ネイティブ広告の記事タイトルに「PR」と入れるべきかどうか、雑誌メディアと比較しつつ考えてみた

ネイティブ広告の記事タイトルに「PR」の文字を入れるべきか、そうでないかについて、ちょっとした議論がありました。

記事タイトルに「PR」って入れるかどうか問題について

要するに、PR記事をPR記事と知らずにクリックするのはユーザーにデメリットを発生させている(パケット代を無駄にさせている)ので、タイトルを見ただけでPRと分かるようにして、PR記事を見たくない人はクリックせずに済むようにしてほしい、という人と、別に大したデメリットでもないんだから良いのでは、という人と様々な意見が出ていました。

元の記事については、内容の良さに比べてタイトルが凡庸すぎるという点ばかり気になっていて、PR云々については書かれている通りに納得していたんですが、こうして議論になっているのを読むと、確かにPRって書かないと問題あるかもな、と考えさせられました。

タイトルにPRと書かなくても良い、と言ってる人の分が悪いなぁ、と思うのは、ネット記事は「読みに行かなきゃ読めない」という宿命から逃れられないからです。

例えば新聞・雑誌といった紙メディアに掲載されている記事広告には、「広告」の文字が記されています。但し、ネット記事ほど視線の誘導が厳密でないため、見落とすこともしばしばあります。それでも「記事に見せかけた広告だ」「ステマだ」と叩かれずに済んでいる(もしくは、“済んできた”と言うべきでしょうか)のは、「瞬時に目を走らせて、読みたければ読む、読みたくなければスルーする」にかかるコスト(時間や、考える労力、飛ばしたり通常の記事に戻る手間)がとても低く抑えられるからです。新聞・雑誌の広告は、そもそも純粋な記事と同じ階層に並列で並んでおり、読み手は偶発的に純広告・記事広告に遭遇します。ネットの場合は、記事も広告も全て別の階層に切り分けられており、上層のリンクから遷移することで記事・広告に到達するため、「瞬時に目を走らせて、読みたければ読む、読みたくなければスルーする」には、一旦遷移した後、また元の階層に戻らなければならず、しかも携帯などで閲覧している場合にはパケット代まで発生するので、そのコストは時間、考える労力、手間に加えて金銭的な負担まで発生してしまいます(バナー広告の場合は、画像によって内容が完結している場合もありますが、リンク先が必ず存在する以上、新聞の小枠広告とは別物と考えるべきでしょう)。

ネイティブ広告は記事広告ではなく、その性質も異なっているので、読んで面白ければ広告であるかどうかは関係ないのでは、という考えにも一理あるとは思いますが、PR記事であることに変わりがなければ、上記のようなコストが発生する以上、その負担をユーザーに負わせてまでライターがタイトル文字数を使い切ることは筋が通らないのではないでしょうか。

そして肝心なのは、「ネイティブ広告か記事広告か」は作り手にとっては大きな違いで大事なポイントかもしれませんが、それを読むユーザーにとってはそれほど大事ではないということです。

また、雑誌の広告制作に携わっていると、広告と記事の境目の曖昧さはなかなか興味深いです。以下、簡単にまとめてみます。

「純広告」は、編集記事とは完全に分離した企業からの一本道のアピール……ですが、この純広告を出稿した企業と広告出稿の全くない企業では、記事に取り上げられる頻度に差が出ます。
「記事広告」は、企業が制作費を出して記事を作ってもらうものですが、では「広告なんだからこっちの要求通り書いてもらおう」という要求が通るかといえば、全部が全部そうではありません。編集者もお金のためにただただ提灯記事を書いているわけではなく、あくまでも読者に利する内容にすることが前提です。広告主の要望がほとんど通らない場合もあります。記事広告には、ネイティブ広告という言葉が生まれる以前から、実は「コンテンツありき」という側面も持っているのです。
そして「通常の記事」は、上記の通り広告と完全に分離しているとは限りません。

さて、この「純広告」を「忖度した」記事は、「PR」もしくは「広告」と書くべきでしょうか。「純広告」を出してくれている広告主がいるからこそ雑誌は成り立ち、その記事は書かれていると考えれば、「PR」と書く必要があると思えるかもしれませんが、それを言い始めると雑誌そのものの存在が広告であり、表紙に「PR」と書かなければならない、ということになってしまいます。しかしこれでは、書こうが書くまいが、本の体裁が「雑誌」だと分かればそれで済んでしまうことになり、意味が無くなることになります。

そこで改めてネット記事と比較すると、もうひとつ大きな違いがありました。雑誌は(一部ファッション誌を除いて)広告だけでは成り立たず、購入者がいて成立するものですが、ネット記事は(一部有料サイトを除いて)基本的に広告で成り立っています。単純に比較すると、雑誌よりもネットの方が広告依存度が高いので、より広告主にメリットのある運用をしていく必要があるように思えますが、ネット広告は掲載するだけではほぼ機能せず、「クリックする」というユーザーのアクションが必要なので(ネットには成果報酬型の広告もありますが、雑誌は出稿した時点で出版社に規定されたお金が入ります)、雑誌のように「ゆるりと掲載してまったりと効果を期待」していては掲載する意味がなくなってしまいます。つまり、一見広告依存のように見えてその実、過度なユーザー依存となっているわけです。

どれだけ冠を変えて見た目や印象を変えようとも、広告は広告なのであり、以前「これからの広告」として考える「ショールーミング」から「ウェブルーミング」で書いたように根本的に変わらない限りつきまとう宿命だと思いますので、やはり「PR」の文字は入れるべきでしょう。ただ、ヨッピー氏のような気概のあるライターが増え、広告のマジョリティになれば、世界は変わるかもしれません(その時は、「PR」を入れたほうが読まれる、という世界になっているかもしれませんが……)。

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行きたくなった書店と行きたくなくなったレコード店。レコード店を行きたくするには

以前、「最近、本屋が混んでる気がします」という記事を書いたんですが、Tumblrで少し気になる投稿があったので、「本屋とレコード店の違い」などについて考えてみます。
(本記事で“レコード店”は主に新品のCDを取り扱う店舗のことを指します)

“「誰にもコピーされなければ、作品は広がらない」”

大元のリンクは2008年の記事ですが(しかし今読むと改めて考えさせられるとても含蓄に富んだ記事でもあります)、今回気になったのは、その引用についたコメント。

最近TSUTAYAで気づいたことがあって、その後、何度もそう思っていることがありました。
いっぱいCDが並んでいるけど、聞きたい感じ or 聞いたことのある雰囲気のするCDがパッと見で無い。ランキングのコーナーもあるけど、9割方そう。とにかく触れてないんだよな。スタートしていない、という感じがして、何かが出来そうな気もするのです。
ーー追記ーー
異国のスーパーで商品棚を見てる感じ、と表現しようと思ったのだけどちょっと違う。異国のスーパーだと気になるパッケージが1つはあったりして、手にとってみたりする。それは僕はパッケージや図示の仕方なんかにとても興味があるからです。
TSUTAYAでは手に取る気が起こらなかった。今は節約しているので3000円を出すつもりがないという意識もあります。でもそれはオマケの理由かな。手に取って見て棚に戻すという行動をする気がしない主要因は、手にとってジャケットを見たところで、聞けるわけでもないし、中にアクセスできるわけでもないから無駄、という感じが一番近いかも。

ネットで本を買う比率が徐々にリアル書店に移ってきている僕ですが、逆にリアル店舗に殆ど行かなくなったのはレコード店。昔は、レコード店の近くを通りかかれば目当てのものがなくてもとりあえず中に入ってウロウロしていましたが、今は興味も湧かず、最近もタワレコの入った商業施設に行きながらもタワレコのフロアには足を運ぶことなく直帰した、ということが2度(それぞれ別の店舗)ありました。

理由として真っ先に思い浮かぶのは、「発見や出会いが殆どない」から、というもの。

例えば書店だと、ちょっとしたキーワードや聞きかじりの知識をぼんやり持ったまま入ってウロウロしていると、持ってきたキーワードや知識に関連した、今まで存在すら知らなかった書籍に出会うことがあり、中をパラパラめくるだけで「これすっげえ面白そう」とか「駄目だ、難しすぎる」とか「これだったら買ってまで読むほどでもないな」などと、本の世界にダイブして色々想像したり妄想したり、それだけでちょっとした娯楽体験ができます。

代用としては、ネットでの書籍レビューがあり、これもとても楽しく、それだけで十分な娯楽体験になるんですが、実際に中を開いて見られると「ネットでは褒めてたけど実際に読んでみると思ったほどじゃないな」と再発見したり、「っていうかこの隣にある本の方が僕には読みやすくていいかも」という関連書籍の幅(逆パターンで、ネットに出てた本がなくて、その関連書籍だけがあったけど、読んでみたら面白かったなどもあります)が効果を発揮することもあるので、まあ大きな書棚が置ける大型書店に限られてしまうかも知れませんが、こういうことが高い頻度で発生するので、そういう、自分の想定を超えて起こる「発見や出会い」に期待して、ついつい書店に足を運んでしまいます。

ではレコード店はどうでしょうか。例えば「最近ジャズを聴き始めました」という人がレコード店のジャズのコーナーに行くと、様々な発見があるかも知れません。しかしもし「発見」したものを聴きたいと思っても、試聴機に入っている新譜でない限り、店員さんを呼び止めて試聴させてもらうしかありません。僕は数年前までレコード店によく通ってましたが、店員さんに試聴を頼んだことは一度もありませんでした。面倒だし、気を使うし、そもそも新譜のビニールを剥がしてまで聴かせてくれるのか不安だったからです。

そんな時に便利なのがインターネット。さわりだけ聴くなら、かなりの数の音盤がフォローされているでしょう。海外の昔のメジャー作品ならアルバム一枚フル試聴できてしまうものも少なくありません。さらに、関連アーティストや同ジャンルの音楽がいくつか表示されて、色々聴き比べが出来てしまうサービスもあります。

あとは、気に入った作品をアマゾンもしくはiTunesで検索すれば、レコード店で見たものよりも気に入ったものが、より安い値段で購入できます。

これらの行動パターンは、先日の記事「これからの広告」として考える「ショールーミング」から「ウェブルーミング」になぞらえると、書店はウェブルーミング型、レコード店はショールーミング型ということになるでしょう。

例外として、古書店、中古レコード店がありますが、こちらはいずれもランダムな「発見や出会い」に頼ることになるので、今回は置いておきます。

さて前述の記事(中のコメント)では、先の引用に続いて、レコード店の試聴機能の改善案が書かれています。

1. iPhoneとイヤフォンをしている。
2. 気になったCDのパッケージを触るか、近づくとそのCDのダイジェストが聞こえる。iPhoneは特に操作しない。
3. 指先をつつつつーっと隣りにズラしていくと、となりのCDのダイジェストもフェードインフェードアウトでざっくり聞こえる。パッケージを目で見て、それに近づくとダイ4ジェストがなんとなく聞こえてくる。視覚と聴覚がセット。
4. 気になったCDが見つかったらそれを手に取る。棚から取り出して手元に持ってくるともっとはっきり曲が聞こえる。棚に戻すと音が小さくなっていく。
5. 指向性スピーカーによって、iPhoneとイヤフォンが不要なのが理想。いや、指向性じゃなくていい。他の人が探してるところからも興味深い何か、自分のセレクションとは全く別の角度の曲が聞こえてきたら、ワクワクしうる。自分のライブラリよりも他人のライブラリにサプライズがあるように。
6. 情報端末でピコピコ操作するんじゃなくて、ダーッと並んでるのが重要。
7. リアル店舗+デジタル配信によって初めて実現しうる。
(中略)店内のあちこちから、被りすぎない程度の音量でいろんな曲が漏れ聞こえてくる。そういう店内。そういう感じでいいんじゃないだろうか。おっと、そうすることで曲との接点が増える。

仕組みとして実現しうるのか、という点をとりあえず考えないとしても、ユーザー体験としても複雑すぎる印象があります。多分、ここまでしたところでネットで試聴することとあまり差がないように思えます。

それであれば、棚に置かれている商品は全てサンプルとして、中身(つまり歌詞カードやブックレット、盤など)を見放題にするだけで、実は書店に近い「発見や出会い」が生み出せるんじゃないかという気がします。何故なら、ネット上には歌詞カードレベルの詳しい情報は手に入らないことが多いからです。

このアルバムの録音エンジニアは誰か、この曲でコンガを叩いているゲストプレーヤーは誰か……わざわざレコード店に足を運ぶ音楽ファンなら、そんなことが購入のきっかけになることもあるでしょう。もっと言えば、配信サービスで購入した人や、何かいかがわしい方法で音源を手に入れた人が、ブックレットに書かれた録音に関するデータやライターの解説を読むためにレコード店に足を運ぶだけでもいいんじゃないかと思うんです。そういう人は、書店で関連書籍を読むがごとく、隣の音盤の歌詞カードも思わず開いてしまい、ついついレジまで足を運んでしまうことだってあるはずです(その人がレジ前のオシャレなイヤホンやファンシーグッズを買うかどうかは分かりませんが)。

音楽の話になると、つい“音”にばかり関心が行きがちですが、実はテキスト情報がとても大切です。例えばクラシック音楽だと、それなりの知識や音楽かもしくは評論家による読み解きや解説がないと、その曲の面白さや聴きどころを自力で発見するのは至難の技です。「それって古臭い音楽だからじゃないのか」と思われるかも知れませんが、同じように、ある程度バックグラウンドの理解やアーティストのメンタリティ、楽曲の裏にある思想やテーマがわからないと難解な音楽は、最新の音楽にもあります。その代表格は、ヒップホップでしょう。ケンドリック・ラマーの音楽を漫然と聴くことと、彼の出自やその作品につながるコンテキスト、歌詞の意味について知ることは、バッハの当時の社会的地位、作曲の意図、楽譜に込められた修辞学的テクニックを知ることと同じく、音楽を楽しむ重要な要素なのです。

というわけで、実は難しい技術や画期的な方法を使わなくても、レコード店はものすごく面白くなる可能性を残してるんじゃないのか、というお話でした。

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「これからの広告」として考える「ショールーミング」から「ウェブルーミング」

「オーケー、認めよう。広告はもはや「嫌われもの」なのだ — LINE 田端信太郎」

記事タイトルに“田端信太郎”とあると「あーまたポジショントークかなー」と正直うんざりしつつ、読むとやっぱりそうで、でもLINE全くと言っていいほど使わない僕にも「そうそう、もっと言ってやってよ」と思えるような、特に広告についての発言が多いという印象の方。今回始まった連載コラムの記事も、一本目から「広告が嫌われ者なんて、僕が子供の頃からそうだったし、あなた私と同い年だからわかるんじゃないの」と、煽り気味なタイトルに眉をしかめつつも、読み進めると後半にパンチラインが待っていました。

「筆者は「広告」の意味を再定義する。そして拡張するべきだと思っている」という、(まあよくあるっちゃあある)広告はそのあり方を新たに獲得しなければならない、というような前段から、昨年末にAmazon Dashボタンを購入した実体験からのインスピレーションへとつないでいます。

家にAmazon Dashボタンが届き、冷蔵庫に貼り付けた。Amazon Dashのボタン上には、当然のことながら、その商品のロゴ(筆者の場合は、ウィルキンソンの赤いロゴ)が表示されている。

それをみてハタと気づいたのだ。なんだ、Amazon Dashって最新かつ最善の広告フォーマットの2016年12月Versionではないか、と。

「広告」は「個告」になる、などという言い方は、それこそ10年以上前によく目にした表現で、確かな「マス」の存在が崩壊してしまったからには、個別のコミュニケーションの時代に入ったのだ、と言われて久しいです。梅田望夫「ウェブ進化論」がヒットし、「Web 2.0」の概念が一般的になった頃でしょうか。

しかしその後の約10年、結局広告は従来通りの広告でしかなく、技術の進歩によってその手法は多様化しているものの、今もなお「嫌われもの」だった頃の広告と何も変わらず、むしろよりダメになっているケースも少なくありません。ターゲティングしているはずのYouTube広告は、今の所誰かからお金を借りる予定のない僕に消費者金融の広告ばかり繰り返し見せるし、スキップしようと思ったらスキップボタンに企業ページへのリンクが重なっていることすらある。スマホで、企業がプラットフォームを提供している無料ブログを開けば、不穏な漫画や子供に見せられないようなあられもない画像が、フリックする指にミスタッチされることを手ぐすね引いて待っており(それが結局記事中にある「アドブロックアプリの大ヒットにつながるという間抜けさ」)、無料でコンテンツを消費するために強いられる「我慢」の質が、ただでは済まないほど悪質なものになってきています。テレビではガラケーしか使えない(使う気もない)母にスマホゲームのCMを垂れ流しているし、僕が23時頃にビジネスニュースを見ようとしたらレゴブロックの、しかもマインドストームとかではなく、警察署セットみたいな男の子向けの商品のCMが流れ、一瞬ゴールデンタイムにうる星やつらがやっていた時代がフラッシュバックしてしまうような現象すら起きています。ネットはビッグデータだのマーケティングオートメーションだの言っておきながら「メディア」「スペース」の枠に居座ったままで、テレビは資金繰りにあえいでいる様子がダダ漏れになってしまっている体たらく。それでいて今もメディアの王様はテレビで、ネットの話題の中心はあくまでも「テレビで今人気の有名人の情報」に終始しているので、10年かけてあらゆるものが劣化しているようにすら感じます。

そこで「「広告」の意味を再定義する。そして拡張する」「Amazon Dash=最新かつ最善の広告フォーマット」という田端氏の気づき。本コラムで氏はこう結論づけます。

これからの広告は、欲望を喚起させるのでなく、欲望を充足させるものになるべきだ。そして欲望は、広告が一方的に作り出すのでなく、消費者が主体的に感じるべきものだ。

そして熱狂は、満たされなかった欲望、抑圧が解放されるときに、消費者が結果として感じるべきものであり、広告業界が一方的に熱狂を創り出せると思っているのなら、それは大きな勘違いなのだ。

広告の思い上がりや、その影響力を過信している人たちの鼻をへし折る容赦ない発言です。広告主や広告制作者が「仕掛ける」ことに対して否定的で、消費者が求めるその瞬間に必要最低限の情報を発信すれば良い、つまりニーズを先読みしたり、潮目を読んで「今あなたが欲しいのはこれでしょ」と提案することに対して「ウザいからやめろ」と言っているわけです。そのフォーマットとして、Amazon Dashのように消費者が必要なものを予め決め、消費者側の欲求として、自宅内の特等席に掲示するようなものを“最新・最善の広告”としているわけです。

「広告」と言ってしまうと、その字面から誤解を生んでしまいますが(これは「音楽」にも言えることですね。別に音楽には「音を楽しむ」要素しかないわけではありません)、「Advertise」から引ける別の言葉としての“宣伝”の方が、こうなってくるとまだ近いかもしれません。ただ、自宅の冷蔵庫に貼ってあるDashボタンが広い範囲に伝えるものではないとはいえ、これが世界中に何万と広がっているのだとすれば、それは総合すればやはり「広告」であり、氏はこれをもって、「「広告」の意味を再定義する。そして拡張する」と言っているのだろうと思います。「広告」的なフォーマットに対する認識を改め、それまでの「広告」の常識とは思えない仕組みを使いながら、その実、結局は「広告」の目指した結果を導く仕組みであり、より消費者目線で、その欲求に応えたものである、と。

こうなると、「広告」はメディアと無関係に、「広告」のみで「広告」たり得るわけですが、今それに近い状況なのは、動画サイトで「広告」としてではなく、「コンテンツ」として配信されている「広告」です。つまり、スペースとしては例えばYouTubeという「メディア」と結びついてはいますが、そこではYouTubeが規定している「広告」としての「枠」がありながらその「外」にある、本来「広告」の対象となる「コンテンツ」と同列に配信されています。ここで消費者には、「好きなCMを能動的に選んで見る」という行為が生まれます。

さて、ではその時、「広告」は本当に「広告」として機能しているのでしょうか。

YouTube動画には、消費者に娯楽を提供するコンテンツという体裁で、その中に自社商品の啓蒙やブランドイメージの刷り込みを付加することで、店頭などで商品を連想する率を上げたり、競合商品が横並びで販売されている際に選択する可能性を上げるなどの効果を生み出すことができるかもしれません。しかしDashボタンには「特定の商品を買う」機能しかなく、これが「広告」だとすると、この「前段」(つまり記事の例だと、ウィルキンソンの炭酸水を知らしめる宣伝行為)が存在しないことになります。

おそらく田端氏は、ウィルキンソンの炭酸水の存在を「広告」で知ってから購入するようになったのではなく、「店頭で探していてなんとなく買ってみたら美味しかったのでリピーターになった」か「口コミで勧められたのをきっかけに購入して以降この銘柄しか選んでいない」かのどちらかではないかと推測しますが、ポイントは、いずれにしても「購入動機に広告は初めから介在しない」ということです。

この場合の炭酸水であれば、昔から存在する商品カテゴリーで、使用目的もそれほど大きく違いのないものですので、恐らくこのような購入ルートで支障はないでしょう。でも今までにあるものではなく、目的も王道のようなものでない場合、例えば、「家の敷地の庭木が一本だけ隣家に侵入してしまい、迷惑をかけないように整えたいが、植木職人に頼んで美しくしてもらう必要はなくて、ただ迷惑をかけないようにだけして欲しい」というニーズについて、この最新型の広告は機能するのでしょうか。

この例は、ちょうど今日の日経MJに載っていたコラムのもので、「oh庭ya」という植木屋が、そういった消費者のニッチな要望も拾い上げることのできる対応力で、成熟した植木業界で業績を伸ばしているとのことでした。

「oh庭ya」はテレビCMも行い、画像検索をすると、ネット広告らしきものも目に付きます。さてこのようなマッチングが、広告なしで可能でしょうか。田端氏の答えは、そして多くのネットリテラシーの高い人たちの答えは「イエス」でしょう。検索すれば、もしくはSNSで質問を投げれば、自ずと答えにたどり着き、このようなニッチなニーズを抱えている人に対して広告が到達するよりも早く知ることができるかと思います。

でもネットリテラシーの高くない人にとっては、旧来の広告の仕組みが効くことになるでしょう。しかし旧来の広告の仕組みが効く人たちは、スマホを持たず、テレビが好きで、CMに感化されて買い物をすることもあり、広告を「嫌われもの」だと思っていない人(=今年70歳になったうちの母親です)たちです。ということは、今後10年、20年程度ならまだ旧来の広告の仕組みは効果があるかもしれませんが、その頃、大きなシェアを握っている広告は、Dashボタンのように「再定義/拡張された広告」である可能性が高いということになるでしょう。

それまでに、あらゆる広告代理店は新たな広告フォーマットを生み出さなければならないのか、もしくはあらゆる企業は新たな広告フォーマットに対応するか、新たな広告フォーマットを生み出さなければならないのか。

今、新たな広告フォーマットとして、Google HomeやAmazon Echoのような音声アシスタントデバイスが担う可能性は示唆されていますが、それは例えば「お昼ご飯なにがいいと思う?」と問いかけると「(広告入札額の最も高いファストフード店)がオススメですよ。デリバリーの電話番号は……」と案内してくれるという、またもや「嫌われもの」の仲間入りをするしかないパターンです。

しかし新しくないものでも、「消費者が主体的に感じる」「欲望を充足させるもの」はあるのではないでしょうか。

なんのひねりもなく、当たり前すぎて書くのも恥ずかしいですが、それは「実店舗」です。

Dashボタンの良いところは、それが物理ボタンだというところです。「Dashボタンアプリ」を出せば済んでしまいそうなものを、フィジカルなもので、あまり融通の利かないものに落とし込んでしまったところに強さがあります。一方で欠点は「面白くない」ところです。何度押しても同じものしか届かないし、買い物の快楽やワクワク感、意外性や驚きが一切排除されているので、ものすごく合理的です。合理的なのに今時物理ボタンという非合理性、というギャップは、ちょっと面白いところですが。

Amazonでの買い物は、目的が目的通りに果たせる一方で、ある種の「ガッカリ感」が伴います。それは、毎回オーダー通りのものが、それ以上でも以下でもなく届くからです。当たり前の話ですが、全く同じものを実店舗で買うと、店頭で手にとって考える瞬間、レジで包装してもらうのを見ながらワクワクする瞬間、帰路で重みを感じながら、包装を解きたい衝動と戦う瞬間を経て、帰宅後いよいよ開封、となるので、結構満足度が高まります。それがAmazonだと、プロセスをショートカットされて突然モノだけ届いてしまうような唐突感すら感じるのです。

実はこれは、Amazonでもマーケットプレイスで購入すると、若干事情が違います。去年マーケットプレイスで購入した本は、開封してパラパラとめくってみると、しおりのような紙が一枚挟まっていました。しかしよく見るとそれは地元の居酒屋と思しきお店の割引券。おそらく元の持ち主がしおり代わりに使っていてそのまま忘れてしまっていたのだろうと思いますが、こういう不可抗力のようなものが、結構満足度を上げてくれたりすることがあります。これは前回記事「観光客の哲学」はさまざまな閉塞感に対して「応用」できる(という誤解≒誤配)の「誤配」という考え方ともつながっているかも知れません。

なにが言いたいかというと、「実店舗」というのは、様々な商品が並び、消費者の目的と合致するか否かは出たとこ勝負のようなところも含めて、既に「広告」だという、まるで当たり前の話です。もう一度前回記事と関連付けると、ウィンドウショッピング、ショールーミングは「観光客の哲学」でもショッピングモールを題材に取り上げている通り「観光」のひとつの形です。しかし当たり前のことでありながら、ショッピングモールもリアル書店も百貨店も大型家電量販店もドラッグストアも、かなり苦しい時代です。今それらの機能はコンビニに集約されていますが、コンビニは実店舗でありながら限りなくネットショッピングに近い経営ですので、Dashボタンの合理性と大差がありません。

問題のひとつとして、ショールーミングによって買い物が完結してしまうことがあります(これを逆手にとって、店舗に在庫を置かず、見本の横にタブレット端末を置き、その場で購入手続きを行うなどの施策をしている家具メーカーもアメリカにはあります)が、一方で、昨今取りざたされている流通業のキャパオーバー問題も解決しなければなりません。これは、消費者が現場での実体験をその場で還元しない上に、市場に対して過度なサービスを要求している、とも取れます。そして、Dashボタンという「最新かつ最善の広告フォーマット」ではどちらの問題も解決できません。広告はこれらの問題を解決するためのものではありませんが、「これからの広告」を考えるのであれば、サステナビリティは非常に重要です。Dashボタンはその点、焼畑農業的で、持続性(サービス単体として、ではなく)を考慮しているとは思えません。

解決方法は、(言葉の上では)とても簡単です。消費者の行動を転回してしまえばいいわけです。実店舗で閲覧し、ネットで購入する行為をショールーミングと言いますが、ネットで閲覧し、実店舗で購入する行為は「ウェブルーミング」と言います。僕はこの「ウェブルーミング」をする消費者が鍵なんじゃないかと思うんですが、ショッピングモールもリアル書店も百貨店も大型家電量販店もドラッグストアも、「ウェブルーミング」の場にしてしまえばいいのではないでしょうか。

いわゆるマス広告の費用対効果については、ずっと以前から問題視されていて、広告予算を店頭プロモーションに振り分けるという現象もありました。店頭で実物に触れることで理解を促進し、好感度を上げ、購入を促す施策は様々な試行錯誤が重ねられてきています。しかし「ウェブルーミング」という前提で、各メーカーだけでなく、店舗全体の思想も含めて対応した形でのあり方というのは、まだこれからなのではないかと思います。

ウェブで商品を知った消費者が、「店頭で買いたい」と思わせるアプローチ。そこには当然、ウェブで出会わなかった商品も並んでいて、思いもよらない自分のニーズや気づきも生まれます。

こう書くと、現在の実店舗の機能とあまり差がないようにも感じます。しかし、「ウェブルーミング」を促進する方法は、現在の実店舗のあり方をそのまま継続することではありません。「ウェブルーミング」を行う消費者は既に知識や情報を集め、足りない部分を補完するために店舗を訪れます。そのニーズを満たさなければ、「実店舗で見ても意味がなかった」と手ぶらで帰宅してしまいます。現在の実店舗を巡っていると、正直、そういう体験が少なからずあります。「ウェブルーミング」を前提とすると、店頭で小さなモニターを設置してCM映像をループ再生していることも、考え直す余地があるかも知れません。すでにYouTubeなどでCMや解説映像を見てきた消費者に、同じ映像を見せて意味があるのか。

消費者の多くは、そこまでネットリテラシーの高い人たちではないでしょう。しかし、現在実店舗がその規模を維持することに大変な苦労をしているならば、膨大に膨らんだネット通販を「消費者に満足感を与える形で」取り返さなければならないのではないでしょうか。

検索は万能ではありません。ネット上の情報は、誰もが知りたいことに関しては、特にIT系の情報に関しては、膨大に揃っています。それは、知りたい人が多い上に、知ってる人も多く、それについて文章化し、ブログなりにアップするリテラシーの持ち主も多いからです(例:iPhoneについて)。しかし、あまり多くの人が興味を持っておらず、結構昔の話で、知ってる人も少ない上、それをわざわざ文章化し、ブログなりにアップするリテラシーもないようなことに関しては、キーワードの絞り込みからして相当難易度が高くなります(例:家庭用ハイファイアンプを最初に商品化したメーカーについて)。万能のように見えて、ネットを中心にした購買行為は、非常に狭い視野で商品選定してしまっている可能性が高いです。その時、「嫌われもの」となった「広告」の役割は、その狭まった視野を拡張する「実店舗」という、リアルで偶然性の溢れた現場が担うのではないかと思うのです。それは、氏の結論にある「欲望を喚起させるのでなく、欲望を充足させるもの」であり、「一方的に作り出すのでなく、消費者が主体的に感じるべきもの」として、私たちの前に堂々と屹立しているのです。

以上、田端氏のコラムのフレーズから連想し、妄想を膨らましながら、「これからの広告」について考えてみました。

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