悩める遅読者〜ドストエフスキーは読み易かった〜

ひとり親になって数年、それまで趣味にしていたことができなくなり、できなくなると執着も薄れ、いわゆる「趣味」と呼べるものがなんだったのか分からなくなってきている自分に、唯一残っていた、というか、継続可能だったのが、読書でした。

自分の興味・関心の赴くままに乱読し、その中で本と本の間に思いもよらない繋がりや共通項を見出す楽しみは、無理なく自分のペースで、通勤電車の中などの空き時間も利用しながら味わうことのできる、今の自分にとっての数少ない趣味と言えるかもしれません。

しかし悩ましいのは、読むのが遅いということ。どれだけ興味が高まり、書店や図書館で色めき立っていても、ひと月に読める本の数は多くて2、3冊。難しい本になると、100ページ強しかないのにひと月経っても読み終わらないこともあります。自分がもっと学のある人間ならスラスラと読めるのでしょうが、所詮勉強ができないから芸術系の(しかも短期)大学に行ったような人間ですから、カントの「永遠平和のために」を読んでみても、1ページ毎につまずいては「何を言ってるのか分からない……」と頭を悩ませ、眠気に襲われながら意地になって読み進めるも、読了後もやはりほとんど理解できていないという有様なのです。

そもそも、小説が読めません。いや、全く読めないわけではないですし、読めば読んだでそれなりに楽しめなくはないんですが、とても苦手です。最近も、今まで一度もちゃんと読んだことがなかった「三国志」を読んでみようと思い、無料だという理由だけで吉川英治版を読みました。大変面白く、講談のようなカッコいい台詞回しにも痺れました(途中、書店で横山光輝版の1巻を読んでみたら、吉川英治版そのままだったので驚きましたが、横山光輝は吉川英治版をベースに漫画版を描いていたのですね。あの有名な「げえっ」も元ネタが吉川英治版だと、どれぐらいの人が気付いているのでしょうか)。しかし、作中に出てくる古い漢字が読めない、地名が分からない、官位の意味が分からないなど、とにかく分からないことだらけで、Kindleだったので調べながら読み進めましたが、かなりぼんやりしたまま読んだところも少なくありませんでした。何より僕が小説の苦手な最も大きな理由として、「状況描写の説明を読むのが苦手」というのがあり、作者がその場その場の状況や情景について言葉で説明しているくだりを読んでいても、頭に明確な像を結ぶことがとても難しいのです。なので、三国志を読んでいても、どこで誰が、どんな状態で、何をしているのかがなかなか把握できず、戦の描写を読んでいても、結論近くを読んでようやく「あ、曹操が不利だったのか」というようなことに気づくことすらあるぐらいでした。これだけまともに読めていないのによく面白かったとか言えるな自分、という思いと、これだけ読めてないのに面白さがわかるなんて吉川英治はすごいな、という思いが交錯しています。

そんな僕が避けてきた書物のジャンルに、文学作品があります。特に僕はジュブナイル小説、今で言う「ラノベ」から小説の世界に入った人間でしたので、そもそも文学作品に興味が湧かず、90年代に富士見書房や朝日ソノラマが出していた作品ばかり読んでいました。苦手意識というより、興味がわかなかったという方が正しいです。

名前だけはよく知っていても、1ページも読んだことのない作品が世の中に溢れている状況の中、自分も少しは古典に触れてみたいという気分が、40も過ぎてようやく(わずかに)頭をもたげてきたので、手塚治虫版で一度読んだことのあった、ドストエフスキー「罪と罰」を読んでみることにしました。

遅読かつ文学作品に馴染みがなく、特にロシアの作家の作品など読んだことも無いのに、上下巻合わせて1,000ページもあるこの本を、僕は読み終えることができるんだろうか……と随分心配しましたが、ページをめくり始めると、どんどん作品の世界に引っ張り込まれ、自分の普段の読書ペースを上回る速さで読み進めることができました。

結局その後、「カラマーゾフの兄弟」「悪霊」「白痴」「未成年」というドストエフスキー後期の長編一通りと、短編「地下室の手記」を読むことになりました。それは、自分にとってドストエフスキーは読みやすい、と感じたからでした。

なぜならドストエフスキーの小説では、状況描写は最小限に抑えられ、大半は登場人物の台詞の応酬で出来上がっているからです。「罪と罰」の序盤で主人公ラスコーリニコフに絡んでくる飲んだくれのマルメラードフが自分の駄目さ加減をひたすらしゃべり続けるくだりは、延々と説明描写を挟まずにただただ一方的に酔っ払いが喋っているんですが、まるで落語家の話を聞いているような読みやすさで次第に引き込まれ、最後にはこの酔っ払いの存在にすっかり心を奪われてしまいます。

この異常な長台詞によって、ドストエフスキーの物語は展開していきますので、まるで戯曲のように思えるところもあります。しかしファミコン黎明期直撃世代の僕が感じたのは、アドベンチャーゲーム感でした。例えば「カラマーゾフの兄弟」などは、アリョーシャが周りから用事を言い渡されて、父のところや兄のところ、兄の婚約者の元へ足を運んでは、その場で長話につきあい、また別の場所へ移動すると、途中でまた誰か別の人に出会い、話が展開していく……という流れは、「移動」→「会話」→「移動」の繰り返しで、物語がほぼ会話によって出来上がっています。これは、口数の少ない人たちの行動を文章で説明することに終始する本と比べると、遥かに読みやすいです。

ただ読みやすさと理解の深さはイコールでは無いので、個人的には楽しく読みながらも、ドストエフスキーの意図がどれだけ読めたかと言えば、まあほとんど拾いきれてないかと思います。「謎とき『罪と罰』」を読んでも「そんなの謎とも思ってなかったわ」ということの連発だったほどですから。

それでもドストエフスキーはとても面白く、自分なりに響くところ、感涙するところ、鳥肌の立つところ、笑えるところが随所にあったので、僕と同じ症状を持つ遅読者の方なら、あまり辛さを感じることなく楽しい読書が味わえるのではないかと思います。「カラマーゾフの兄弟」は長い割に読みやすく、「罪と罰」は後期長編作品の中でも異色のエンタメ感があり、この2作は特におすすめしたいです。作者らしき人物(一応作中で人物名も出ますが、ほぼ「わたし」として登場)の記述として話が進みつつ、時系列がややこしい「悪霊」はやや読みづらいですがその分強烈なインパクトを残しますし、厨二病的痛々しさを抱える主人公になんとも言えない感情を浮かべてしまう「未成年」、主人公の発作の描写に息を呑み、純粋な心を持つその主人公を中心に巻き起こる腹芸の渦の虚しさに終始うんざりしてしまう「白痴」も好きです。「地下室の手記」は厨二病が過ぎて、身に覚えのある自分はひえぇ、となりました。

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