アクセル・ドナー at chef d’oeuvre (Osaka)

この日はシェ・ドゥーヴルアクセル・ドナーを見に行きました。

アクセル・ドナーを観るのは、去年のONJO以来二度目。

会場は、カフェの奥にある、ガラス工芸の展示スペースのようなところ。陳列された工芸品と、ややベージュがかった壁の色が地明かりの照明の元、アーティスティックな静謐感を醸し出していました。

メンバーは、江崎將史貝つぶを加えたトリオでの、2トランペット+非楽器という編成。PAは一切無し。お客さんも、10人ぐらいでいっぱいになっていました。
前半は、3人が順番にソロ演奏を行うという、合奏をしないセット。

アクセルの演奏は、唇を絞らない、大量に空気を送り込むブロウと一定の音響を持続させるための循環呼吸、ミュートや唾抜きの脱着、 ピストンのネジを緩めるなどの音色変化によって様々なノイズを生み出すというもの。ONJOの時にはビッグバンドの一部として聴いていたのですが、小さなスペースで至近距離でソロ(伴奏も何も無いので正真正銘の“ソロ”)を聴くともの凄い音です。微音から爆音まで、徹底的に音韻を排した音の壁は、それがトランペットであることも、生楽器であることも疑ってしまいたくなるような響きでした。

江崎は、同じトランペットを使いながらも、ピストンの下の穴から息を吹きかけたり、唾抜きやマウスピースを抜いて単独で吹いたりと、純粋にトランペットの出す音色のバリエーションを追求するような演奏で、アクセルよりも低い温度で、微音を中心に鳴らしていました。

貝つぶは、ステンレスのポットの蓋が擦れる音、ポットの注ぎ口から息を吹き込んだ時の音、小さな器にビー玉の当たる音、ノコギリをタワシで擦る音、と、楽器以外のものが発する音を微弱に響かせ、聴き手の集中力を極限まで高めていました。

ビー玉がアルミの器を滑る時の響きや、タワシの毛一本一本がノコギリの上をはねる音など、それは子供の頃、手短なものが何でもおもちゃになっていたあの頃に、モノそれぞれが持つ多彩な“音”に興味を覚え、延々と網戸を引っ掻いたり瓶の蓋の開け閉めを繰り返していた時の、音に集中する感覚を追体験するようなイノセントさを持っていて、じっと耳を澄ますほどに音の微細な変化の隙間に吸い込まれていくようでした。
イノセントである一方、ポットを注ぎ口から吹いて蓋がうっすらとカタカタ鳴る様は、最早シュールなコント寸前。こういう、吹っ切れて行き着けば笑いになってしまうところを、崖っぷちで真剣にプレイし、そして真剣に視聴するという空気には、強烈なエネルギーがあるように思います。演奏者と観客、両者とも生半可じゃないんですよね。笑いに逃げない、緩和しない緊張の持続。狭いスペースによる共犯意識もあって、とても魅力的な空間が生まれていました。

たっぷりと間を空けながら、ゆっくりと静かに進むソロリレーは1時間弱で終了。

15分ほどの休憩を挟み、後半はトリオでの合奏で約40分。アクセル、江崎は勿論トランペット、貝つぶはノコギリを弓で擦る(弾く、ではなく。楽器としての音色を出すのではなく、あくまでも「ノコギリを弓で擦ると発生する“きしきし”“ぎぎぎ”という音」を鳴らしていました)プレイで、後半は床に置いて足で踏んで音を出していました。

前半のセット同様、アクセルは「音符を鳴らさないブロウ」での音作り、江崎はトランペットの様々な部位から息を吹き込むことによる音色のバリエーションを聴かせるというプレイ。

同時に演奏することによって、マウスピースから吹くことに終始し、肉体的に音を作り上げるアクセルのスタイルと、ネジを緩めたピストンを叩いた時の音や唾抜きを開閉した時のフィルタリングなど、パーカッション的に音を生み出す江崎のスタイルの違いが浮き彫りになるセッションでした。同じ楽器で、同じ「音響的な完全即興」を行ってもこれだけ全く違うパフォーマンスが出来るということには驚くばかりです。

「“生”電子音楽」と言うべきか「人力エレクトロニカ」と言うべきか。小さなスペースでダイレクトに響く「非楽器」的な音の数々は、録音や映像での追体験が不可能な、「刹那に咲いた異形の花」として、こうやって文字や言葉でしか追跡できない世界を生み出していました。

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