JOHN CAGE 100th ANNIVERSARY Countdown Event 2007-2012 Final at 京都芸術センター(Kyoto)

この日は京都芸術センターで行われた「JOHN CAGE 100th ANNIVERSARY Countdown Event 2007-2012 Final」に行ってきました。

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演目は3部構成になっており、まずは1階のフリースペースでのインスタレーション。

室内には周囲にプロジェクターで5つの映像が投影されており、それは全てこのイベントの過去のアーカイブ。それぞれにPAスピーカーも用意され、適度なボリュームで混ざり合い、近づくとどこで何の音がなっているのかが明瞭になるという感じ。

さらに会場のあちこちに、このイベントに使われた譜面も展示されていたんですが、音階の区切りも無く四分音符と休符しか並んでいないものや言葉しか書いていないもの、曲線が書かれているもの、透明フィルムに円などの図形が書かれているものというような、いかにも現代音楽らしいものばかり。

そして会場の中央には沢山の機材が長テーブルの上や周囲に並べられており、最初はただ置かれているだけで何の音が出ているわけでもなかったんですが、徐々に一人、二人とケーブルを抜き差ししたりパソコンを操作したりと人が集まるにつれ、不定期にノイズや電子音が鳴り響きます。結局これが「Variations VI」の演奏だったわけですが、演奏家が何をやって音を出しているのかがほとんど分からず(竹村延和が幾何学模様の上に小さなチップをばらまいている動きが譜面を構成し、読み解いているのであろうと言うことは想像出来ましたが、あとはミキサーを触ったりケーブルを抜き差ししているばかり)、演る側からも聴く側からも分離した宙ぶらりんな音が漂う感じがしました。

演奏者が一人一人おもむろに退出し、約1時間の演奏がフェードアウトするように終わると、続いては通常のコンサート形式で数曲が演奏される第2部。

2階の講堂へ移動(途中、上の写真のように、階段や通路に1小節ぐらいの短い譜面の切り抜きがまばらに貼られていましたが、最後まで何のことかはよく分からず)すると、会場を取り囲むように客席が配置され、その中に不規則にいくつかの台や機材、ピアノが並べられており、座る場所と演目によっては見え方も聴こえ方も変わってくるようなセッティング。自分も含め、お客さんはどこに座るべきか結構悩んでいました。
1曲目は森本ゆりの独奏によるプリペアド・ピアノ曲「A Valentine Out of Season」。結構メロディアスで快活な演奏が、プリペアされたことで音程と音色を崩されていて、YMO「BGM」収録の”HAPPY END”のような印象。ピアノ弦がフェルトやネジに触れて振動する音が誇張されることで、サステインが弦楽器らしくなっていて、普段耳にする打楽器的な要素が薄れるとピアノの音はこんなバランスになるのか、と妙なところで感心してしまいました。

続いては「Ryoanji」と「One3」。「Ryoanji」は、机を一定間隔で叩くリズムに、弓弾きする三味線の演奏と、録音された弓弾き三味線の音が重なる演奏。そこに、フィードバック音をコントロールする「One3」が不定期に加わるといった感じ。三味線の弓弾きの部分は元々声楽用のものだそうですが、この演奏はこの三味線が引きつるような悲鳴と煙を上げている様が肝となっていたので、なかなか見事なアレンジだったのではないでしょうか。

この後、ピアノのプリペアされたパーツを外す間にニシジマ・アツシ、村井啓哲両氏による演目の簡単な解説がありましたが、こういう話が無ければ何をやっているのかさっぱり分からない上に、話を聞いたからと言って演奏の良し悪しについての理解の促進にはあまり役に立たないというところがまた良かったりして。

森本ゆりの独奏による通常のピアノ曲「In a Landscape」を挟んで、「Solo for Voice 2」「Winter Music」「Branches」「Sculptures Musicales」「Variations IV」の同時演奏へ。Hacoがボイス・パフォーマンスを、森本ゆりがピアノを、村井啓哲と森本誠士がピックアップを仕込んだサボテンを、竹村延和が電子音をそれぞれ断片的に発する会場の外で、三味線や様々な管楽器が不定期に鳴らされ、さらに外のノイズ(通り過ぎる自転車のベルなど)が時折並列に混ざり合い、日常と非日常が入り乱れ、さらに窓を開けることで外の冷気が大量に入り込むことで、聴き手の集中力をどんどん攪乱していきます。

最後はピアノ曲「Swinging」の、短く軽快な演奏で終了。

そして第3部は、フリースペースに戻り、ニシジマ氏、竹村氏、村井氏によるトークイベントへ。このイベントの成り立ちやケージに対するそれぞれの考え方など1時間ほどの短い中にかなり凝縮して話されていて、非常に濃い上に勉強にもなり、この日のハイライトはこのトークだったんじゃないかと思えるほど。

そこで竹村氏が「ケージの音楽は好きではないが、思想家としては大変興味がある」というようなことを話されていて、正に彼の音楽は、最終的に演奏されてアウトプットされたもの自体には特別価値があるわけではなく、そのプロセス、遡ってそれがどのように作曲されたか、さらに遡り、何故そのような曲を書いたか、その曲がもたらす意味は何か、を探ることの方が余程重要で、村井氏が「みんなもっとケージを演奏すればいいよ。道を歩いてていい葉っぱを見つけたらピックアップつけてみるとか」と話されていたのも、その意図を汲み取る行為に最もケージの面白さがあるということなんじゃないかと思いました。

実際、僕もケージの作品はいくつか購入して聴きましたが、あまり頻繁に聴くことは無く、音源自体よりもそのバックグラウンドの方が面白く感じることの方が多かったように思います(ケージ自体も自身の作品を録音して残すことにあまり肯定的ではなかったそうですが)。

トークイベントで話されていたことに「即興と偶然を混同する人がいるが、この二つは真逆」ということがありました。即興は演奏者の考えや技術が前面に出るものである一方、偶然は演奏者の意図することが制限されるものだ、というような話だったんですが、だからこそケージの音楽は、音に対して何か意図を求めると全く掴み損ねてしまい、空間やバックグラウンドごと捉えることでようやく何かに触れることができるのでしょう。一方で、譜面にも演奏にも誤解や勘違いを引き起こす仕掛けがふんだんに施されていることで、演奏者・聴き手双方に多様な解釈を生み出す余地があり、断定的に何か結論付けすることができません。それは今、旧来の音楽愛好家を敬遠させ、若い音楽ファンの心を惹き付けているのではないか、とも思います(この日の客席は、ほとんどが20〜30代と思しき若い人でした)。

もうひとつ興味深かったのは、お客さんの質問からの「無音とはあり得るのか」という話。質問者が無響室に入った時の「音が無くなると、今度は自分自身の音(血流など)が聴こえてくる」という経験談から、「身体から発する音の逆相の音を聞いたら完全に無音になるのか」という疑問が生まれ、「もし耳(鼓膜)だけで音を聴いているとしたらそうだろうが、違う気がする。皮膚だとか毛だとか、そういうところでも感知しているんじゃないか」という話に発展し、「音が消されれば耳はより小さな音を追い求め、永久に”無音“にはならないのかも知れない」という壮大な想像へと辿り着きました。この日の「Variations VI」を引き合いに、演奏される音の大小が相対的に大きく感じたり、耳についていた音が気にならなくなる現象についても話されていましたが、「音を聴く」ということは絶対と相対、意識と無意識が互いに綱引きをしながら、最終的に「ある音」が脳に到達するという行為なんでしょう。聴取体験というものは、何かを断言的に語ることができるほど単純明快なものではなく、まだまだ解明し切れていない、大きな神秘のひとつであり、ケージの音楽は、その神秘との格闘の記録だと言えるのかも知れません。

この日のイベントは非常に興味深く、貴重な体験になりましたが、これから「さらにケージを聴いてみよう」とはならず、「ケージに関する著作物を読んでみよう」という気持ちになりました。これも、「ケージを聴く」という行為のひとつなのかも知れません。

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