「天才少女の奇跡の物語」ではない――「クイーン・オブ・カトゥエ」から感じる母性愛・父性愛

日本で未公開だったディズニー映画「奇跡のチェックメイト – クイーン・オブ・カトゥエ」。先日ようやく国内版でDVD化されましたので、早速鑑賞しました。

ストーリーは、「ウガンダのスラムに住む少女・フィオナが、あるきっかけからチェスを学ぶと、たちまち天才的な能力を発揮し、人生を切り開いていく」という、実話を基にしたもの。あらすじからして、天才少女のサクセスストーリーのように思えますが、さにあらず。

彼女は、スラムに住む、学費も払えない貧しい家庭の子供たちにチェスの教室を開く「コーチ」ことロバート・カテンデによってチェスの存在を知ります。最初はルールを覚えることに精一杯ですが、ゲームを重ねるごとにその才能を開花し始め、そのポテンシャルに気づいたロバートは、彼女含む、チェス教室に通う子供たち(ロバート呼ぶところの「パイオニア」)を公の大会に出場させ、スラムの貧しい生活から外へ羽ばたいていくきっかけを作っていきます。

パイオニアのなかで最も才能を発揮するのはやはりフィオナですが、彼女はまさに天才的に能力を伸ばしていくので、やがて師であるロバートの能力を超えていきます。しかし、彼女にはチェスの才能はあっても、年端もいかぬ少女であることには変わりありません。彼女の行く手には、母親の反対や見知らぬ土地に遠征する不安、強敵に対する恐怖、貧困によって立ちふさがる壁などが待ち構えていますが、それらから彼女を救い、守ってくれるのはいつもロバートです。彼女の母を幾度となく説得し、不安を抱えている時には勇気付け、挫折した時には暖かく包み込む。彼がいなければ彼女はその才能をすぐにでも埋れさせてしまったことでしょう。

象徴的なのは、彼女が自分から世界大会に出場すると決意し、しかし世界中継される中で敗北してしまうくだり。やはり彼女は未熟であり、自分で判断してしまうと失敗し、ロバートは彼女の失敗を予感しながらも止めることができず、世界が終わったかのように号泣する彼女を黙って抱いてあげるしかできません。

撮影方法にも、彼女の性質が表現されています。この映画、画面に映るウガンダのファッションが実に美しく、映像も暖色系でまとめられているので全体的に明るく鮮やかな雰囲気にあふれています(それは、物語を悲壮に見せず、あくまでもポジティブに、楽しく見せる役割も担っています)が、そこに拍車をかけているのが、被写界深度を浅めにしたカットの多さです。被写界深度を浅くすると、焦点が狭まり、周囲が強くボケます。これによって遠近感が現れるとともに、鑑賞者の目線を意図的に誘導する機能も果たします。

例えばオープニングで、水を汲んだ帰り道のフィオナが、学校に通う子供達と遭遇するシーンですが、フィオナにフォーカスが当たり、学生服姿の子供達がボケています。これは、学校に通うことができない彼女との距離感を感じさせます。この後に出てくる、ロバートが学校の先生でもある彼の妻を迎えに行くシーンでは、ロバートたちにだけフォーカスし、下校中の子供達を殊更にボカすような演出はされていません。

この演出は特にフィオナの心理描写に多く使われています。例えばチェスをしているシーンで、彼女が集中力を高め、試合に挑んでいる時には、駒にカメラが寄り、周囲がボケています。逆に、遊びでチェスをしている時や、集中力を欠いて負けてしまう時には、盤がやや俯瞰で捉えられ、全体がフォーカスしています。これは、フィオナの視野と映像におけるフォーカス範囲が連動しているとも言えるのではないでしょうか。オープニングタイトル前に出てくる、劇中最後の試合でテーブルまで歩いて行くシーンなどは、彼女の意識が向いているところ以外はほとんどボケてしまっていると言っていいほどです。これは、彼女が何を意識しているのか、という視線誘導の意味だけではなく、彼女が未熟な存在であり、世の中のことをまだよくわかっていないことをも示しているように思います。ロバートが中心となるシーンでは、このような演出にはなっていません。

しかし、それはロバートが成熟した存在だということの証左とは言えません。指導者の立場ではありますが、彼もまた迫りくる試練に、必死になって挑んでいます。前述した、フィオナの前に立ちふさがる障害への対応もそうですが、彼は自身の生活とパイオニアへの支援を天秤にかけながら、悩んだ末にいつもパイオニア側につくことを決断します。より給料のいい、安定した仕事につけるチャンスをも蹴り、子供達を引き受ける判断をするシーンは感動的でした。

葛藤し、悩みながらも、懸命に子供達を支え続ける彼の偉大さが、エンディングのキャスト紹介で更に強調されます。劇中の登場人物が、演じた役者と演じられた本人が並んで立ち、現在の彼らの状況を伝えるこのシーン、劇中では試合中に負けたショックで泣き出していた少女がルワブシェニ選手権(フィオナが劇中最後に挑む大会)の覇者になっていたり、全国ジュニアチャンピオンになっている子がいたりと、パイオニアのその後の成長を見ても、彼が指導者としてとても優秀だったことが伺えます。

つまりこの映画は、フィオナの成長物語のように見せて、実はロバートが子供達を通して自分自身を再認識し、成長する物語でもあるのです。一方で、フィオナの母・ハリエットの物語であるとも言えます。敬虔なキリスト教徒と思われる彼女は、夫をHIVで失い、過酷な環境に追い込まれることで、世の中に対して常に強気の態度で自身を武装し、顎を突き出したその表情はいつも不機嫌で苛立ちを隠そうとしません。子供達のために毎日を必死に生きる彼女ですが、当の子供達は親の気も知らず、夜遊びにふけったり大怪我を負って有り金を失い家を追い出されたりと、まさに苦難の連続です。それでも子供たちの幸せをひたすら願う彼女。フィオナが夜中にチェスの本を読んで勉強できるように、母親の形見の衣装を売り、その身まで売ろうとし(すんでのところで思いとどまりますが)、作ったお金で灯油を買いに行くくだりは、実にやるせない気分になります。そのやるせなさに拍車をかけるのが、当のフィオナは、母がそこまでしてお金を作っていることに、最後まで気づかない様子だということ。先に書いたように、彼女はあくまでも子供であり、イノセントな存在として最後まであり続けます。あまつさえ、敗北を味わった彼女は母と暮らすことに抵抗を感じ、家出をし、ロバートの家に居候してしまいます。

若くして母を亡くしたロバートは、フィオナに母の大切さを諭し、その後、ハリエットのもとを訪れます。うろたえんばかりに喜ぶ母をよそに、やはりフィオナは母とじっくり会話することもなく、「コーチが来てるよ」と伝えると、弟と陽気に歌い踊ります。おそらくフィオナは、ロバートの言葉を聞いて、「会っておいたほうがいいんだろうな」ぐらいの感覚になっただけなのではないかと思います。母への愛がないのではなく、子供である彼女にはその気持ちを表現するボキャブラリーが無いのです。

ここでロバートはハリエットに「信じてくれる母親がいる子供たちは幸せだ。あなたは偉大だ」と彼女を褒め称えます。楽しそうに歌い踊る我が子を見つめながら、涙ながらに「精一杯やった」と呟くくだりが、この映画のハイライトです。国も人種も問わず、あらゆる「親」が抱くであろう不安、迷い、焦り。それらをたった一人で気丈に抱え続けていた彼女は、彼のこの言葉に救われ、以後、彼女の表情から苛立ちは無くなります。

物語の途中、ロバートとハリエットの会話シーンで、ロバートが「我々の子供」と言った時にハリエットがすかさず「あんたの子じゃない、私の子だ」と言い返しますが、実のところ、ロバートは間接的に父としての役割を担っています。彼もまたハリエット同様、子供たちを信じ、子供達のために精一杯生きているからです。ロバートに象徴される父性、ハリエットに象徴される母性は、どちらが欠けても子供達を明るい未来へ導いてあげることはできませんでした。

つまりこの映画は、遠い国で起こった、チェスの天才を描いた奇跡の物語ではなく、普遍的な、父と母の愛についての物語なのではないでしょうか。

あなたが母親、もしくは父親ならば、是非観てもらいたい映画です。

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