そもそも本気で怒ってたらTwitterで垂れ流しにはしないよね

今朝Twitterを開いたら、音楽に関する、数ツイート遡るだけではなかなか発端の読めない話が二つありました。

ひとつはCCCDの話。こちらは僕の古いツイートがふぁぼられていたので「岸田繁が昔話に花を咲かせていた」だけのことで、みんな楽しそうに昔話してました、ちゃんちゃん。だということはすぐに察しがつきました。実際それ以上でも以下でもなく、実につまらないトレンドでした。ちなみに僕もCCCDって何枚か持ってましたが、音質が悪いとは全く思いませんでしたね。CCCDじゃなくても「音質が悪い」と思った音源はいっぱいありましたけど、それはまた別の話(あ、そういえば10月に久々のピュアオーディオ視聴会やります)。

もう一つは「音楽に政治を持ち込むな」という、ああまたぞろそんなことで起こってる界隈が盛り上がってるんだな、と読んでいたらフジロックが云々と出たので、なんだろうフジロックの運営がヘイト発言とかしたのかしらと思って読み進めていると、どうやら発端はSEALDsの方がフジロックに出るということで、それに対して反発している、ということのようでした。多分あれですよね、アヴァロンの上の方かどっかにある、いつも反原発みたいなトークショーとかやってるところ。行ったことがない(フジロックに、じゃなくて“アヴァロンの上の方かどっか”にあるその場所に)ので適当なこと書いてますが(あ、今TLに流れてきた。そうそう、アトミックカフェ。)、なんかNPOとか出てたりとか、まあ要するにSEALDsの方が出るための場としては十分に素地が出来上がったところだという印象があります。しかしそれに対して「フジロックにはがっかりだ、もう行かない」とゴネている人が(Twitterというごくごく狭い安全圏で)多発しているだけの話なので、これまたどうでもいいつまらない話でした。

……と終わらせても良かったんですが、「右か左かで言えば完全に左」である僕でも、今はその「音楽に政治を持ち込むな」という気持ちが、ちょっと分かるんですよね。一時期はソウルフラワーとかレゲエとか、「政治的なメッセージの無い音楽とか聴く気しない」ぐらいの勢いで左に偏っていたんですが、あるところから「あんまりあからさまに出されるとキツい」という気分になっていきました。

きっかけは、原発事故以降のフェスの現場で、署名運動が始まったことでした。元々僕も「ライブハウスでも署名運動とかすればいいのに」と思っていた側の人間だったので、最初は良い傾向だと思っていたんですが、そのうちどのフェスでも署名やってるわ毎回もんじゅ君来てるわ、そこに重ねてナイトクラブ規制に関する署名運動も始まって、なんかちょっと息苦しくなったというか、言葉を選ばずに言えば、「ウザい」と感じるようになりました。

僕は過去に市民運動のイベントやセミナーなどに足を運んでいた時期があって、今は全く行ってないんですが、行かなくなった理由のひとつに、「話が外に広がらない」ということがありました。いつも来ている人は同じメンツ。しかも、話される内容についてある程度知っている方。つまり、そこで話されることについて知らない人、気づいていない人に届く仕組みではなかったんですね。「こんなこと繰り返しても意味無いんじゃないか」と思うようになり、足が遠のくようになりました。

フェスにもんじゅくんが当たり前のように現れ、署名ブースが堂々と置かれるようになった時に感じたのは、これと似たような「内輪ノリ」の空気感でした。

自分は高みの見物で、そんな勝手なことを感情だけで言ってしまうのはどうかとも思いましたが、それが僕の正直な感想でした。押しが強すぎると引いてしまう。実はポピュラーミュージックはそういったことに鈍感になっているのではないかと思います。僕は、ポピュラーミュージックの押しの強さにすっかり引いてしまい、去年ぐらいから少し距離を置いています。

さて、今回議論になっている「音楽は政治的なものか否か」についてですが、こんなものは、イエスでもありノーでもある、ということは誰にでも自明の話ですし、「パンクは元々政治的なものだ」と言われても、今政治的でないパンクミュージックがあるんだったら「昔の話されても困るわ」で済ませられて然るべきでしょう。そもそも、音楽の成り立ちは正確に解明されておらず、その発端が単なる娯楽だったのか政治的な作用を持ったものだったのか、もしくはそれ以外の機能を持ったものだったのか分からないわけで、部分を切り出して「そもそもパンクというものは……」などと言ったところで「じゃあまず石笛の生まれた歴史まで遡ってみましょうか」とかなんとか、何とでも言える話になってしまうわけです。政治に関わる音楽も、無縁であった音楽もあるわけです(国家や政治の概念が無い国・時代にも音楽は存在しているわけですから)。

「この世の殆んどの音楽ジャンルが「反体制」だった!?フジロック問題で喚くネット原住民が知らない現実」というまとめに、様々なポピュラーミュージックが政治と結びついているんですよ、と書かれてますが、「いやそれと○○(なんか最近のバンド名が当てはまると思ってください)の音楽は関係無いでしょ」で反論としては十分ではないですか。「巨人の肩の上に乗っている」ことは間違いないにしろ、政治的心情まで継承してると思い込むのは何故でしょう。

例えば僕は、「goatとバッハを交互にかける試聴会やろう」と杉本くんらに話したんですが、まあほとんど意味不明だったんで「ああ……まあ、いいんじゃないすか」という角の立たない大人の対応でやさしくいなされたんですが、これは、日野氏のソロ作「ズリレズム」がライヒのフェイズ・シフトに由来していて、そのライヒがレッドブル主催のセミナーで「フェイズ・シフトはカノンだ」と断言したのを聴いて、「追おー、日野さんの音楽はバロックから通じてるではないか」と妄想を膨らませた結果によるものでした。「ズリレズム」は偶発性が鍵となっているもので(だから同じ現代音楽で言えばケージ側ですよね)、厳密にはライヒではないわけですが、しかし「フェイズ・シフトはカノンだ」発言にしても「いやカノンではないよね」とマジレスしてしまえばそれで終わってしまいます。実際のところ、ライヒは西洋クラシック音楽の勉強は通過していて、トータル・セリーまでやった上でのフェイズ・シフトなので、カノンを例に出したのは後付けでもない可能性はありますが。

まあ何が言いたいかというと、今は一億総評論家時代なので、あらゆることをまことしやかに論じることが性癖のようになってしまって、音楽の系譜や文脈がさも具体的に存在しているかのような錯覚を覚えてしまいがちですが、評論家の言葉遊び以上の意味も実体もない、ということだって多いにあり得るでしょう、ということですね。先の「goatとバッハ」という関連付けについて僕は「友達の友達はみな友達理論」と脳内でふざけた名前を付けているんですが、こういうことをこじつけて遊ぶのは楽しいよね、ということ以上のものは特に何も無く、逆に、あまりそこに意味を見出し過ぎても危険ですよね、という意味合いも込めています。

今回は「あんたらまたすぐそうやってCLASHとかボブ・ディランを例に出すんだから」という感じに嫌気がさした(オーディオやクラシック界隈で蘊蓄垂れる面倒くさい人とパンク・ニューウェーブ界隈で蘊蓄垂れる面倒くさい人は発言的にも年齢的にもかなり接近してきているという印象があります)ので極端な話をしましたが、実際、音楽と政治の関わりは密接だと思っています。「音楽のヨーロッパ史」という本には、ヨーロッパ音楽がいかに政治と密接していたかが淡々と綴られていて、この本を僕は死の淵にいた父の病室で睡眠導入剤代わりに読んでいましたので、この本を目にすると、あの病室の天井と父の激しい咳などを思い出します。関係無い話でした。

SEALDsの方がフジロックに出演されるのも別に良いと思いますけど、ただアトミックカフェで喋ります、というだけのことなら、そんな「音楽に政治を云々」なんて大げさな話でもないですよね。聖人君子を気取っているのはこの件を糾弾している側ですし、その語気荒いテンションがとても「内輪ノリ」だなと思います。

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