「親のための新しい音楽の教科書」による“音楽”の初期化

「親のための新しい音楽の教科書」表紙

音楽について我々は、「知っていること」よりもむしろ「思い込んでいること」の方が多いのではないか。そんな気づきと、その思い込みを一度取り払い、改めて一から音楽を捉え直すことで、より本来の音楽のありようが発見され、ひいては今の子供たちにとって、あるべき音楽教育が再定義できるのではないか……という、タイトルは「音楽の教科書」となっていますが、内容はその「準備本」という感じです。「親のための新しい音楽の教科書」(以下“本書”)は、「音楽の教科書」を刷新するために、我々親の世代が、自身の思い込みや勘違いを初期化し、再起動するためのガイダンスといったところでしょうか。

本書の各章に沿って、初期化の方法を確認してみたいと思います。

序章 楽しい音楽

「音楽=音を楽しむ」と言う人がいますが、その表現に僕はずっと違和感がありました。なんだか嘘くさいし、音楽という言葉の意味が、そんな快楽一辺倒なものだとはとても思えないのです。

10年ほど前、イラクに於いて、ハード・ロック/ヘヴィ・メタルが米軍によって軍事利用されたことが話題になり、最近では、CIAが拷問用の道具としてRed Hot Chili Peppersの楽曲を使用していたことが報じられました。これらのニュースは、ずっと抱いていた違和感をよりはっきりとさせました。

本書冒頭で、このような疑問が提示されます。

たとえばバリ島でケチャをやっているひとたちにたいして、あるいはスペインの教会でグレゴリオ聖歌を歌っている神父さんたちに向かって、「それ、楽しいですか」と聞いたとしたら、彼らはどう答えるでしょうか。

いずれも、いまは娯楽として成立もしますが、伝統的にそれを歌い、踊る人たちにとっては敬虔な儀式です。グレゴリオ聖歌に至っては、その歌に感動したり快楽を感じることが罪とされているほどですから、「楽しむ」ということを真っ向から否定しているようなものです。

民族音楽学者・小泉文夫の著書「音楽の根源にあるもの」(1977年)に、音楽の持つそういった二面性を象徴するような事例が綴られていました。

エジプトのナイルの川上流の村では、地下水を汲み上げるのにサーキアという方法を用いる。この回転運動は、主としてラクダや牛を使って水平の円運動をさせ、それを歯車によって縦運動をする釣瓶に伝える。この時、歯車の水がきしんで、ギーという連続した音が出る。動物を追うのは老人や子供の役である。彼らはこの砂漠の静寂を破る軋み音にあわせて歌をうたい続ける。
ナイル上流の村人は、このサーキアの音と歌声を聞けば、自分たちに必要な水が流れ、畑がうるおう安心感をもつため、乾燥した生活の中での唯一の慰めの音といってよい。実際には、請負い稼業でこの仕事をしている老人や少年にとっては、この音や、それにまつわる歌は慰めどころではない。生活のために必死で行っている仕事そのものであり、声も涸れはて、歌の文句も尽きて、なおうたい続ける。

我々が普段接している音楽についても、好みのものであれば気持ちよく聴けるのに、気に入らない類いのものは耳にするのも嫌だ、と全く違う反応を起こすことがありますが、これは主観であって、人によっては同じ曲に対して反対の反応を示すでしょう。上記はその反応の違いが主従関係のなかで生まれるひとつの例です。

作曲家にして評論家、学者、教育者として活躍した柴田南雄の著書「音楽史と音楽論」(1988年)に、紀元前1世紀頃、中国で編纂された書物「礼記」の中にある、音楽理論について書かれている「楽記篇」の記述を、著者が意訳したものが載っていました。これを読んで、僕の「音楽=音を楽しむ、ではないのではないか」という疑問はある程度解消されました。

音(おん)が起こるのは次の理由である。先ず、外界の事物に人の心が感応して声となってあらわれるが、それらが互いに応じ合い、変化してある形をとる。それを音(おん)と言うが、これをさらに重ね合わせ、混合し、楽器で演奏し、舞うのを楽と言うのである

つまり「音楽」とは、そもそも意味としては「楽しいか楽しくないか」という情緒的な問題とは切り離されており、複数の音で構成されたものを示しているのだろうということが推測されます。

しかし、言葉としては理解できますが、例えば笛をひと吹きしたとしても、太鼓を何気なく叩いたとしても、そこに「楽しい」と感じる根源的な感情が起こることは(幼児が音に対してみせる反応を見ても)否定しづらいでしょう。前述のサーキアの歌についても、ここに社会が生み出したヒエラルキーが関与しているからこその二面性ですし、軍事利用に関しても、異文化や社会的背景が音楽の上に乗っていることが強く作用しているわけで、音楽そのものを嫌悪しているわけではありません。

あらゆる音が(時には“無音”すら)「音楽」と解釈される可能性を持つ現在に至っても「これは“音楽”ではない」と、自分の経験や趣味・趣向と照らし合わせて区別する人は今も少なくないでしょう。

本書では、明治時代の近代化に伴って西洋的な概念を示すための言葉のひとつとして「音楽」という言葉が作られたと書かれています。つまりこの時期に西洋音楽が一気に輸入され、日本において「音楽」として成立していくというわけです。

つまり「音楽」という言葉の定義は、主に明治期に輸入された西洋音楽を指すものであって、しかもそれは後に世界各国の土着の音楽が「発見」され、ブルースからジャズやロックが生まれ、ファンク、ヒップホップ、テクノ……と様々な音楽様式が白人以外の人種の中から形成されていく歴史“以前”しか想定されておらず、今の音楽の主流が、定義されて以降のものとなった今、それらを同じように「音楽」と一括りにするのは、実はずいぶんと強引なことなのかもしれません。

その「音楽」という言葉が設定された時、それまでの日本の音楽は隅へ追いやられることになります。上記「音楽史と音楽論」より再び引用します。ここでは、1879年に西洋音楽を学ぶための教育機関として設置された「音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり)」と、701年に発足した日本における音楽学校の始祖である「雅楽寮(うたまいのつかさ)」を比較しながら解説されています。

邦楽は取調掛時代から学習されていたが、邦楽科の設置はなく、それは実に一九三六(昭和一一)年に至ってようやく新設を見ており、その点は当初から和楽の科目の置かれていた雅楽寮にくらべ、《文明開化》を目標とした明治政府の政策がいかに大きく反映していたかを感じさせる。

そして、本書「序章 楽しい音楽」では

明治という近代化のために全力を投入して欧米に適応しようとした結果、オリジナルなものを開発するところまで手が回らなかったためだと思います。

と推測されています。

後の東京芸術大学音楽部である音楽取調掛は、当初から東西を融合した作曲や、西洋音楽の理論をもとに日本のオリジナルの音楽を生み出す人材の育成を目標にしながらも、作曲科が設置されるのは半世紀後、音楽取調掛から東京音楽学校に昇格した1932年(滝廉太郎ら当時の作曲家は、正式には作曲を学ばずに作曲活動を行っていたそうです)。雅楽寮も音楽取調掛と同様、主に海外(東洋)からの音楽を輸入し、学習するためのものだったということで、江戸時代までの日本の音楽は、中国や朝鮮などから入ってきた楽器・音楽が様々な解釈と取捨選択を繰り返しながら作り上げられたものだということです。そして、「音楽」という言葉が無い、つまり合理的な理論体系の無い日本の音楽は師弟関係の中で代々受け継がれる中で、作曲する器が用意されるまでの半世紀は、長いとも言えないかも知れません。そこには、日本人が「オリジナルなものを開発するところまで手が回らなかった」だけでなく、作曲する器を用意できる状況ではなかったのではないか、とも思えます。

第一章 こども用の音楽

この章では、本書中特に刮目すべき指摘が2点登場します。ひとつ目は、幼稚園などで子供たちが何故“大声で歌う”のか、ということ。確かに、まるで当たり前のように思っていましたが、声を張り上げて歌う理由など考えたこともないですが、言われてみれば不思議なことです。理由はこう示されています。

あれはおとなたちが考える「こどものあるべき姿」のひとつなのです。(中略)わたしが幼稚園/保育園の音楽を特殊なものとして憂慮するのは、こどもはそれを拒否できないから、というのが大きいわけです。

うちの5歳の娘は、今年の春から幼稚園に通っています。そして、娘が通っている幼稚園には、集団で行うお遊戯の類いがありません。先生はルールを押し付けたり子供の行動を制限するような仕切りを行わず、子供同士のコミュニケーションの中から生まれてくる「社会」に、付かず離れず寄り添うようなスタンスです。この春初めて外の世界にひとりで向かい合うことになった娘は、同級生から女性社会特有の「洗礼」を受けながらも、彼女なりに楽しんでいるようです。

我が家がこの幼稚園を選んだ理由は、その野放しに近い「子供本意」な発想と、大人目線の「子供らしさ」の押しつけが無かったからですが、「子供は大声で歌わされる」という指摘は、僕ら夫婦が持っていた既存の幼稚園に対する違和感と地続きであり、まるで当たり前のように存在しているために歪さに気がつかないこととして、音楽そして音楽教育についての思い込みや誤解についてリセットするための重要な着目点であると思います。

2点目も、さも当たり前のように受け入れていたことを改めて突きつける、「先生はピアノ中央のハ長調で弾く」という指摘です。

ハ長調の曲はおもに白鍵だけを使うので伴奏の際に運指が楽ですし、楽譜にシャープやフラットといった記号がないので読譜も楽です。(中略)しかしこのハ長調では基本的にメロディはピアノの中央のドレミファソラシのところで弾かれますから、左手の伴奏は、そこから一オクターブ下のドレミファソラシを使うことになります。そうすると、仮にC – F – G – Cというコード進行の曲の伴奏を弾く際は、左手のドは非常に低い音になってしまって、サウンド的にはハーモニーの響きが重くなってしまいます。

さらにこの章では、調の違いによって曲の雰囲気が変わってくるのでは、という点についても書かれています。平均律の普及とそれに沿った調律のされているピアノの一般化以前は、調の違いで音の関係性は変わりますし、そもそも「移調しやすくする」という合理化のために生まれたのが平均律です。例えば合唱する際に3度や5度の音を得ようとする時、ピアノの調律に合わせず、聴感に依って合わせた方が本来の自然な和音が得られるんだそうです。だとすると、この章で挙げられている、伴奏無しで歌うイギリスのシュタイナー幼稚園でのエピソードは非常に理にかなっていると思います。

第二章 壊れやすい音楽

音楽が「壊れる」、つまり、ここは合わせなければいけない、間違ってはいけない、勝手なことをしてはいけない、そうすると途端に音楽は破綻し、魅力を失ってしまうというルール設定について、明治以降の教育カリキュラムに取り込まれた西洋音楽の考え方は、合理的である一方で、それまでの日本の音楽と比べれば過剰に厳格だとも言えるでしょう。

クラシックにおける「指揮者」は、楽団の中で楽器を演奏せず、歌も歌わず、しかし楽団のヒエラルキーの頂点に君臨し、身振り手振りで指示を出しますが、世界の様々な音楽を見渡してみると、このような関係性を持つ演奏形態は無いんだそうです。当然ながら元々日本の音楽にもこのようなヒエラルキーは無く、奏者は頂点に君臨するボスを扇形に囲むように配置されず、直線的に並んで演奏します。これは、西洋音楽がいかに「壊れない」ことに心血を注いでいるかの表れとも取れます。

本書では、そういった西洋音楽を基礎とした音楽教育を、重い足かせであるとして説いています。

幼稚園/保育園や小学校でおこなわれている音楽教育というのは、いまだに整ってきちっとした音楽というものが理想とされています。これは、西洋音楽のスタンダードみたいなものが一般化した結果ですが、いまだにその呪縛が解けていません。西洋音楽のスタンダードとは、音楽とは技術があってはじめて成立するものですから、そこに向けての訓練がともなうのは当然という考え方を指します。

例えば能の世界では、「アシライ吹キ」「アシライ打チ」という、リズムを合わせずフリーフォームに笛を吹き、太鼓を叩く奏法があるそうですが、こういった日本の音楽が持つ柔軟性が、音楽教育の中で無きものとされてしまったことは、知るほどに残念に思います。

芥川也寸志著「音楽の基礎」(1971年)にも、日本の音楽観と西洋の音楽観の違いを象徴するような記述があります。

日本古来の楽器の音色は、複雑な部分音の分布を示す特徴的なものが多く、なかには三味線のサワリのように、わざわざ細工をして騒音的なうなりを生じさせるように工夫されたものもあり、ワビやサビを愛する民族的美観は、音色においてヨーロッパの楽器群とはいちじるしい対立を示している。
声楽にあっても、いわゆるしわがれた渋みのある声が愛好され、わざわざ潮風の中で無理な発生を繰り返して修業し、通常の声をつぶすこともあるときく。こうして練りあげられた声は、もっと深みのある表現を可能にする健康な声とされるが、ヨーロッパにあってはSängerknaben(謡人結節)という名で呼ばれる病気である。

このような意図的なノイズの挿入は、紀元前に使われていた楽器にもあったらしいのですが、ノイズや歪みは音を大きくする代わりに音程や和音を濁らせるので、主に室内で演奏され、音量よりも音程や和音の響きを重視した西洋音楽の中で排除されていったようです。オーネット・コールマンがなぜバンドにピアニストではなくギタリストを積極的に起用していたのか、改めて分かる気がします。

第三章 はずかしい音楽

日本人の「目立ちたがりはみっともない」「出る杭は打たれる」「沈黙は金」という気質がいつどこから発生しているものか、不案内なため分かりませんが、本章では、かつて地元の民謡を小さなコミュニティの中で朗々と歌っていた日本人が、今やそういった場で買って出てまで歌う人が皆無になってしまったのも、西洋音楽ベースの音楽教育に原因があるとしています。

つまり文部省(当時)は、ドレミファソラシドはもちろんのこと長調/短調、四分の四拍子のような定拍リズムなどをすべて身につけること、できないこどもには悪い成績をつけるべし、という指導をおこなったのです。
その結果、音楽の先生たちは、生徒をみんなの前で一人ずつ歌わせて試験をするという、こどもにしたらおそろしくはずかしいことをさせるに至りました。

本章の最後は、近代において、音楽の専門化と商品化が「商品としての音楽」を成立させ、生活に根付いた音楽というものが「音楽」という枠から排除され、「聴衆」という枠に入れられてしまったことについての話で締めくくられます。

こうやって世界中のすべての音楽が商品、つまり消費するための対象になってしまったことによって、逆にひとりひとりがそれぞれ、自身の音楽をすることが困難になってきたともいえます。はずかしい音楽を自分でやるのはリスクが高いから、リスクのない聞くという代償行為によって音楽体験を済ませることになります。それで聴衆というものが生まれ、音楽鑑賞という趣味も生まれます(いまではこのことばは廃れたともいえますが)。

鈴木 淳史著「クラシック批評こてんぱん」(2001年)には、こんなことが書かれています。

現在でもなお、演奏会批評よりもディスク批評の方が興味深く読めることが多い。それは、家でCDを聴いていたほうが、コンサートに行くより有意義で楽しいもーん、ということではけっしてない。モノを介したほうが批評対象と適度な距離が保てるということなのだ。(中略)このように芸達者だったあらえびすだが、日本のクラシック愛好者に顕著な「ナマよりモノ」という伝統を作り出したことは事実だ。たとえ、それが当時の演奏会の回数やレヴェルを考えると必然だったとはいえ、あらえびすは音楽=物質という考え方に大きな影響を与えている。

「あらえびす」というのは、小説家・野村胡堂が音楽評論をする際に用いたペンネームのことです。氏の著書「名曲決定盤」(1949年)が、日本人の音楽体験を録音物寄りにした大きな影響力を持った、というのが鈴木氏の論ですが、前述の引用とつなげると、明治期から戦後にかけての日本人の音楽観の変遷が辿れるようで興味深いです。

しかし現在、それまで西洋音楽のみに触れていた人々が理解していた「音楽」という枠の外側に、様々な形態の音楽が溢れんばかりに存在していることを多くの人が知り、「音楽」に対する価値判断はどんどん多様化しました(「趣味:音楽鑑賞」というプロフィールが今や成立しないのはその証左かもしれません)。昔の西洋音楽のような、上手/下手や硬直したヒエラルキー、更には和音も和声も振り切った音楽が市民権を得るようになりました。その中で、DTMを含む音楽制作ツールの充実、ライブハウスなど場所の充実が「自身の音楽をする」ことを限りなく容易にし、今や「一億総評論家時代」である一方で、「一億総音楽家時代」にもなっているのではないでしょうか。

第四章 むずかしい音楽

本章で、学校教育において、易しいものから難しいものへ、という段階を経てのカリキュラムが組まれる理由は、

物事は時代とともに発展していくに違いないといった、いわば西洋産の右肩上がりの世界観ともいえるものです。

としています。そして、クラシックにおいて易しい/難しいという概念は19世紀、前者はオペラ、後者は器楽曲として一般に認知されたと綴っています。

この「右肩上がりか否か」と「易しい/難しいの捉えられ方」は、更に1世紀前にあたる、徐々に一般市民がクラシックを「自宅で」楽しむようになったバロック期と古典派の狭間の時期に共通した変化があったようです。当時主流だった通奏低音や対位法という技法が、家庭で演奏するには高度過ぎたために、複雑だった演奏形態が一度単純化されます。これは「易しい/難しいの捉えられ方」を、大衆が早くも意識し始め、それに合わせて音楽は「右肩上がり」ではなくむしろ一旦下がるような形で聴衆に受け入れられることとなります。その後は再び複雑化していくわけですが、このバロック期と古典派の狭間の動きは要するに「大衆化」であり、この「大衆化」と「複雑(難解)化」の往復は、後のポピュラー音楽、そして再生装置の進化/変化へと受け継がれていく遺伝子の萌芽のように思えます。

本章で興味深いのは、この「右肩上がりの思想」が、民族音楽において的外れに終わってしまうことがあるという以下の記述です。

たとえばある地域の音楽を研究してみると、その中の音楽に三音を使ったものと五音を使ったものとが見つかったとします。研究者はその中の五音を使ったものをより高度なものととらえ、三音の音楽から五音の音楽へ発展したと考えることがあったのです。それはもちろん、五音の音楽のほうが三音の音楽よりも造りが複雑で、より発展したものだろうと考えたからです。ですが、よく調べてみると実際には三音の音楽のほうが後でつくられたということがわかることがあります。そして現地のひとも、三音の音楽のほうが歌うのがむずかしいと答える場合があるのです。

西洋音楽は、作曲家同士が互いに競い合い、譜面としてアーカイブされた過去の作品とも対峙するようにしてより新しい表現を生みだそうと前進し続けてきた音楽で、西洋音楽からスタートしている音楽教育を受けた我々は、「音楽」とはそういうものだと思い込んでいた節がありますが、例えば日本独自の音楽について取り上げてみても、外的要因からの経年変化はあるでしょうし、文化保護という別の作用も影響しているとは思いますが、西洋音楽においてグレゴリオ聖歌からジョン・ケージまで一本線で語れるほどの地続きの変遷はありません。逆に言えば、クラシックの評論家が太古の宗教音楽からバッハ、モーツァルトらを経て、シェーンベルク、シュトックハウゼン、スティーヴ・ライヒへとシームレスに語れることは、このカテゴリーの音楽の特殊性を物語っているとも言えるでしょう。

今になってようやく疑われてきてはいますが、高度経済成長期には誰も信じて疑わなかったであろう「あらゆるものが右肩上がりに成長し続け、ものは豊かになり続け、便利になり続ける」という幻想は、もしかすると西洋音楽を通して刷り込まれた部分もあったのかも知れません。そう考えると、西洋音楽の世界的な伝搬とグローバリズムもつながっているのでしょうか。

第五章 へたくそな音楽

「へたくそ」という概念について僕がまず思い出すのは、落語「寝床」です。義太夫が趣味の長屋の大家が、凄まじく下手なくせに他人に聞かせたがる悪癖によって長屋の住人を困らせていたんですが、ある日また聞かせたいと言い出す大家にあれこれ苦しい言い訳で逃げ回る長屋の住人にへそを曲げ、住人を長屋から追い出そうとする大家。あわてて機嫌を取り、こっそり耳栓をして聞いてる振りをしてやりすごし、終いにはみんな寝てしまうという噺ですが、落語にはこの手の「歌いたがり(語りたがり)」がよく登場し、それに伴って「とんでもないへたくそ」も登場します。下手なんだから辞めりゃいいのに、自覚もなく歌い続けて近所迷惑を起こしたり、先生が美人だからと下心で稽古に通いつめたり、阿呆らしく見せながらも、常に人間味にあふれた憎めない存在として描かれています。

西洋でも「へたくそ」を笑いのネタにするコメディはあったでしょうが、本章で語られる西洋音楽での「へたくそ」は、このような牧歌的なものではなく、下手と呼ばれる恐怖と命がけで対峙しているかのような緊迫感を伴っています。

美術の世界において、美術家のジャン・デュビュッフェが20世紀半ばに提起した「生の芸術(アール・ブリュット=アウトサイダー・アート)」について触れ、完璧であるべきとする芸術への反論が現れ、音楽においてはパンク/オルタナティブが完璧というものに対立するような存在であったことを取り上げています。

しかし続けて、今もなお音楽教育を含め、「へたくそ」の肯定は浸透しているとは言えない事実も提示。確かに日本でも、に工藤冬里や三田村管打団?のようなミステイクを音楽的なものとして捉える音楽が国民的音楽家と捉えられているかと言えばそうではありませんが、オーバーグラウンドにも歌唱力が不十分と言われているアイドルの音楽が多くの人々に愛され、某アニメ映画のテーマ曲についても「May J.よりも松たか子のバージョンの方が好き」という人がいて、上手く弾く/歌う重要性は、年々後退している気がします。但しそれらも、未だ西洋音楽の強固な枠の中から出ないままではありますが。

とにかく、学校で音楽を習っても放課後にバンドをやっても、私たちはどうしても、自分は誰よりうまいとかへただとかという考え方をしてしまいます。しかし、それはけっして音楽の本質的な姿ではありません。これまで見てきたように、ある特定の時代、場所にかぎられたイデオロギーにすぎないのです。

第六章 わらべうたと唱歌

この章では先に著書より引用した小泉文夫のエピソードから始まります。わらべうたについて国を超えて綿密に研究を重ねてきた氏によると、つまるところわらべうたは、子供たちが自発的に受け継ぐもので、大人が善し悪しを判断して教育するものではない、それがひいては子供たちの中で自発的に生まれ、伝承されるという流れを壊してしまうからだということだそうです。その原因として本書著者は、大人は子供の頃のわらべ歌の体験を記憶の中に保存できず、ぼんやりした感覚のみが残ってしまうので、それによって大人が子供にわらべうたを教えることは、子供たちの中で起こる流れからずれてしまう危険性が高いのだと指摘しています。

小泉文夫の研究では、同じ系統のわらべうたが北海道と九州で見つかったり、東京に住む少女が四国に引っ越すことで東京のわらべうたがその地に根付いたり、時には海を越えて同じメロディが歌われていたりと、子供たちの中でわらべうたは、不定形なきっかけによって遊戯を伴いながら誕生・変形・伝承されているそうです。ジャンケン遊びがかけ声もそのままアメリカで歌われ、「あいこでしょ」が「I Canna Show」になっている、などという話を聞くと、ラーメンズのコント「日本語学校アメリカン」を現実に見るようで笑いすらこみ上げてきます。

子供たちへの西洋音楽の教育の始まりは、前述の音楽取調掛に端を発し、本書に登場する伊澤修二は、日本において音楽教育を取り入れるためにアメリカで音楽を学び、帰国後、音楽取調掛が設置され、彼が指導を受けたアメリカ人教師とともに指導にあたったそうです。

そのなかで、日本人が(伊澤も含め)ドレミファソラシドを歌うことの難しさにぶつかり、突破口をペンタトニック・スケールに求めます。

たとえば民謡を見てみますと、これは五音音階です。《あんたがたどこさ》などに代表されるメロディを弾いてみていただくとわかりますが、このメロディは五つの音でできています。(中略)そこで伊澤が注目したのがアイルランドやスコットランドなどの民謡や歌でした。これらの歌のなかには五音音階が多くて、そしてそれらはおもに長調の五音音階(ドレミソラ)でした。そこで「これは日本の音階に似ている」ということで取り入れはじめるわけです。(中略)そしてこのドレミソラ(ヨナ抜き音階ともいいます)の五音音階で大量の唱歌が作られました。

音楽教育スタート時の苦労が垣間見えますが、これによって日本の多くの人がヨナ抜き音階を日本独特の音階だと思い込んでしまったのではないでしょうか(僕もつい最近までそう思っていました)。

ちなみに、本章は「わらべうたと唱歌」とされていますが、今巷に販売されているCDなどを探しても、両者は一緒くたにされてしまっています。小泉文夫がフィールドレコーディングした韓国の子供たちによるわらべうたが鳥肌が立つほど素晴らしくて、このような音源をもっと聴きたいと思って探してみると、大人が歌っているものや、子供が歌っていても、西洋音楽的に統制された合唱団が優雅な伴奏とともに歌っているものばかりで、子供たちによる自発的なわらべうたを録ったようなものは見当たりません。当たり前と言えば当たり前ですが、それら「わらべうたと唱歌」のCDが、「大人による子供たちのためのもの」だと思うと、考えさせられるものがあります。

閑話休題。本章では、日本の音楽教育は和声に関するカリキュラムが欠落していたのではないかと推測されています。

メロディがどんどん進んでもコードがいっこうに変化しないなど、西洋音楽にはない事態があらわれます。(中略)これは曲を作る際に、「曲というものは和製のかたまりが変化していく」という認識が希薄だった証拠でしょう。コードという存在がメロディの添え物程度にしか扱われていなかったわけです。
これは、明治の音楽教育に関わったひとたちが西洋の音階はドレミでできていることは分析できたのですが、和声感に注目することがやや遅れたのではないかと推測されます。

音楽が終止する方法について、西洋音楽では15世紀にトニック/ドミナント/サブドミナントの3種の和音を使う和声が確立しますが、同時代の日本では世阿弥が父・観阿弥の教えを体系化した「風姿花伝」という能の理論書をまとめ上げたところ。同書は合理的に体系化していった西洋音楽とは対照的に、具体的な技法の解説のない精神論を説くようなもので、今日の能の形式が明確に決められたのは江戸時代以降だったそうです。

このような、昔の日本人の音楽に対する考え方として、現代音楽の作曲家・森本恭正著「西洋音楽論」(2011年)に、尺八を巡る象徴的なエピソードがありました。

私はある事をどうしても直接確かめたくて、拙作ONCE IN ARCADIA FOR SHAKUHACHIの初演、それも大変な名演を残してくれたK・Y氏に会いに行った。
「唐突ですが、お訊きしたいことがあります」
「何か……」
「尺八はタンギングをしますか?」
「……しません。尺八古典曲ではしません」
「ええ!? もう一度言ってください」
「古典曲の尺八演奏ではタンギングを全くしません。しかし、現代の作品ではしますよ。フルートのように。でも古典曲では一切使いません。それは、篠笛も龍笛も篳篥も同様です」
私は少なからぬ衝撃を受けた。尺八はタンギングをしない! 篠笛も龍笛も、そして篳篥もタンギングをしない! では、日本の笛の演奏者にとって、表現とは一体何なのであろうか、というより、何であるのが本来的なのだろうか。よく、尺八の音を指して、竹林に一陣の風が吹き抜けるように、等と言われるけれども、それは、案外正しいのかもしれない。つまり西洋的な芸術(ARTS)がARTIFICAL(人工的な)という言葉を持ち出すまでもなく、「自然」と対峙した「人工」の産物であるのに対し、日本発祥の管楽器である尺八は、自然と融和した中で正に、竹林に吹く風のように奏でられる。そこには西洋的芸術には不可欠な「私は」とか「私が」という自我が入り込む余地などないのだろう。さらに踏み込んでいえば、本来、尺八は誰かに何かを伝えたくて吹いているのではないのだ。だから、喋らない。タンギングをしない。誰の為にでもなく、自らの瞑想と思索の為に吹く。
モスクワの会議で拙作を演奏したのはVというロシア人尺八奏者だった。彼は、私が提出した五線譜をすべて日本の文字による尺八譜に書き直し、技術的には非常な困難を伴うにも関わらず、タンギングを全くせずに吹き通した。その演奏からは、「作品」という文字が、まるで消しゴムで消される様に消えていったのを覚えている。終演後、そこには唯、ホワイトノイズの様な寂寥感が漂っていた。

和声とは、音楽を人間がコントロールするための、言わば制御装置です。日本の伝統には、そもそもそういった「音楽を制御する」という発想がなかったために、和声という考えがなかなか消化しきれなかったのかもしれません。

初期の音楽教育から、教材として唱歌が使われており、唱歌集の初編は音楽取調掛発足の3年後にあたる1882年に刊行されたそうです。歌の内容は社会情勢に合わせて国家礼賛になったり平和主義的になったりと変化していたようですが、今となってはビートルズが音楽の教科書に載ったなどと言われる時代ですから、変化する限りにおいては、時の流れには逆らえないということでしょう。しかしそれでも選曲は大人にとっての子供の理想像を前提にしたものへとバイアスがかかるようで。

やはりそこにあるのは、学校教育における健全性とでもいえるイデオロギーです。

第七章 標本の音楽

本章では「音楽教育は必要か」と、根本的な問いかけをしています。「音楽は学校ではなく、自己流もしくは現場の叩き上げで身につけた」多数の高名なミュージシャンの存在についての話から、情操教育としての音楽の授業の胡散臭さ、さらには日本の学校教育の異常な存在感と強制力の強さについて論じています。音楽教育が不要だとまでは思わないのですが、今の日本の、頑に学校を大切だと考える風潮はもう少しどうにかならないものかと思います。数年前から「これからの日本は学歴なんて関係なくなる」と言われ続けていますが、未だそのようなムードが大きく広がっているようには感じられませんし、一方で学校絡みの不祥事は絶えません。僕は音楽の授業があったおかげで五線譜の理屈が大まかに分かったりドレミファソラシドを知っていたり、改めて西洋音楽理論を勉強しようと思った際に全くの無知よりは多少なりとも入りやすかったりと、得るものも色々あったと思っていますが、同時にあらぬ足かせもたくさん付けられたことも、本書を読んでいると気づかざるを得ません。それに気づくと、大人になって音楽をいろいろと聴き進める数年間は、その足かせを少しずつ外していく作業だったようにも思えます。しかし繰り返しになりますが、ある程度足かせが外れたところで改めて振り返ってみると、音楽の授業で得たものが、思った以上に使い物になったり役に立ったりするもんだ、という気づきもあるものです。そしてこれは、音楽の授業に限ったことではないかも知れません。

第八章 音楽は、いいものか

本章では、モーツァルトを例に、音楽教育が良いものか悪いものかについて論じられています。モーツァルトは生前、歴史に残る名曲を残しながらも相応の正当な評価を受けられず、貧乏暮らしのまま若くして他界したと言われていますが、このようなことは歴史上の大作曲家には少なくない例で、音楽で一攫千金を得るというのは、主にポピュラー音楽の時代になってから大成功した一握りの音楽家の話ではないかと思われます。

本章の締めはこんな具合です。

わたしにいえることは、音楽教育というのはそれがうまくいけば、後世に残る音楽家になる代償として親を裏切り、一生貧乏のうちに死ぬことになる。うまくいかなければ、音楽からはさっさと足を洗ってサラリーマンになって安定した生活を送る。ということでしょうか。

まあ何とも極端な例ですが、本章では併せて、灰野敬二がごく普通の家庭に生まれ、特別な音楽教育を受けたわけでもないのにあのような異形の音楽が生まれた、という、もう一方の極端な例も出しています。

僕も娘が生まれた時から、家では色々と音楽をかけ、誕生日にはトイピアノを買い、音楽に親しめるような環境を作ろうと色々策略しましたが、今はもう放棄しかけています。そもそも彼女にとって音楽が向いているかも分からないし、今の彼女にとっての物事の優先順位の中には、もっと大事なものもあるだろうし、それは親の「余計な望み」なのだろうと思うようになりました。

……とは言え、某大ヒット洋アニメ映画の歌を熱唱しているのを見ると複雑な気分になるのは押さえ難いものです。

終章 音楽の見取り図

最終章では、「もうすこし健全な音楽のあり方」として、西洋文化の植民地性や資本主義から解放された形で音楽を捉えられないか、と提起します。

世界各国の音楽も「ワールドミュージック」という器で消耗品として陳列され、多くの国でその国流の「西洋音楽」が流れていている世の中で、日本人も自国の伝統音楽を聴きに行きたいと思っても、慎重に選ばなければ西洋音楽以降の影響下のものにぶちあたる可能性があります。

だからといって即座に音楽の資本主義的な性格を否定し、山にこもって下界の音楽をシャットアウトしてオリジナルな歌をつくってみても、なんの解決にもならないでしょう。そもそもわれわれは「音楽とはなにか」という最初のコンセプションのところで、それまでのさまざまな思想にとらわれているからです。資本主義に毒されない素朴な音楽という夢は、多くのミュージシャンをとらえてきました。でもこれはとてもむずかしい道です。そういったものはせいぜい素朴さを身にまとった新たな商品として再登場するだけだからです。

まるで禅問答のようになってきました。

ひとつの例ですが、ある休日、僕は自宅の居間で何気なくエリック・サティ“Je te veux”をかけていました。高橋悠治による有名な録音のものです。この曲は中間部で印象的なフォルテが入り、コード進行からしても一瞬終わったかのような雰囲気を醸し出しますが、驚いたのは、傍で遊んでいた娘がその流れを聴きながら「終わったかと思ったら、また始まったね」と言ったことでした。我が家には理論的に音楽を手ほどきできる人間はいませんから、彼女もトイピアノで人差し指を使って“きらきらぼし”のメロディをたどたどしく弾けるだけです。理論もへったくれもありません。西洋音楽で体系化された音楽の構造は、単に人工的なものではなく、人間の根源的なものでもあるのか……と一瞬思いましたが、恐らく、日々家の中や街中で流れる音楽に触れ、もっと小さい頃から母親の歌やお遊戯なども通して歌ったり聴いたりしているうちに、感覚的に「曲が終わる感じ」というものを覚えたのでしょう。

それぐらい西洋音楽は生活に入り込み、その外で音楽を奏でることは困難を極めるということでしょうか。

さて、それでは我々は一体どうしたら良いのでしょうか。音楽教育は不要なのでしょうか。音楽は聴くべきではないのでしょうか。

あとがきでは、本書の目的についてこう書かれています。

あたりまえのように考えられがちな学校というものが、実は近代以後に出来上がった世界秩序の一環であり、いまのネオリベ的世界の前提であることに気づかされるかもしれません。その結果、今まで疑問を保たずにこどもを学校教育に送っていたことに少々の留保が生まれるかもしれません。ここでわたしが意味しているのは現在の教育への批判ではなく、あくまでそういった距離をとる意識です。

今、我々が「当たり前」と思っている多くのことが、戦後形作られたものが多く、まるで昔からの常識のように捉えていたことが、たかだか数十年前に始まったことであったり、我々が疑うべき常識は、音楽に限らずそこかしこに存在します。逆に言えば、それらの常識は、気づけば覆すことが出来ますし、より本質的なものを求めるとき、それらは時折、自然と覆されることになります。

世界の民族/民俗音楽を聴いていると、ごく最近のオルタナティブな音楽と共通点を見出すときがあります。平均律からズレたような調律、拍子の概念が溶解したような訛ったポリリズム、積極的なノイズの含有……。それらを聴いた時の、音やリズムが外れているような感覚や余分な音が鳴っている感覚は、西洋音楽が植え付けた感覚であり、その向こうにあるプリミティブさ、つまりそこにある芳醇な音楽性を、今の(商業的な意味での)辺境のミュージシャンたちは、西洋音楽の上から獲得しているのではないでしょうか。

下界の音楽をシャットアウトする、楽器を古楽器に置き換える、などということは対症療法なもので、本質的な解決にはなりません。しかし、国境も時間も超えて全世界の音楽が一瞬にして聴くことのできる今、バビロンシステムのように世界を席巻する西洋音楽の存在は、資本主義社会に抵抗する市民運動のように、それに対峙するレジスタンスのような音楽が存在し、徐々に勢力を強めている印象があります。そんな彼らには、西洋音楽のメソッドを放棄する必要も、西洋楽器をボイコットする必要も、最早ありません。

西洋音楽は最早脅威ではなく、我々には緊縛の先に「選択の自由」が生まれつつあります。それは、「健全な音楽のあり方」へ向かって意識を開き、知識と知恵を持って音楽の大海に恐れず飛び込めば、きっと手に入れることができます。飛び込むのが怖くなった時には、ネット上に膨大に漂う辺境の音楽や、アンダーグラウンドなフィールドで奏でられる異形の音楽に触れ、本書を読めば、迷っているその背中を“前に”押してくれるのではないでしょうか。

……やはり、音楽は自ら学ぶべきものかも知れません。

※終章において、音楽論は時を経れば過去の論が置き換えられる運命にある、とされていますので、本文中の引用元の発行年を念のため記しておきました。そして、本文の作成日は投稿日と同じです。

※ちなみに、表紙がPP無しのマット紙だったので、購入後間もなく醤油の染みを付けてしまいました。

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