ホライズン山下宅配便「期待」という曲についての妄想5,000字解説

シングル「期待」は、3曲入りシングルとしてリリースされた。当時、関西のライブスペース各所でシマウマのイラストのポスターを見かけ、Twitter上で突如シマウマの話がバズったことに端を発し、僕も「ホライズン山下宅配便」というバンドの名を知るに至った。

そしてこのシングルの最後の曲として、タイトル・トラックが収録されている。アルバムではよくあることだが、シングルでタイトル曲が最後に入っているケースは珍しい。3曲でありながらアルバム相当のスケール感を狙ってのことであると思われる。

今回は、その3曲目にしてタイトル曲「期待」について書いてみようと思う。

「期待」という言葉は、何か良いことに対して待ち望む姿勢を指す。そのまま発音だけを拾えば「気体」とも聞こえるが、この曲の歌詞が実態の薄いナンセンスな内容でありながら、「ハンバーグ」「マウスピース」と、頭から離れないフレーズをふんだんに交え、歌メロが32小節のリフレインであることから、「気体」のように実体のない、霧散して消えてしまうものとは考えづらい。しかし「奇態」と聞けば、その時間軸やシチュエーションを継ぎ接ぎしたような歌詞とイメージが合致する。「稀代」となるとますますこの容易ならざる個性的なメンバーと個性的な楽曲を象徴するようで、聴き手の期待をいやが応にも膨らませてくれる。

さてこのシングルのジャケットは小田島等によるイラストだが、そこに描かれているのはメンバーの姿ではなく縞馬である。手に桑を持ち、オーバーオールを着て、草原に居ることからこの縞馬が農夫であることが伺える。なぜ縞馬かは、おそらく一曲目の「ガラスの階段」冒頭に出てくる歌詞「しまうま からだの 重い荷物を おろして のぼる」からインスパイアされたものだと思われるが、もう少し掘り下げてみたい。

縞馬の縞は人間の視覚からすると草原や森の中で目立つように感じるが、縞馬をターゲットとする肉食動物の目は、色の違いをほぼ判別できない。つまり、縞模様は草原の草を模しているということで、天敵から身を守る効果は高いと言える。

しかし人間の目に映る白と黒のコントラストは殊更に目立つ。草原にたたずむジャケットの縞馬は、背景をかき消すほど存在を主張している。この自己主張の強さはバンドの突出したソングライティングとパフォーマンスに比例する。

また、「ホライズン」とは地平線、水平線を意味することを考えると、白と黒の境界線に地の果てを望む地表と空の間を区切る地平線・水平線を見いだしていたとしても不思議ではない。

ちなみに、縞馬の背中は重みに弱く、重い荷物を運ぶには適さない。

さて演奏は、伴奏のない複数人によるコーラスで始まる。歌メロとしては、ここでの32小節が、最後まで繰り返されることとなる。

「神々の期待に応え友達とハンバーグを食べます」という楽曲中最も印象的な歌詞によって幕を開ける。ゆったりとユニゾンで歌われるコーラスは「神々」というフレーズを呼応するように、聖歌隊を彷彿とさせる整然としたものである。

歌詞は、その「神々」が、ある人物に対して「友達とハンバーグを食べる」ことを期待していると歌う。

ハンバーグという言葉からはドイツを連想するが、そもそもはアメリカに輸入された時点で今に伝わる「ハンバーグステーキ」となったであろうことを考えると、「神々」とはアメリカ……つまりキリスト教における神を示すという解釈ができる。

しかしキリスト教は「一神教」であるので、「神々」と複数形で捉えているということはキリスト教ではなくなる。また、ドイツも最大の宗教はキリスト教であるので、ここで指す「神々」は「八百万の神」が存在する日本の神、そして「ハンバーグ」は日本において100年以上の歴史を持つ洋食屋のハンバーグを指していると考えるのが自然であろう。

整然としたコーラスから一転し、伴瀬によるピアノ、倉林によるコンガとドラムスでリズミカルな展開を見せる。ここに重なる歌は冒頭とは違うメンバーでのコーラスだが、より小編成になっている。歌詞は同じ。

この後、サンタナの「Jingo」を彷彿とさせるラテン・ロック的な演奏が最後まで持続される。

「Jingo」はカルロス・サンタナがウッドストック・フェスティバル出演と同時期に発表したデビューアルバムに収録されている曲。映画「ウッドストック/愛と平和と音楽の3日間」には、同作からの「ソウル・サクリファイス」が収録されていて、間奏で見せるマイケル・シュリーブのジャジーなドラムソロが見所である。また、当時キーボード/ボーカルとして参加していたグレッグ・ローリーは、次作「天の守護神」収録の「ブラック・マジック・ウーマン」でもリード・ボーカルを取るなど多大な貢献をしていたが、後に同じくサンタナ・バンドにいたニール・ショーンと共にジャーニーを結成する。しかし、ジャーニー最大にして世界的大ヒット曲「オープン・アームズ」の頃には既に脱退している。97年に脱退前のサンタナ・バンドのメンバーを結集し、アブラクサス・プールという名前で初期サンタナ・サウンドを復活させたようなラテン・ロック・アルバムを制作。その際に「Jingo」をセルフ・カバーしている。

「期待」は2010年に既に一度録音を行い、アルバム「Hoca」収録曲としてリリースしているが、今回改めて録音されたものは、導入部とラテン・ロック以降でホーン・セクションと大編成のコーラスが加えられ、より劇的なアレンジとなっている。まずはここでトランペットが歌メロをなぞらえて高らかに響く。

冒頭のフレーズに続き、歌詞は続いて「港に船が着いた 外国の人がきました」となるが、この後すぐに「港に船が着いた 外国の人がいました」と展開する。この二行の間に大きな時間的な開きがある。が、まずは前段「神々の期待に応え友達とハンバーグを食べます」との関係性について考えてみる。

「港に船」と「外国の人」から日本人の誰しもが連想するのは江戸時代の鎖国〜開国への流れにおける異国間の交流であろう。同様のテーマで歌われていた曲に、ユニコーン「ヒゲとボイン」収録の「車も電話もないけれど」がある。正に「黒船」と歌っている曲だが、内容は、黒船と共に来た白人女性に主人公が一目惚れし、開国間もない日本で国際結婚をしてしまうという物語となっている。この「開国」という国際的な事業がパーソナルな「結婚」へと帰結してしまう急激な落差は、井上陽水「傘がない」における不穏な社会情勢と恋人のところに向かう主人公が今日の雨を気にするというコントラストをルーツとしていると考えられるが、現代では「セカイ系」と呼ばれ、主にアニメ文化の中で独自進化を遂げている。そして「期待」も、「神々」から「友達とハンバーグ」へと急転直下の展開を起こしているという意味では同じ系譜に当てはまる。

「期待」を「車も電話もないけれど」になぞらえると、「ハンバーグを食べます」と予告している「友達」は、「外国の人」である可能性が高くなる。現代日本は鎖国国家ではない。とすれば、「車も電話もないけれど」同様、舞台は現代ではないと解釈することになるが、これはこの後出てくる歌詞にある「シャンソン」「殿様」、そして片言の英語からも察しがつく。

一方、「期待」を「傘がない」になぞらえた場合、同曲が単なるセカイ系ラブソングではなく、学生運動後の「シラケ世代」をシニカルに捉えた社会的な曲であることを考えると、「ハンバーグを食べます」は安価に食することの出来るファミリーレストランでの外食もしくはコンビニエンスストアで購入できる手軽な中食、そして「友達」は昔から近所に住むごく近い存在、そして「神々の期待」はブラック企業に代表される日本の因習が若者に対して冷たく厳しい現実を無責任に突きつけてくる残酷さを表していると考えられる。すると、「シャンソン」「殿様」のフレーズからは別の意味が浮かび上がってくる。

しかしここは、「外国の人」の解釈に無理が生じないよう、「奇態」な「稀代」のバンドへの「期待」を抱きつつも、前者の解釈で歌詞を読み進めていきたい。

ではここで改めて「外国の人がきました」と「外国の人がいました」の時間的な開きについて考えてみたい。「きました」は、今そこに外国の人がいること、もしくは過去にいたことを示しているが、「いました」と続くことからすれば、今そこに外国の人が「いる」ことを示していると解釈することが懸命であろう。そして、「いました」と外国の人がその場から立ち去った後の場面を続いて表現している。

「ハンバーグを食べます」と予告している「友達」が「外国の人」だとすると、「きました」と「いました」の合間に食べた可能性が高いが、次の来日の際の約束として「今度一緒にハンバーグを食べよう」と話しているのかも知れない。しかし、現代と違い、文明開化の時期に渡航はそう簡単なことではないので、「きました」と「いました」の合間に食べたのであろうか。結論は先に送ることにする。

この後、黒岡の歌メロ通りに浅い起伏で歌われる英詞が登場する。「ハウ アー ユー ファイン」「サンキュー アンド ユー」「あなたの名前は ハウ アー ユー」となっているが、単なる挨拶に終始しながら最後に相手の名前を「ハウ アー ユー」と言ってしまう曲解やナンセンスは、ライブパフォーマンスにおける黒岡の寸劇、無茶振り、脱線、ジョークのセンスと符合するので、言葉を知らないなりに何となく会話をしている黒岡の気負いや迷いの無い雰囲気が最もよく出ている部分である。

この後ブレイクとなり、ホーン・セクションの登場となる。後半では8拍子の手拍子が入り、徐々に盛り上がりを高める。そしてこの後大合唱のコーラスが入るが、ここで繰り返される「マウスピース、マウスピース」には、後半の歌詞に出てくるというだけで、全く意味がない。この、響きのみで無意味なコーラスという技法は、クイーンが「ボヘミアン・ラプソディ」で実践している。同曲は1975年にリリースされたアルバム「オペラ座の夜」に収録されているが、キャッチーで分かりやすく、ストレートなロックナンバーも多い彼らの作品の中では異様なほど捩じれたアルバムで、フレディー・マーキュリーがエコーマシンを使って一人輪唱を行っている曲やディキシーランド風味の曲、ヴォードヴィル調、そして「You Suck My…」と始まる禍々しい曲まであり、初めてクイーンを聴く人が手に取るにはまずお勧めできないいびつさだが、この怖さは、ホライズンの得体の知れなさに共通する。

ブレイク明け、バックコーラスとともに突如「あらそい やめてごらん」と反戦歌的メッセージが現れるが、注目は平仮名である点と「やめてごらん」とやんわり促すニュアンスが含まれている点だ。

平仮名からは、文字の曲線の多さが、見るものに押し付けがましさや大上段からの権威的な物言いのような捉えられ方を避けた意図の思いが汲み取れる。そして、「あらそい やめてごらん」を受けて歌われる歌詞は「都会のシャンソンを歌います」。シャンソンとはフランス語で「歌」を意味するが、日本では音楽の一ジャンルとして定着した。しかし日本でシャンソンが歌われるようになるのは1935年の淡谷のり子「ドンニャ・マリキータ」のヒットをルーツとするのであれば、時代はかなり現代へ近づくことになる。

ここから考えられることは、「都会のシャンソン」を歌うのは未来の話である、ということだ。つまり、「ハンバーグを食べます」と予告した主人公は、戦前に外国の友人との再会を誓っているのだ。戦争が終結した暁には二人でハンバーグを食べ、流行りのシャンソンでも歌おうじゃないか。

「あらそい やめてごらん」という一見ユーモラスな印象も与える言葉には、それがまだ叶えられていないという悲壮感が裏側に隠されている。争いは、続いているのだ。

そうなると、後の歌詞の意味も明確になってくる。「裸足のメルヘンと友達」は、外国の友人の人柄を指している。「殿様のマウスピースを外します」は昭和天皇の「人間宣言」だし、「行きつけの喫茶店に陽は昇り」は、外国の友人と朝まで語り合った証だ。そして、ひとつのシンクロニシティを示しておきたい。淡谷のり子「ドンニャ・マリキータ」のSP盤は、中野忠晴「小さな喫茶店」とのカップリング発売であった。

ついでに付け加えると、「ドンニャ・マリキータ」は3拍子のナンバーで、本作1曲目の「ガラスの階段」と符合する。

盛り上がっていく後半部分の聞き所は、最後の「あらそい やめてごらん」の「ん」で声が裏返る点である。終始不思議な浮遊感を漂わせながら安定している声が、一瞬だけ急降下する。これは、ホライズンのボーカルに対する姿勢が如実に出ているパートと言える。つまり、彼らにとっての「歌の音程が外れる」はホライズンにとっての「音」を追求する場合にさした問題にはならないということだ。

果たして、主人公は無事終戦を迎え、外国の友人と再会することは出来たのだろうか。戦地に送られ、帰還することなく一生を終えたのかも知れない。または、彼が帰還し、終戦を迎えながらも、友人は命を落としているかも知れない。もしかすると、二人は敵国同士、戦場で鉢合わせていたのかも知れない。だとすれば、「期待」とは、戦地で密会した二人の誓いの歌とも考えられる。その密会は、戦闘機の「機体」の中で行われたのだろうか。

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