私たちは如何にして心配するのを止めて世界を愛するようになれるのか

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4年前の本ですが、一昨年あたりから世界的に保守的な傾向が顕著になり始め、自分自身も、人類の原初から辿ってみれば、地球市民的な発想には限界があるんじゃないか、と思いつつあったところで読むと、結構考え直させられるところがあったので、この機会に、本書における「僕らが寄付を行う意味」について、そして慈善団体が「僕らの寄付を促す方法」について、ちょっと考えてみたいと思います。

まず僕は、数年前までいくつかの慈善団体に寄付を行っていましたが、今は一切行っていません。きっかけは、シングルファーザーになったことでした。あまりの不安に視野狭窄的になり、自分たちのことを考えるだけで精一杯、という精神状態に陥ってしまったからです。

時間が経ち、生活状況は落ち着いたかといえば、それどころか更に荒れ狂い、次々に襲いかかってくるストレスフルな環境に爆発寸前ですが、そんな状況でも、本書を読んでいると、もう一度寄付活動を再開しようかな、と考えさせられてしまいました。

本書は、平たく言えば「あなたが国際貢献のために寄付すべき理由とその方法」について読者を説得するという内容です。この「あなたが救える命」という、「訴えかけるべき人には届かず、訴えかけなくても大丈夫そうな人に届きがち」なタイトルが非常に残念に思えるほど、非常にわかりやすく説得力のある本です。

何が良くできているかというと、僕のように寄付をしない人間が抱く「疑問」について、その疑問が頭に浮かんだが早いか「今あなたはこう思いましたね」と見透かしたように乗ってきます。それに対して真っ向から否定せず、「あなたの気持ちはわかります。実際にそのようなデータもあります」と、こちらの疑問に共感します。やはり自分の抱いた疑問は間違っていなかったと思うや否や、「でもね、それが援助をしない理由にはならんよ」と、論理・倫理によってこちらを揺さぶります。根拠を裏付けるために引用する調査・研究データの提示も十分に納得がいくまでいくつも用意され、行動経済学なども引用しながら、こちらが寄付行動に対して抱く疑問を次々に解きほぐしていきます。主にアメリカの読者に焦点を絞った内容であり、データも今となっては古く感じるところもありますが、それを差し置いても読む価値は非常に高いです。

例えば、慈善団体による寄付金の使い途について。日本でもこの手のツッコミはよく出てきますが、要するに集められた寄付金のうち、慈善団体の運営費にどれだけ割かれ、実際に援助に使われているのはどれだけなのか、という疑問に対して、本書では真正面から迎え撃ちます。ここで著者であるピーター・シンガーは、慈善団体にとって都合の良いことばかりを並べたてたりはしません。まずは、運営費の比率をチェックするためのウェブサービスを紹介し、続いてその数値の信憑性について疑問を投げかけます(運営費と援助費の振り分けは、解釈や言いようによって操作可能であるということ)。ここでさらに本質的な問題として、運営費の割合だけでその慈善団体の成果を評価することは難しいことを指摘します。そこでシンガーは、ギブ・ウェルという助成金提供団体やWHOの大規模な支援活動の事例などから、「一人の命を救うにはいくらかかるのか」という、明け透けのない、本音ベースの情報に迫っていくわけですが、ここでも慈善団体にとって都合の良い話が並ぶわけではありません。その一例として挙げると、アフリカの子供たちをマラリアから救うために蚊帳を配布する団体が掲げる「10ドルの蚊帳で一人の命を救うことができる。100ドル寄付すれば10人が救える」について、この謳い文句は正確ではないと反証します。何故なら、蚊帳一つとマラリアで死ぬ子供が確実に1対1にはならない(蚊帳がなくても死なない子供が大半だから)。調査の結果、大体20枚に一人が救えると考えられることから、一人を救うために200ドルはかかる計算になる、と指摘します。「〇〇円で〇〇人の命が救えます」という慈善団体のキャッチコピーは我々もよく目にしますが、それが論理的に破綻している可能性を示しています。その他コストのかからない方法、コストでは測りきれない効果などの事例を示しながら、一人の命を救う費用は慈善団体によって大きく開きがあることを認めた上で、シンガーはこう断言します。

こうした不確かさがある中で、私たちはどうすべきなのだろうか。優れた仕事をしている多くの団体があり、それらの団体は支援する価値のあるさまざまな機会を私たちに提供している。そのうちのどれが一番良いかがわからないということは、そのいずれに対しても寄付を行わないことの言い訳にはならない。

一つ一つの事例に対して、丹念に、熱の篭った解説を積み重ねた末のこの言葉に、読者は「ごもっともです」と頭を垂れる他ありません。

もう一つ。地球は人間が増えすぎてキャパオーバーしており、これ以上増えても生きていけない人が出てくるのは仕方がない、という、実は僕自身も思っていたようなことに対しても、事実ベースで反論しています。以下、本書より引用します。

一九六八年、昆虫学者のポール・エーリックはベストセラーとなった彼の著書『人口爆弾』において、私たちは人類全体に食糧を行き渡らせるための戦いに敗れたと警告した。世界は一九八五年までに「大規模な飢饉」に襲われ、「何億もの人々が飢えて死ぬことになる」と彼は予言した。幸いなことにその予言は誤っていた。彼が陰鬱な予言を行なってから三〇年の間に、食糧生産は一人当たりの生産量で見ても大きく増加した。また、一日あたりの必要摂取カロリーは二二〇〇カロリーであるが、これを摂取していない発展途上国に住む人々の割合は、二人に一人以上から、一〇人に一人というところまで減った。

これは、「貧しい人々の命を今救ったとしても、地球は収容人数をとうに超えているので、やがて人口崩壊が起きた場合により多くの人が死ぬことになるだけだ」という批判に対する反論でもある。

食料を燃料(トウモロコシ)や家畜の餌にしていることが、食料を行き渡らせなくしている、という指摘も本書にはありますが、土地にしても、砂漠の緑化はまだまだ可能性があるでしょう。

アフリカの砂漠にごみをまいて農地をつくる日本人

有機農業の研究を行なっている明治大学特任教授佐倉朗夫は、某テレビ番組でその有機栽培の理論を実践とともに紹介していましたが、土の中の微生物を増やし、雑草や枯葉を活用することで寄生虫の天敵となる虫との共生環境を長年かけて作り上げる様子を見ていると、ゴミによる砂漠の緑化は理にかなっており、大いに発展の余地のある方法であることを改めて感じました。

閑話休題。本書はこのような問いかけを四方八方から行った上で、寄付を行うかどうかは、最終的には慈善団体への支援は個々人の環境や考え方に左右される点は担保されており、あくまでも、読者がそれぞれの人生の中で寄付を行うという行為の優先順位をあげるための理由を明示するに止めています。文中では「ペットボトルの購入」「贅沢な外食」「コンサートや映画鑑賞」のようなものを控えることで寄付を行う余地は生まれるのでは、と提案していますが、僕にとってはいずれもほぼ日常にない出費(普段は浄水器をつけた水道から出る水を飲み、外食は休日に子供と行く時に限り、コンサートは約1年前に無料のものを見に行ったのが最後で、映画館には子供にせがまれない限り滅多に行けない)ではあるものの、家計簿を見れば無駄な出費が無いとは言えないので、そういった考えを巡らせるためには良い問いかけだと思います。

本書では、読者が読了後に行うべき具体的な行動として、寄付に限らず、勤務地や政府への働きかけなど、いくつか援助の手段を提示していますが、ここでは寄付についてのみに絞り、ここからは、本書の内容をヒントに、本書を読まない大多数の人たちが寄付を行うようにするにはどうすればいいか、考えてみます。

寄付によって救われる命と自身の浪費を客観的に比較すること、政府の援助が実質的な効果としては国民が思っているよりはるかに低いこと、寄付の効果について実感はなかなか伴わないこと(しかしそれが寄付をしない言い訳にはならないこと)、寄付によって自己の生活をどこまで犠牲にすべきか……など、本書による事細かな、そして説得力のある説得を受けて、僕は寄付の再開を検討し始めました。そう思って生活すると、日常の中で飛び込んでくる情報に対する反応は少し変わって来ます。これまでスルーしていたものに引っ掛かりを感じたり、「社会貢献」「福祉」といったキーワードに対する反応も変わってきます。

逆に言えば、本書を読んでいない、寄付に関心のない人たちにとっては、生活の中で同様の情報に接しても、特に反応もなくスルーしてしまっている可能性が高いとも言えます。本書でも、大富豪や年収10万ドル以上の高所得者が行うべき寄付額の目安を出しつつも、そのような人たちは社会の1割にしか至らないという前提がそこにあります。当然、世の1割が寄付すれば良い、という意図で書かれているはずはなく、もっと言えば、哲学者らしからぬ平易な文体で、一般流通の書籍というマス向けの販売ルートを使っていることから、寄付額の目安を明確に示していない残り9割の人たちが参加することの重要性を問うているとも言えるわけで、それが、本書が本来ターゲットにしているアメリカと、日本語版に寄せて書かれた前書きにもある日本という、国際援助の比率が極端に低い二国の援助を底上げするために必要なことだと考えているはずです。

しかし、その9割の人たちが「あなたが救える命」というタイトルの本を手に取る可能性はおそらく大変低いでしょう。本書で反証している一般的な寄付への疑問を持っている人は、本書が「その疑問に対する答えになる」と考えない限り、その疑問を持っているがために読まない可能性が高いでしょう。また、本書は電子書籍化していないので、電子書籍派の読者の手に届く可能性も低くなります。そして、普段読書をする人でも、主に小説を読む人、漫画を読む人、料理本などの実用書を読む人が、書店で社会学や人文のコーナーに足を運んでくれるかは疑わしいところです。社会学や人文のコーナーに足を運ぶ人でも、社会貢献に関心のない人が、このタイトルを見て読んで見たくなるかどうか。

本書を経由せずに、寄付のモチベーションを挙げるには、各慈善団体の広報活動を強化する必要があるでしょう。本書でも触れられていますが、人は「世界では〇〇万人が飢えに苦しんでいる」という、一人では手に負えないような巨大な情報や統計データには心が動かず、「〇〇ちゃんは今日ご飯を食べることができません」と、よりパーソナルな視点に焦点を当てた方が共感する、とされています。大規模な問題に対する援助には、自分が関与したことに対して実感を抱きにくいですが、個人に対する援助になると、自分の力が作用したことを実感しやすいからです。USA for AFRICAでもLIVE AIDでも数々の被災地支援でも24時間テレビでも、瞬間的に集金する機能はあっても持続する効果がないのはそのためかもしれません。

https://youtu.be/vVXM7ayeU-w?t=32m56s

しかし慈善団体は通常、複数人から集めた寄付金を被支援者個人単位で使いません。ただ、実際には満遍なく使われていたとしても、支援者がパーソナルに感じられるレスポンスが受けられるとしたら、規模が大きくても関与の実感が抱けるのではないでしょうか。例えば、AKB48のCD購入は自分の推しメンに対する投票券につながりますが、そのままメンバー個人の収入に反映されるわけではありません(詳しく知らないのでもしかしたら反映されるのかもしれませんが、とりあえず反映されない前提で)。でも購入者は、一枚一枚のCDと推しメンを直結してイメージしているはずで、「選挙」というイベントを介してその影響力を実感できるわけです。これはアイドルグループであればこそできる手法で、援助している人たちをランク付けするようなことは普通に考えて好ましくないでしょうから、同じ手法をそのまま使えるわけではありませんが、アイデアの組み合わせ次第では可能性が見えて来そうです。

「いくら援助しても、良くなっていく実感がわかない」という点に関して、本書では、ここ数十年で、世界は少なくとも良い方向に向かっている。それは、今まで無関心だった層が動くことで、きっと加速させることができる。と思わせてくれる情報が記されています。以下、本書より引用。

ユニセフによれば、貧困に関連した原因で亡くなる子供の数は継続的に減少している。本書で述べたように、一九六〇年にはその数は二〇〇〇万人と推計されていた。二〇〇七年までにその数は一〇〇〇万人を下回るようになった。一九六〇年の世界人口がわずか二五億人であるのに対し、二〇〇七年には世界人口が六五億人まで増加したことを考え合わせると、これは驚くほどすばらしい結果である。

これは個人の関与の成果を明確にはしませんが、世界は何も良くならないのではなく、みんなで協力すれば改善の余地がある、ということを知るだけで、モチベーションには変化が起こるのではないかという気がします。自分個人の力で何かができなくても、連帯した「自分たち」の力で世の中を変えられたとしたら、それはパーソナルな実感を代替できるのではないか。その施策として、先ほどのAKBの例をヒントにするとすれば、被支援者側を「グループ」にするのではなく、支援者側をグループ化し、支援のプロセスや成果を共有する仕組みを用意する、というようなことが有効かもしれません。本書でも、誰かがいくら寄付したか、という情報が可視化されると、全体的に寄付額は上昇するというデータがあり(当然ですが、寄付額が巨額すぎると引いてしまい逆効果にもなりますが)、実際、寄付を行う人たちのためのグループも存在します。これが比較的少額・小規模なグループを複数、被支援者側もいくつかにセグメントする(例えば事業ごとに、とか)、というようなことができれば、実感を抱くだけでなく、実際により深いコミットメントが行え、慈善団体側にとっても大きなメリットを生み出すかもしれません。

「実感」は、「見返り」と言い換えることもできるでしょう。支援者は寄付によってどんなメリットが得られるのか。具体的には寄附金控除がありますが、それ以外にも本書では、精神的な充足を挙げています。以下、本書より引用。

アメリカの三万世帯を対象にした調査によれば、慈善団体に寄付する人々は、寄付を行わない人々に比べて、自分の人生について「とても幸せ」と答えた人が四三パーセント多かった。また、慈善団体のためにボランティアをしている人とそうでない人を比較した場合でも、非常に似た結果が得られた。別の研究では、寄付を行う人々は「絶望感」を感じる割合が六八パーセント低く、「あまりに悲しく、何をしても元気がない」と感じると述べた人の割合も三四パーセント低かった。
経済学者のウィリアム・ハーボーとダニエル・バーガート、および心理学者のウルリッヒ・メイヤーが行なった研究では、一九名の女子学生それぞれに対して一〇〇ドルを与えた。脳のさまざまな部位の活動を示すMRI装置の中に入った学生たちに対して、そのお金の一部を貧しい人々のための地域の食糧援助団体に寄付するかどうかという質問がなされた。実験によって観察される結果が、寄付することにのみ由来し、例えば自分が他人に気前の良い人だと思われるだろうという考えなどに由来しないことを保証するために、学生たちには、実験者も含めて誰もどの学生が寄付したかについてはわからないと伝えてあった。その結果、学生たちが寄付をした場合には、脳内の「報酬中枢」――尾状核、側坐核、島皮質――が活性化したことがわかった。これらは甘いものを食べたりお金をもらったりした場合に反応する脳の部分である。しばしば利他的な人々は他人を助けることから得られる「心のぬくもり」について話すことがある。今日私たちは、それが脳の中で起きているのを見てとるのだ。

相手に褒め言葉を投げかけると、脳には自分が褒められた時と同様の反応が起こる、という話もありますが、精神的に辛い人(自分のことのような気がする)のケアに寄付を勧めるのはいいのかもしれません。

さらにより明確な見返りを求められる場合に、可能性はないか。僕は、慈善団体への寄付金を投資信託のように扱ってみると面白いんじゃないかと思っています。具体的には、慈善団体の行う活動それぞれについて一つの指標を立て(例えば10円=1ポイントのレートで、木を一本植えると100ポイント、子供ひとりの病気が治ると2000ポイント、など)、預かったお金を運用(慈善団体としての活動)した結果、どれだけの利益(活動の成果)が生まれるか。今月は5本の木を植え、3人の子供の病気を治したので6500ポイント、その際にかかった材料費、医療費、人件費、雑費などを引いたら残り25ポイント。この利益を寄付者に分配し、支援者は貯まったポイントで慈善団体の販売する商品やイベントへの参加券が購入できる、というような仕組みです(本当の投資ではないし、実際に利益が出るわけではないので、換金はできない)。商業施設のポイント制度にも似てますが、それだとNGOの活動にコミットする動機付けができないので、あくまでも慈善団体の活動によって変動するものである点が大事だと思います。

初めに設定するレートを慎重に考えなければいけませんが、うまくいけば、支援者は慈善団体の活動が自身の利益につながることから、それまでになく活動内容に関心を持ち(通常、支援者の多くはそれほど真剣に収支報告に目を通さないのではないでしょうか。僕が過去そうだったので)、手応えの感じられる寄付活動を行うことができ、NGOは活動に対しての理解を深めてもらえるとともに、活動内容が項目ごとに精査されることで資金を有効に使うことを迫られ、より一層活動に身が入るのではないでしょうか。

ちなみに、慈善団体に寄付する投信というのもあります。仮装ではない利益を求めるならば、ということで。

社会起業家を寄付で応援「コモンズSEEDCap」|コモンズ投信株式会社

また、本書に出てくるギブ・ウェルのような、慈善団体を第三者的に評価する機関が日本にあるのかはわかりませんが、国内の慈善団体が活動する上で、その質を高めていくための支援を行う組織がありました。慈善団体を選ぶ指標の一つになるかもしれません。

NGOの力を最大化する。JANIC

最近、「シンク・グローバル、アクト・ローカル」という言葉について、改めてその意味を考えていました。「地球規模で考え、地域で行動する」という意味で理解していましたが、もしかしたら何か勘違いをしてしまっていないかな、と。なぜなら、いくら地域で行動しても、地球規模の問題解決には繋がらないし、貧窮した国において地域で行動することが解決に繋がるなら、そもそも地球規模で考えることに意味も無いので。

本書によって、慈善団体の役割が「自分が関与すべき世界の問題への取り組みを、少額で肩代わりしてもらうこと」だという、今まであまり考えなかった視点から見直すことができたことで、シンク・グローバル、アクト・ローカルとは、地球規模で思考し、身近な活動から、どう「地球規模」につながる活動を行うかである、と理解することで、考えが腑に落ちたような気がします。

最後に。本記事のタイトルは有名映画のパロディですが、本書を読む前からぼんやりと考えていて、読了後改めて思ったのは、「心配する」のは、日本の寄付文化を成長させるにはあまり有益では無いのではないか、ということです。当然、心配だから援助をするわけで、心配ないなら手を差し伸べる意味はないわけですが、今多くの慈善団体が取っているアピールの方法は、悲惨な状況や危機的な状況を脅迫するかのように訴えかけて「心配させる」ことに力点が置かれがちです。「心配をなくす」と言うよりも「安心を生み出す」と言った方が好印象なように、「心配」を一丁目一番地にせず、よりポジティブに、もっと言えば「楽しく」寄付ができる環境づくりが必要なんじゃないかな、ということから、こんな記事を徒然と書いてみました。一般の「寄付をしていないししようとも思っていない人」がこの記事を読むことはないでしょうが、慈善団体の方の目に触れて、今後の活動の中で何か少しでも足しになれば幸いです。

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