「銃・病原菌・鉄」から、GDPRの原因やこれからの日本について想う

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」を文庫版巻で読みました。原著は2000年に出版された約20年前の作品です。

世界において、国ごとに著しい文明の格差があるのはなぜか。それを、(白人である)著者がニューギニア人からの「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」という質問を発端に、人類の誕生から人類が歩んだ足跡をたどりながら、丁寧に謎を解いていく、まるでミステリー小説のような驚きや快感のあるドキュメンタリーです。

本書のタイトル「銃・病原菌・鉄」は、人類史において優位に立った国々が持ち、優位に立てなかった国々が持っていなかったもの3つを象徴的に上げていますが、本書の内容はその3点を追及するというよりも、その3点に至った原因について考察しているので、銃の持つ影響がどうだったかなど、各項目についての詳細には触れられていません。ですので、タイトルに引っ張られ過ぎると肩透かしを食う可能性はあります。ただ、肩透かしを食ったとしても、地球に住んでいる以上、最後まで読めば相当得るものがあるとは思いますが。

本書で著者は、この格差の原因が人種ではなく環境にあると語っています。例えば白人は黒人より優秀であるとか、先住民は文明の進んだ人種に劣るといった考えは否定しています。そうではなく、人々が住んでいた「環境」にこそ原因があり、その数千年の積み重ねが、結果的に格差につながっていると考えます。

大雑把にまとめてみます。

文明が発達するためには、文明を担う人手が必要ですが、狩猟生活を続けている人々は、その日暮らしになりやすく、獲物を求めて移動が必要になるために、文明を発達させる余裕がありません。農耕牧畜生活を始めた人々は、食料の備蓄と定住が可能になり、備蓄ができれば食料を確保する以外のことに時間を割くことができ、定住すれば建築・繁殖など、様々な文明を発達させることができます。農耕牧畜生活を始めるには、農耕に向いた品種の植物と、家畜に向いた動物が必要ですが、これらが都合よく揃うかどうかで国ごとに差が生まれます。さらに農耕牧畜が広まるには、それに向いた土地が近接してるかによりますが、山や痩せた土地で断絶されてしまうと、隔絶した社会の中でこぢんまりとしか進行しません。その点、東西に延びるユーラシア大陸と比べてアフリカ・アメリカ大陸が不利なのは、南北に延びた大陸では気候に大きな違いが生まれ、特に赤道を挟むと農耕牧畜が伝播するには不利になってしまいます。ユーラシア大陸は赤道で分断されていません。農耕牧畜が広まることで文明が発達し、専属の軍隊や高度な武器の製造につながり、また、家畜から感染した病原菌によって様々な免疫を得ることで、牧畜が進まなかった国へ攻め込んだ際に、軍隊よりも病原菌への免疫の少ない多くの人々を死に追いやる力を持つことができました。

つまり、国ごとに著しい文明の格差があるのは、人種によるものではなく、たまたま好条件の揃った土地に生まれた人々が、その好条件を生かすことで高度な文明を作り出すことに成功しただけで、そこには人間そのものによる優劣は存在しないということです。エピローグでも、

オーストラリア先住民とユーラシア大陸の先住民がそれぞれの居住地域を入れ替えていれば、現代のユーラシア大陸、南北アメリカ大陸、そしてオーストラリア大陸の人口の大半はオーストラリア先住民の子孫で占められているだろうし、オーストラリア大陸ではユーラシア大陸の先住民の子孫が少数民族になってちりぢりばらばらに暮らしているだろう

と書いています。

実は本書は、エピローグを読めば結論が端的にまとめられているので、上下巻約800ページも読んでる暇がないという人は、下巻最後の約40ページを読むだけで要点は押さえられるようになっています。そのエピローグで興味深いのは、近代においてなぜ中国が(紀元前にはヨーロッパに先行していたにもかかわらず)覇権を握らなかったのかについての考察です。その理由は、中国は国家が統一された状態を長く保つことで、一人の支配者の采配によって文明の発展にブレーキをかけられることが繰り返されたためだということです。これは、中国の土地がなだらかで海岸線も入り組んでおらず、地域の結びつきが強固でありすぎたことが裏目に出たとしています。ヨーロッパは小国家がひしめき合い、互いに切磋琢磨したことが功を奏したというわけです。本書では、

時間的に長い尺度で評価した場合、技術は、地理的な結びつきが強すぎたところでもなく、弱すぎたところでもなく、中程度のところでもっとも進化のスピードが速かったと思われる

という、おもわず笑ってしまいそうな形でまとめられています。日本が江戸時代、徳川幕府による全国統一によって鎖国し、文明の発展において遅れをとったのも、さもありなんという感じがしますが、ここで僕が思い出したのは「GDPR」です。

こちらも中国との比較として書かれていますが、

今日(一九九七年時点)では、ヨーロッパ経済共同体によってヨーロッパを統一しようという温厚な計画でさえ、意見の一致が見られずに挫折している。それは、統一を嫌う伝統がヨーロッパに深く根付いているからである

とされていますが、1999年にユーロが導入され、今も統一通貨として広く認知されています。イギリスは2016年にEU離脱を表明し、著者の記すところによる「統一を嫌う伝統」による反発のようにも見えますが、いざ離脱しようとするとあまりのデメリットを前に尻込みしてしまっているという状況です。

同じ2016年、EUは「EU一般データ保護規則」、いわゆるGDPRを採択し、昨年5月より発効。企業などがEUの住民からデータを所得する場合、先に説明し、同意を取る必要があるというもので、その厳格さと煩雑さによってネット上で混乱と困惑が起きました。

加えて「eプライバシー規則」という、クッキーを行動ターゲティング広告などで利用する場合は事前にユーザーの確認を取らせた上で、ユーザーにはクッキー取得の可否に関わらずサービスを提供しなければいけないという規則が準備されており、さらに「EU著作権指令」における、ネット上の著作権侵害コンテンツについてはサービス提供者が責任を負うものとする、などといった、EUにおけるインターネットサービスをめぐる保守的な動きは、本書から見ると、必然のように思えます(移民問題についても保守的な傾向が強まりつつも、綱引きが続いている感じがするのは、ヨーロッパの「統一を嫌う伝統」によるものなのでしょうか)。

このEUの方向を良しとするか否かは微妙なところです。過去にならって小国家ごとに競争しあうべきなのか、統一することで少しブレーキをかけるべきなのか。

翻って今の日本は、安定政権が続き、鎖国時代にも似た「統一国家」となっている印象があります。その悪影響なのか、国内の生産力は下がり、競争力も弱り続け、有識者の口から出るのは「日本は国際社会で勝てない」「日本は終わった」「海外に移住すべし」というネガティブな話ばかりです。

本書によれば、文明を支えるのは環境です。本書では肥沃三日月地帯が人類最初期に栄えながら、現在その面影をなくしてしまっている理由として、森林伐採による環境破壊が全弱な土地に致命的なダメージを与えたからと書いていますが、日本は今、環境のメリットを活かせているでしょうか。原発はその足を引っ張ってはいないでしょうか。地方と首都圏の関係性は、今のありようが正しいのでしょうか。本書を通して改めて、今の世界と、今の日本について、考えさせられました。

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