倒的な「成仏」のイメージを受けました。

死後仏様になって云々など馬鹿馬鹿しい、と思っていたのが、「一理あるんじゃないか」と思い始め、それから、彼の葬儀で詠まれた阿弥陀経、そしてお坊さんがお経のを読んだ後に話されていた話の中に繰り返し登場した「他力本願」という言葉が気になり、書店で阿弥陀経の現代語訳された者を立ち読みしてみたり、関連書籍をパラパラと見ていた流れで、この「ブッダと法然」に辿り着きました。

タイトルのとおり、ブッダ、法然という、時代も役割も大きく異なる二人を比較しながら話が進んでいて、さながら以前読んだ「釈迦とイエス」なのですが、釈迦とイエスだと、互いに別々の宗教の始祖となりますが、ブッダと法然だと方や始祖、方やその宗教の中の歴史の一部なので、やや広告的で強引な見せ方をしていると感じるところもありますが、仏教に無知な自分にとっては分かりやすくなっていると感じました。

疑問を解消してくれたのは、念仏を称えることで、地位も名誉も出家も在家も関係無く、誰もが救われるという法然の教え。つまりそれが、自身で悟りを拓くのではなく、阿弥陀如来の力によって救ってもらう「他力本願」である、ということ。なるほど、仏教があまねく世界の人々を救うことが使命ならば、そこには在家云々を越えて、「救われたい」と思う人なら誰もが救われる道を用意するのは当然とも思えます。

そして、膝を打ったのは、開祖であるブッダは自分自身の教えを厳格に守れとは言っておらず、むしろ自分で考え、行動することを良しとし、不要となれば自身の教えも捨てよとまで言っていたこと。著者はそのことから、本書の最後を締める形で、仏教は時代に合わせて変わっていかなければならないと断言しています。紀元前インドにおいて有効であった考え方や教えが、2000年以上経過した今も通用するとは端から思っておらず、法然の時代なら法然の時代に最も有効な考え方、21世紀の今なら、現代の人々を救うことのできる最適な仏教のあり方があるはず。そのためには規則や因習にとらわれて変化しなくなっては仏教は機能しなくなり、この世での役割を終えてしまう。

この視点は僕にとっては完全に盲点でした。原始仏教から乖離したと見えた仏教が、時代に沿う形で変化してきたことが、そもそもブッダの教えの上にあり、仏教の使命でもあること、そしてそれが今なお継続できているのかという問題提起。疑問は晴れ、さらにその先の問題点まで明るみにする最後の展開に、自分の周りの出来事と交差させながら大きく視界が開けたような気分になりました。

現代における仏教行事のありようは、IT技術や土地の問題など、様々な要因で、思想とは別の意味で変化を余儀なくされていますが、「遺灰をゆうパックで送る」云々も含めて、こんな世の中で仏教に何ができるのか。「今こそ法然のような求道者が求められる」のではなく、根本から仏教、もしくは宗教そのものを、今日的な技術や知恵で定義し直さなければいけないのかも知れません。

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