プリペアド・トレインーー失われた沈黙を求めて at 京阪電車貸切列車内(Osaka)

この日は京阪電車内で行われた「プリペアド・トレインーー失われた沈黙を求めて」に行ってきました。

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1978年にイタリアの鉄道を使って行われたという、ジョン・ケージ制作によるパフォーマンスを新たに再構築したというもの。京阪電車を一本貸し切り、中之島駅→樟葉駅→なにわ橋駅間を走る間、車内のあちこちで様々なサウンドインスタレーションが行われていました。

まず中之島のホームに入ると、すでに楽器を構えて演奏するミュージシャンやボイスパフォーマーがホームで音を奏で(「FOUR」、「EIGHT」、「ARIA2」を演奏していたようです)、車内では各車両の両端上部に固定されたスピーカーが車外の音をフィードバックし、片端に設置された液晶ディスプレイは別の車両の風景をフィードバックしています。

6両編成のうち一番前と後ろの車両以外の4車両が舞台となり、1両目にはピアノが固定され、その前で案内嬢の制服に身を包んだ合唱隊が「兵隊さんの汽車」「花嫁」を歌います。2両目には4車両のサウンドシステムをコントロールするミキサー卓。同室には、大量のポータブルCDプレーヤーが仮設のテーブルに並べられ、その前の壁に京阪各駅の環境音を収録したCDがずらりとかけられています。

ホ―ムで演奏するミュージシャンたちも乗り込むと、14時に列車はスタート。「貸切列車“プリペアド・トレイン”、発車します」という車内アナウンスがたまりません。

中之島駅→樟葉駅間では、それぞれのミュージシャンが車内を練り歩きながら演奏を繰り広げます。アイリッシュフィドルや先ほどの合唱、篠笛に三味線と、ジャンルもバラバラな音楽が、遠くから聴こえてきたりスピーカーから聴こえてきたり、目の前で演奏されていたり。三味線は民謡を、フィドルはアイリッシュフォークを、というように、その楽器本来の目的のまま演奏されているので、ケージのイメージにある音響的なサウンドにはならず、とてもにぎやかで楽しい、一種お祭り的なムードも漂っていました。その中で逆に異彩を放っていたのは、「空中に石庭を作る」と、針金を天上から吊るしてグニャグニャと曲げてオブジェを作っていたニシジマアツシのパフォーマンスでした。こういうものがケージらしい感じがして逆にホッとするという不思議。

各駅には停車せず、枚方市駅、折り返しの樟葉駅で一定時間停まり、その間、各駅の環境音CDをポータブルプレーヤーで再生。それがプレーヤー近くにある小型のスピーカーと各車両のモニタースピーカーでミックスされて流れます。明らかに先ほどまで耳にしていた駅のノイズや電車の走行音の立体感とは違う二次元的な音に、妙な不安定感を覚えました。エレクトロニカ的なノイズも環境ノイズも、デジタル化した時点でその境界線ってほぼ無くなってしまうんだな、とも思いつつ。

折り返しの樟葉駅→なにわ橋駅間では、うって変わって演奏者全員が車内のバラバラの場所でケージの曲を演奏するというパフォーマンスで、各自譜面と時計を見つめながら、断続的に(ほとんどが沈黙状態)意味を成さない音を発します。

ピアノのある車両では、お客さんが代わる代わる演奏していましたが、どうやら事前に配られていたプログラムの中に、その指示を書かれた紙が挟まれていた人もいたそうです。その他にも京阪各駅の環境音をかける指示や、「何時何分に窓を開ける」などがあったということですが、僕のプログラムの中にはありませんでした。一見、仕込まれてるとは思えず、自発的に行っているように見えてしまうという、しかも、多分それを見て自発的にやっても構わないという、見事なお客さんの巻き込み方でした。

折り返しでは静かな演奏も相俟って、座席に座って寝ている姿も結構目に入りました。電車に揺られて適度な騒音に包まれて眠るのは、言わば人間の本能のようなもの。非日常的な異空間でありながら、結局は日常の延長に過ぎないという交通インフラの本質の強度を再認識。そもそも、楽器を持ち込みスピーカーを仕込み、走行中にみんなが歩き回り、舞踏の女性が飛び跳ねても何の支障もなく、普段のレールの上を(ホームにいる普通のお客さんの姿を車窓から眺めながら)走っているんですから、やはり鉄道のパワーには圧倒的なものがありますね。

イタリアで初演された時は、そもそもイタリア人が時間にルーズ(電車が一時間くらい遅れるのは日常茶飯事だそうです)な上に、各駅で停まっては地元の演奏者が乗り込んで大盛り上がり、ということを繰り返していたので(これもケージの指示にあったようですが、今回は実行されていません)、最終駅に到着した頃には日が暮れていたそうですが、さすがは日本の鉄道、定刻通り15時45分に最終駅に到着し、1時間45分の音楽の旅は終了。

その後、なにわ橋駅構内にある仮設の劇場でアフタートークがあり、制作秘話や裏話(本当はグランドピアノを持ち込みたかったが、ピアノレンタル屋さんがNGを出したためにアップライトになった、など)、ケージとプリペアド・トレインに関する考察など、色々興味深い話が聞けました。途中、鉄道マニア的な話に脱線していくのも面白かったですが、一度もピエール・シェフェールの名前が出なかったのが意外と言えば意外でした。

乗車中、持ち前の貧乏根性でほとんど座席に座ることなく終始動き回っていて結構疲れた(走ってる電車の中を1時間以上歩き続けることって無いですからね)んですが、アフタートークでの「歩き回って聴いても、一カ所に座って聴いても、人が得られる情報量なんて大して変わらないんだな、ということを思い知った」という言葉に納得。追い回しても何かを捉えられるわけではなく、ただただ翻弄されている気分でした(その状態はそれでまた楽しいんですが)。

音と時間に関わる既成概念を引きはがすようなケージの思想は、まだ「聴く」ということが作為的で、どうしても何らかの「型」を通して聴いてしまう僕には非常に刺激的で、氏の音楽を実演するイベントを体験するたびにその凝り固まった頭を揉みしだかれるような気分になります。でもまだまだカチコチですね。ますます氏の著書が読みたくなりました。

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