ホライズン山下宅配便「りぼん」はなぜ怖がられたのか。

ホライズン山下宅配便「りぼん」が発売されて1年以上経過しますが、先日彼らの過去のカタログ「とべばいいんですよとべばぴょんぴょんぴょん」「割れ割れみなかーにばる」「hoca」の3作をHOP KENで購入して聴いてみたところ、「りぼん」1作では見えて来なかった点が色々見えてきて、様々な発見もあったので、今更ですが改めてここに記してみようかと思います。ホライズン山下宅配便「期待」という曲についての妄想5,000字解説の続編のようなものでもあります。

実際には彼らの作品は他にも沢山リリースされているようですが、初期のものは殆どが廃盤、円盤からリリースされているDVDはHOP KENに置いていなかったので、上記3作品のみを資料とします。ライブ会場で販売されていた全曲解説も未入手です。またメンバーのサイドワークは、伴瀬氏の片想い、チェンバーアナホールトリニティ以外は耳にしておりません。

また前述の通り今回は妄想5,000字解説に沿ったものでもあるので、あまりネット上にある情報を参照しながら書いておりません。
詳しいことはりぼんの特設ページをご覧ください。
Qdiaryでは、メンバー本人の発言を元にした解説も。

さて「りぼん」発売当初、ライブ会場の物販で買い損ね、しばらく購入していなかった僕の耳に届いてきた噂は、
「怖い」
でした。

某カップルが車中でかけていたところ、彼氏が「もう止めようか」と盤の変更を申し入れたところ、彼女から「もうちょっと我慢する」という返答があったという話もあるほどの、先行して発売されたシングル「期待」で生まれた期待を鮮やかにかわした問題作、との事前情報を受けたあと、覚悟して聴いた僕は、その言葉が嘘ではなく、またその「違和感」のようなものこそが大きな魅力でもあることを強く感じました。

冒頭“オクリモノ”が、どんよりとしたイントロで始まり、歌は黒岡氏の独唱ではなくメンバーの合唱、拍子もBPMも一定ではないという不安定さは、聴き手を不安に陥れるには十分条件が揃っていると言えましょう。更に意味が捉え難い歌詞が追い討ちをかけるように聴き手を突き放します。

アルバム全体の方向性を示すものとしてアルバムの1曲目は非常に重要ですが、この曲は「一体どこに連れて行かれるのだろうか」と固唾を飲ませる緊迫感が漲っています。

さらにインターバルもなく“とっとととっと、とっとととっと”という朴訥なクワイアが前曲アウトロの変拍子を強引に4拍子に戻し、“点ブレイク”へ。ここで黒岡氏による独唱が始まるも間もなく拍子もBPMも変わり不穏な空気が流れ、またも緊張が緩和しないまま曲は3分足らずで終わります。

この後、唐突な出だしとめまぐるしい展開で聴き手を翻弄する“オリンピックの前日”を挟み、メンバーが順番に朗らかな歌声を聞かせてくれる、前半の休憩地点とも言える“ロートホルン”でようやく緊張が緩和します。

小気味の良いギターソロに唸り、安定した単純拍子のノリの良さに身体を動かしながら落ち着いたところで、今度は現代音楽的なアプローチで独りオペラのような世界を生み出す“イカレコンマタヒラ”がまたしても安易なダンスを拒否します。具体的な意味を持ち始めたと思わせた歌詞も、ここで意味不明な造語と絡み合い、ナンセンスの極みに達します。

木管楽器のメロディからシームレスにギターのアルペジオに変わると、“風呂の歌”という、正に風呂場で脱力しながら歌っているような曲へ。途中で風呂場にいる黒岡氏・倉林氏から湯船に浸されたお湯へクローズアップし、また黒岡氏・倉林氏へ……と行き来する曲展開は、前半の不穏さと比べると非常に視覚的で取っ付きやすい印象があります。

前半を締めくくるように、30秒の小曲“騎士”が続きます。倉林氏による素朴な弾き語りで、“君”が外国の映画を観ながら、字幕も読めないのに飛び跳ねて涙を流しているのを“僕”が見ない振りをしたという話で、この曲は、黒岡氏がリードボーカルで他メンバーも参加した“岸”として、“ハコビヤ”“あかいあかい”を挟んで再登場します。

なぜ“きし”なのか。2度目に登場する“岸”は“騎士”にとって“既視”と言えるでしょう。“騎士”もそういう意味では、“岸”にとっての“既視”であり、また“既視感”とは「この情景を見たことがある」という、夢うつつの記憶との混同で起こる場合もあるので、“風呂の歌”で眠ってしまった倉林氏・黒岡氏にとっての“既視”である可能性も高いと言えます。

その“きし”に挟まれたうちの一曲“ハコビヤ”は、音の隙間の多い、管弦楽を取り入れた曲で“イカレコンマタヒラ”に通じるところがありますが、より叙情的で、黒岡氏も曲に沿ってメロディアスに歌っています。

鉄琴に乗せての独唱からラストはマーチングドラム+ギターソロになるものの他の曲と比べてエキセントリックな曲展開は少なく、徐々に盛り上がるような構築の妙で聴き手を引き込む“あかいあかい”が終わると、“岸”で小休止し、アルバムはエンディングへ向けて勢いを加速させます。

4分弱でありながら、ロックオペラの如き壮大なドラマを描く“コンドルと飛んでゆく”。“ハコビヤ”辺りから、突拍子も無い曲展開で翻弄させる傾向が薄まっていましたが、ここに来ていわゆるロック的なカタルシスでラストの倉林氏独唱からのクワイアへと一気になだれ込みます。

そして最後の曲、シングル「期待」にも収録されていた“ガラスの階段”は、これまでの様々な要素の集大成のようなホライズン型バラード曲でドラマティックに大団円を迎えます。

冒頭の疑問に戻ると、何故本作が「怖い」のかは、おそらく歌詞の捕らえ所のなさや何を考えているのか分からない不気味さが、アルバム前半に集中していたからであろうと思われます。ジャケットの4つのイラストの背景が濃いグレーであることや、CDレーベル全面にプリントされたIllustratorで描かれたとおぼしきリボンのイラストの、メーターが振り切ったような大胆さも何とはなしに怖さを感じます。

では果たして、本作を「怖い」と感じた人は、過去の作品に触れていたのでしょうか。

ここで2005年の作品に遡ります。

「とべばいいんですよとべばぴょんぴょんぴょん」は、それまでCD-R作品やライブで披露されていた膨大な曲の中から厳選して演奏・録音した作品ということらしく、いわゆる世に多い「1stアルバムはそれまでのストックが多いから最高傑作になる確率が高い」を感じさせる粒ぞろいの作品集になっています。

野球に汗を流しながらも、女の子のことをふと考えて野球から完全に気が逸れる高校球児の様を見事に活写した“甲子園”は、やがて野球をしていても女の子のことばかりを考え始め、爆発寸前にあこがれの子がチームメイトと付き合っていることを知り腑抜けになるところまでのユーモラスかつリアルな表現が実に見事。松坂大輔が高校時代、後輩に葉月里緒菜のヘアヌード写真集を買わせに行ったというエピソードがありますが、男子高校生とはおしなべてそういう生き物だということです。

歌が頭から離れなくなる“隣人と私たちは手を組んだ”“魔王のテーマ”、ブチ切れそうなアクの強さで激しくロックする“がちゃり”、快活なディスコチューン“レーズンパン”と、枚挙に暇が無いほどの充実度ですが、「りぼん」と比較するとその過程で大きな変化がいくつかあることに気づきます。

ひとまず2008年(録音は2007年)の「割れ割れみなかーにばる」に移ります。

黒岡氏・伴瀬氏の二人編成での作品になりますが、「とべばいいんですよとべばぴょんぴょんぴょん」が元々ローファイな録音だったこともあり、二人での演奏でもガレージロック的な感触が逆に功を奏している部分もあり、メンバーが抜けたことによる欠落感はあまりありません。二人になった影響か、伴瀬氏がより前面に出ている印象があります。必然的に弾き語りに近いスタイルを取る場面もあり、彼のソロ活動での雰囲気も。

シュールさや唐突な可変拍子は健在ですが、前作がロックサウンドの様々なスタイルの博覧会のような作品集であったのと比べるとより自由度が上がっており、黒岡氏による木琴の導入や“ハイポジション”のような抽象的なインストナンバー、浪曲風の歌唱(“厚着のモンプチ”)、デーモン小暮風シャウト(“笑う仏に男のやせ我慢”)など、二人になったことを引き金に新たなことにもチャレンジしている過程が垣間見られます。その過程が、4人編成に戻ってからもある程度引き継がれながら、次の作品へと結実していきます。

2010年リリースの「Hoca」には、2012年リリース“期待”の旧バージョン“Qui→tai”や、前作“笑う仏に男のやせ我慢”の再録“HOTOKE”が入っていて、2008年から2012年への橋渡し的な役割も担っていますが、音楽性としても、「りぼん」へ至る進展を記録した重要な作品となっています。

アルバムのイントロにあたる“Hoca”とアウトロにあたる“monpeso”はインストですが、「割れ割れみなかーにばる」のイントロ“ハイポジション”ではアバンギャルドな即興音楽的だったものが、倉林氏のチェロをフィーチュアしたクラシックの小曲のようになっています。これは後の“イカレコンマタヒラ”への布石と捉えられるでしょう。ちなみに“Hoca”が伴瀬氏、“monpeso”が一尊氏の作曲。そして「りぼん」の“イカレコンマタヒラ”“ハコビヤ”は伴瀬氏の作曲。

歌詞の面では、架空の神話に基づいたコンセプチュアルな手法が取られており、各曲はシュールで抽象的ながらも状況が目に浮かぶストーリーテリングが行われていた「とべばいいんですよとべばぴょんぴょんぴょん」「割れ割れみなかーにばる」までの、ある種“庶民的な目線”から、より超常的な表現が増えてきます。それと共に、「割れ割れみんなかーにばる」まで存在していた、歌唱/演奏面でのシアトリカルな表現もなりを潜めます。「りぼん」の“風呂の歌”にその残り香が感じられますが、それはクラシック音楽において「具体音楽(ミュージック・コンクレート)」と対比する上での「抽象音楽」と言う場合における、具体的でない音で情景を想起させる表現に留まり、“ku-mon式脱退のテーマ”“大工の歌”などで耳にすることの出来る演劇・ミュージカルのようなものではありません。

つまりそれは、時にシャウトし、時に切羽詰まったかのように語り、時に音程を無視して歌っていた黒岡氏のエキセントリックな歌唱が、より穏やかに、正確に歌うようになったということでもあります。

「とべばいいんですよとべばぴょんぴょんぴょん」の魅力は、黒岡氏の素っ頓狂さ/エキセントリックさ(“くじら”での“ザック、ザックと、掘り進んで”の“堀り”の語尾下がりの発音は、当時の黒岡氏にとっての歌への考えを示している瞬間だと思います)であり、ギターロックとしての快活な演奏と唐突に現れる関節外しの妙であり、それでいて生活感がにじみ出るような歌詞であったわけですが、「りぼん」での彼らは、絶叫することもなければ唸りを上げてギターがいななくこともなく、どこか世界を達観しているかのように言葉を紡ぎ、丁寧にメロディを歌い上げるようになっています。

「Hoca」再録の“HOTOKE”は、4人編成でのキレのある演奏が味わえる好バージョンですが、一方で“笑う仏に男のやせ我慢”にあったデーモン小暮風シャウトや黒岡氏の歌い出し“唇が一つです”の節回し(くー↓ちびー→る↑がぁー↑)の面白さは後退していて、彼らが徐々にエキセントリックな演出に頼らなくなっている証左として非常に象徴的です。

また、「Hoca」収録の“Hoca”、“monpeso”の素晴らしさが、室内楽的アプローチの布石になっていることは疑いようのないところでしょう。

そして「りぼん」でより重要性を増しているのは、倉林氏の声。彼のまどろみを誘うような柔らかい声は“ロートホルン”の出だしでそれまでの緊張を一気にほぐし、“風呂の歌”で湯船の底に沈み込み、“コンドルと飛んでゆく”のラストで穏やかに空を舞います。そして、クワイアに彼の声が混ざるだけで単なる声の重なりではなく、妙に心地良い暖かみを持った質感に変貌します。

「割れ割れみなかーにばる」で黒岡氏と並んで前面に出ていた伴瀬氏が引き、倉林氏の声が強調されていることと、室内楽的な表現が増していることとは、倉林氏のバックグラウンドに“合唱”があることを考えれば必然とも言え、その相性の良さが「りぼん」の持つ質感、特に“ロートホルン”以降の展開に見て取れます。また、“ロートホルン”“岸”“騎士”が倉林氏の作曲であることも、「りぼん」において倉林氏が担っている役割の大きさを改めて示していると言えるでしょう。

さて、“本作を「怖い」と感じた人は、過去の作品に触れていたのか”という疑問ですが、おそらく順を追って聴き進めてきた長年のホライズンファンであれば、この「りぼん」に至る変化は段階的に起こっているものであり、それほど大きな驚きは無いかと思いますが、やはり冒頭の不穏さは、過去の3作品と比べても異質で、段階的な変化の中でも更に彼らにとっての“ロックバンドの定義”を広く深く押し進めている部分であるので、「怖い」と感じた人も過去の作品を愛聴していた可能性は否定できません。

バンド自身が本作にかなりの力を注いでいたのは公式サイトのコンテンツから察することができますし、実際本人たちにとってもかなりの自信作で、本作が“売れる”ことへの期待も少なからずあった、という話も聞きましたが、では何故それほどの力作が「怖い」ものになってしまったのでしょうか。

試しに、iPhone上でプレイリストを作成して、曲順を入れ替えてみました。

01. 岸
02. ロートホルン
03. ハコビヤ
04. オリンピックの前日
05. コンドルと飛んでいく
06. あかいあかい
07. イカレコンマタヒラ
08. 風呂の歌
09. オクリモノ
10. 点ブレイク
11. ガラスの階段
12. 騎士

“きし”をイントロ/アウトロにし、“ロートホルン”で軽快にスタートする構成。オリジナル冒頭で聴き手を金縛りにかける“オクリモノ”“点ブレイク”を後半に持ってきました。

これだけでアルバムの印象がぱっと明るくなり、オリジナルにおける、後半まで不安を引きずるような緊張感はかなり薄まります。

一方で、オリジナルで感じる“妖気”のようなものも薄まり、すっかり“陽気”になってしまっていて、それはそれで何か物足りない感じがします。

ここで改めて気がつくのは、「りぼん」が、ホライズンの純粋な進化系である一方で、前述したようにかなり洗練が進んだ作品である、ということです。当初、「りぼん」は享楽的であったシングル「期待」とは随分雰囲気の違う作品のように思っていましたが、作品を解体してみると、それほどかけ離れた存在ではなかったことが見えてきました。

ある種“角の取れた”作品とも言えるわけで、“Qui→tai”から“期待”への、よりカーニバル感とポピュラリティを増した進化の延長線上に「りぼん」はあります。それは彼らが世間に求めていた思いが形になったのだと思いますが、しかしそこで彼らの“悪魔性”か“毒性”のようなものが頭をもたげ、“オクリモノ”をアルバムのオープニングを飾る重要な位置に持って来させたのでしょう。

もし「りぼん」が僕のプレイリストのような曲順だったとすると、ホライズン山下宅配便は「可変拍子が特徴的な室内楽風ロックバンド」という奇怪な解釈をされていたかも知れません。しかし彼らの魅力は、そういった管理しやすい言葉で収斂されるものではなく、「あれは一体なんだったんだろう」と聴いた後にしばし呆然とし、頭の中に浮かぶ疑問符と小一時間格闘しながら「もしかしたらこういうことなのかもしれない」と妄想を膨らませる「余地」がふんだんに盛り込まれているところにあるのだと思います。

そう考えると、ホライズン山下宅配便というバンドの魂が思慮浅く分かりやすく解釈されてしまうことへの本能的な危機感から、自然とあの曲順を決めさせた、と思えなくもありません。

聴き手に対する疑問符の「オクリモノ」。赤いリボンを付けて宅配便で送られてきたそれは、受け手によって違った形に見えることでしょう。

ある人がホライズン山下宅配便についてこう評していました。

「素直さゼロ」

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