「積極的棄権」に感じる意義について

来週日曜日は選挙ですね。

「2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。「積極的棄権」の声を集め、民主主義を問い直したい。」

ネット上ではあちこちで批判され、炎上を巻き起こしているこのキャンペーン、やはり大きな支持を得られておらず、この記事を書いている時点で約5,000人の署名。呼びかけ人である東浩紀氏のツイッターのフォロワーが18万人もいることから考えても、本当に共感を得られてないんだな、ということがよくわかります。

僕は、この呼びかけが始まったその日に、すぐ署名しました。そして、選挙には行きます。

この呼びかけの時点では、立憲民主党は影も形もありません。呼びかけ文のとおりの、馬鹿馬鹿しいことこの上ない、投げやりな気分にしかならない状況でした。それでも、世間の声は批判一色、そして批判という形を持たない「そもそも無関心で声すら上げない無投票者たち」が大半を占めているという状況。

もともと選挙に行くつもりではありましたが、全く消極的で、「いい加減、共産党に入れるのも嫌になってきたので、比例代表は自民以外のどこかに適当に入れるか」ぐらいの投げやりな気持ちでした(候補者は公示前でした)。立憲民主党が出てきたときも、「ピッコロと神様が別々になった」みたいで「なんじゃこりゃ」と思わずに入られませんでしたが、結局、立憲民主党に入れることになりそうです。

署名について、世間もっぱらの評判は、民主主義の否定だとか選挙のことをわかってないとか、大体そんな感じで、「棄権しろとか言ってるバカがいますが、それでは与党の思う壺です、必ず投票に行きましょう」と、このキャンペーンを引き合いに投票の重要性を説く論調が散見されました。少なくとも、東氏本人がリツイートしたもの以外で、このキャンペーンを肯定的に捉えた発言は一つも目にしていません。

その割にはいくつかのニュースサイトがこのキャンペーンを取り上げ、東氏のインタビューを掲載しました。意外な反応でしたが、それでもキャンペーンの賛同者は上記のようなごくわずかに止まってしまっています。

僕はこのキャンペーンに賛同し、氏の考えを支持しています。その上で選挙に行きます。なぜかと言えば、氏の主張は、「ゲンロン0」に至る氏の思想の延長である、「二元論に捉われない第3の道」を導き出す模索だからであり、そこに僕自身が「閉塞感からの解放」を得たからです。それについては当ブログの「ゲンロン0」に関する記事で書きましたが、ここでも氏は、右か左か、白黒はっきりと分断し、対立させる構造に異を唱え、「投票に行くか行かないかではない、それだけでは掬い上げられない民意」にスポットを当てようとしています。それが、「選挙なんて意味ないからそもそも行かない」とは思わないものの、「選挙こそ民意を伝える最重要手段だから是が非でも行く」が、本当にそれでいいのかとモヤモヤしている僕には、単なるそもそも論ではなく、「積極的棄権」という選択肢だって方法によっては意味を持たせることができるんじゃないか、むしろそこに意味を持たせなければ、投票に行こうが行くまいがこれから先も国会議員たちに好き放題されるだけなんじゃないか、という視点に目からウロコが落ちる思いがしたからです。加えて、氏がこのキャンペーンより前に、「右にも左にも与したくない人たちにとっての、第3の道が欲しい」といったような発言をしていて、それらが自分の中でひとつながりになり、深く心に刺さったのでした。

それは、以前からあった割り切れなさに対して「それってこういうことだからでしょ」と言葉によって姿が与えられる行為でした。氏は「左も右も同じ作法で行動している」点を指摘していましたが、氏のキャンペーンに両翼から批判が来ているらしいので、それはまさに発言の通りの状況になっていることの証左であろうと思います。

「選挙に行かない」ということに対して批判をし、「選挙に行く」ことを無条件に肯定することは、淀みなく正しいことで、反論の余地はない、ということを自分の中にプリセットしておくことで、スイッチひとつで「棄権する奴はバカ」という言葉が「あまり考えなくても出てくる」ようになっている人が、たくさんいるのではないでしょうか。それは、「改憲」と一言目にするだけで「右翼」「戦争」とワンタッチで結びつけられるようにプリセットされていること、「9条を守れ」と聞けば「反日」「在日」がショートカット一発で入力されるようプリセットされていることと同じで、要するに、とてもわかりやすい右用・左用のプリセット集をそれぞれ持っていて、一回その出力結果に納得すれば、あとは深く考えずにそのプリセットをガンガン使い、そうすることで発言には微細な振り幅というものが殆どなくなっていって、「これってもう古くなってないだろうか」「これはもう使っても効果ないんじゃないの」というプリセットの吟味や調整がなされなくなってしまう/しまっていて、それが、結局右も左も「自分では抵抗しているつもりのポピュリズムに飲み込まれてしまっている」原因ではないかと思います。プリセットの多用は思考停止の別名であり、思考停止はポピュリズムの大好物だからです。

東氏もこの署名が何らかの効果を持つとは思っておらず、キャンペーン立ち上げ直後も「怒りに任せて始めただけ」というような発言もしているぐらいですが、それでもこのような意見表明、このような考えを可視化することは、とても大事なことではないでしょうか。選挙によって国民が強制的に思考停止させられているなら、「ちょっと待って、ゆっくり考えさせて」と言い返すこと、投票に行くよりもまず考えるべきことがあるんじゃないかと「祭り」に抵抗することも、大事なんじゃないかと。

そして、「だからって、投票ぐらい近くの投票所にさっと行ってさっと帰ってくるだけなんだから、並行してできるでしょ」というのが、キャンペーンに賛同しながら投票にも行く、僕の考えです。正しいのかどうかは、わかりません。

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フランク・ザッパをヒップホップだと思って聴いてみる

フランク・ザッパの音楽、もっと正確に言うと、フランク・ザッパの歌を聴くと、まるでヒップホップを聴いているような錯覚が起こります。語りとメロディを行き来するスタイル、うねるような低音、そして、印象的な韻の踏み方。つまり、フランク・ザッパの歌にはラップの要素が濃厚にある、ということですが。

ヒップホップの歴史はザッパのデビューよりも後で、実際、彼が自覚的にラップを取り入れた様子はなく、非常に高い可能性で「他人の空似」であるわけですが、それにしても彼のライムが持つドープさは、ザッパを聞いたことがないヒップホップファンにも届けたくなるほどのものだと思っています。

というわけで、ザッパのヒップホップ性を、ザッパのボーカリストとしての変遷や具体例から軽く探って行こうと思います。

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ネイティブ広告の記事タイトルに「PR」と入れるべきかどうか、雑誌メディアと比較しつつ考えてみた

ネイティブ広告の記事タイトルに「PR」の文字を入れるべきか、そうでないかについて、ちょっとした議論がありました。

記事タイトルに「PR」って入れるかどうか問題について

要するに、PR記事をPR記事と知らずにクリックするのはユーザーにデメリットを発生させている(パケット代を無駄にさせている)ので、タイトルを見ただけでPRと分かるようにして、PR記事を見たくない人はクリックせずに済むようにしてほしい、という人と、別に大したデメリットでもないんだから良いのでは、という人と様々な意見が出ていました。

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