映画版「若おかみは小学生!」が泣けるのは、おっこの強さを監督が信じたからではないか

この日は「若おかみは小学生!」を、小三の娘とアレックスシネマ高槻に観に行きました。

世間の評判通り、クライマックスでは感極まり、しかし娘の手前泣き顔を見せたくなかったため、必死にこらえたら下唇がプルプルと痙攣しました。泣くのを我慢すると下唇が震え出すということを知りました。

とは言え、この作品の世間の評判が「泣ける」に終始しているのは違和感があります。もちろん他の評価軸においても論ぜられてはいますが、他人に勧める際の決まり文句として「泣ける」が選択されている傾向があります。いや、実は僕もやはり分かりやすいので「泣ける」に甘んじてしまっています。僕は、「泣ける映画」と言われて興味が沸くタイプではないので、それで興味を引くのもなんだかなあ……と思ってしまうわけです。今回もそこに抵抗はあったのですが、それよりも「娘と観に行ける映画があった」という思いの方が上回ったので、泣ける映画なんか見たくないけど致し方あるまい、と、不安を抱えながら鑑賞したのでした。

両親を亡くした小学生の女の子が祖母の旅館で若女将の修行に励む……というあらすじからして、お涙頂戴な展開されたらきついなあ……と思って観ていたら、意外にも話は湿っぽい方向に進まず、明るくカラッとした雰囲気で進行します。普通ならここで悲しげな感じが……という要素が出てきても、主人公の女の子・おっこは、特別何か辛い心の内を見せるわけでもなく、さらっと流されます。

後でテレビ版を観て分かったことですが、映画版は、意図的におっこが(クライマックスまで)哀しまないようにしています。最初、それは辛さを忘れるために気丈に振る舞っているのかと思いましたが、時折挿入される、まるで両親が生きているかのような、夢か幻か判断しかねるような描写や、途中、車で出かけた際に事故の記憶がフラッシュバックし、過呼吸に陥った際のトラウマへの無自覚さ、「両親がまだ生きているような気がする」というおっこのセリフなどから、その事実をまだ受け入れきれていないために、現実味を持てずにいる、だから悲しそうな顔を見せず、元気に振舞えていることが分かります。

テレビ版では、宿泊客である、おっこと同年代の男の子・あかねと口論をしたことで祖母に説教されるシーンで、祖母が急に倒れます。この時おっこは、両親の葬式を思い出し、親に去られ、今度は祖母にも置いていかれるのかと不安が襲い、その恐怖に涙します。このシーンは、テレビ版ではおっこが両親の不在を自覚し、その上で頑張ろうとしていることが伺えます。

また、テレビ版では、ウリ坊は具体的に役に立ちます。旅館対抗の菓子コンテストでおっこが火傷を負った際、動かなくなったおっこの腕にウリ坊が乗り移り、菓子作りを最後まで完遂させます。しかし映画版では、ウリ坊をはじめとする幽霊たちは、庭の草むしりなどを手伝うというシーンはありますが、おっこのピンチを霊的な能力で助けることはなく、しかも物語の後半では、おっこは徐々にその姿すら見えなくなっていきます。

これらの設定は、クライマックス直前までのおっこの若おかみとしての成長を見せながらも、目を背け続けていることをずっと保留し続け、最後におっこの前に一気に突きつけます。テレビ版では、両親の死を受け入れた上で、ウリ坊たちに支えられながら成長していますが、映画版でのおっこは、両親の死を「受け入れない」ことで成長してきた「つもり」でいたところに、やはり受け入れなければ本当の成長はない、という事実を残酷なまでに突きつけられ、しかもその事実に直面させられた時、ウリ坊たちの存在は彼女には見えません。感情の抑えが効かなくなり、泣き叫びながら走り出すおっこは、旅館の外で宿泊客であった女性・グローリー水領と再会し、自分が抱えていた思いを吐露します。

おっこは吐露することによって、この辛い局面を乗り越えます。周りの誰かによって具体的に救われるのではなく、自分の意思と力で乗り越えます。おっこはここで初めて本当の意味で成長し、本当の意味で若おかみになります。

つまりこの映画が泣けるのは、一人の少女の成長を、ファンタジーやフィクションで添え木をしてゆったりと促すのではなく、成長するには自分一人で超えなければいけない壁があり、それを突きつけられて逃げ出そうともがき苦しみながらも、最後には強く健気に乗り越え、成長した姿を見せてくれるからでしょう(尺の都合上ゆえか、乗り越えた部分の描写が物足りない気がしましたが)。

多分、児童文学の文脈のまま映画化していたら、泣き叫ぶ彼女をウリ坊たちが守り、支え、助言してくれたのではないかと思いますが、それを一切せず、おっこに自力で乗り越えさせるところがこの映画の強さなのでしょう。ウリ坊たちは、手を差し伸べようとしますが、監督がそれをさせていません。ここに、「自分で越えてみせろ」という監督の親心、そして彼の描いたおっこへの強い信頼が垣間見えます。

というわけで、劇場を出た頃には、隣にいる娘のことがより一層愛おしくなり、娘のためにも、僕はまだまだ生きよう、と思わせてくれる作品でした。

<追記>
本作の評価として、「小学生女子に癒されてる周りの大人たち」への不快感を示すものが幾つかあり、特にそんな印象がなかったので、逆に、どうしてそこに気付かなかったんだろう、としばらく考えていましたが、多分それは、本作における「癒される大人」が記号でしかないからなんだろうなという気がしました。

本作は、児童文学を基にしているからか、話の運び方が非常に紋切り型です。「辛さを癒すために温泉に泊まる」→「おっこが頑張る」→「癒される」が三回繰り返されますが、おっこの頑張りは、あまり複雑な押し引きや葛藤もなく、すんなりと受け入れられます。この簡単さは、大人の存在を記号化します。「不満を抱える」→「解決する」というゲームの仕組みでしかなく、あまりパーソナリティやバックグラウンドは重視されません。バックグラウンドらしきものが出てきても、それは「不満を抱える」ための記号でしかありません。ということは、彼らはおっこを成長させるためのミッションでしかなく、もっと言えば大人である必然性もありません。「不満を抱える」には、そしてその不満を解消するために温泉に行くには大人である方が都合が良いだけのことです。だから本作に出てくる大人には存在感がありません。その人物の背景があまり見えず、まるでがらんどうのようです。祖母ですら、「ウリ坊と仲良しだった」という話はウリ坊の存在を説明する以上のことは何もなく、おっこの両親とのつながりを感じさせる描写も非常に希薄です。

つまり本作は構造上、「癒される大人」は記号であり、おっこを成長させるための道具でしかなく、彼ら自身が癒されるかや、大人であるかどうかはさほど問題とは感じさせないようにできているのではないでしょうか。おっこの前で幽霊たちが物語の道具でしかないことは、彼らが後半まったく機能せず、「何もできずに悲しむ」ことでおっこの成長を促し、その状況を強調するためにしか存在していないことで示されていますが、大人たちも「大人」という記号を役割としてになっているだけの成長促進ツールだということです。

おっこ以外の主要登場人物で記号や道具にとどまっていないのが、子供である真月である(表向きの態度とは別に、他人の前ではひた隠しにしている内面があり、物語の最後ではおっこの前でその内面を垣間見せつつも、最後まで葛藤を抱え続けている)ことは、やはり作品全体のピントがどこにあっているかがその証左であるように思います。

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