フランク・ザッパをヒップホップだと思って聴いてみる

フランク・ザッパの音楽、もっと正確に言うと、フランク・ザッパの歌を聴くと、まるでヒップホップを聴いているような錯覚が起こります。語りとメロディを行き来するスタイル、うねるような低音、そして、印象的な韻の踏み方。つまり、フランク・ザッパの歌にはラップの要素が濃厚にある、ということですが。

ヒップホップの歴史はザッパのデビューよりも後で、実際、彼が自覚的にラップを取り入れた様子はなく、非常に高い可能性で「他人の空似」であるわけですが、それにしても彼のライムが持つドープさは、ザッパを聞いたことがないヒップホップファンにも届けたくなるほどのものだと思っています。

というわけで、ザッパのヒップホップ性を、ザッパのボーカリストとしての変遷や具体例から軽く探って行こうと思います。

まず、そもそも論として、ザッパは「ギタリスト兼ボーカリスト」であるわけですが、それより上位に来る肩書きとして「作曲家」であるということが、彼のボーカルスタイルに大きな影響を与えています。ザッパは元々現代音楽の作曲家を目指しており、彼にとってのアイドルはストラヴィンスキーやエドガー・ヴァレーズでした(彼がキャリアの初期にドラマーとして活動していたこと、彼の作曲した現代音楽に打楽器が大きくフィーチュアされていることは、ヴァレーズからの影響です)。一方でザッパはR&Bのマニアでもあり、学生時代に親友のドン・ヴァン・ブリード(後のキャプテン・ビーフハート)と一緒に聞き漁りながら音楽談義に耽っていたことが、彼の音楽を形成する非常に大きな要素でありました。

先ほどザッパは「作曲家」であると書きましたが、もう一つの側面として「プロデューサー」であるという点も見逃してはいけません。これは単なる「アルバムをセルフプロデュースする」という意味ではなく、バンドメンバーをいかに活かし、最良の表現形態に持っていけるか、ということへの注力が彼の音楽遍歴を形成しているということでもあります。それは時には「作曲家」としての彼のアイデンティティよりも先に来ることがあります。具体的には「バンドメンバーに合わせて曲を作る」ということです。これは、入念なリハーサル、演奏に対する厳しい注文、俗に「ザッパ・スクール」と呼ばれる仕組み、というザッパのパブリックイメージから来る「自作の難解な曲をメンバーに強制的に叩き込む」ザッパ像が誤解を含んでいることを意味し、また、この彼の「適材適所」の才能が、彼の公式なデビューバンドと言えるThe Mothers of Inventionの誕生へとつながっていきます。

The Mothers of Inventionはザッパが途中参加したバンドの発展版で、元々彼が始めたバンドではなかった上、後のザッパ・スクールのようにメンバーをオーディションして厳選したプレーヤーを集めたバンドでもありません。そこでザッパは「そんなバンドが演奏できる曲」を作曲し、レコード契約へとこぎつけます。66年のデビューアルバム「Freak Out!」は、いわゆるロックバンドの形態を取りながらR&Bの要素や前衛的な演奏をない交ぜにしたサウンドで、生涯ザッパの音楽に通底する重要な素材がすでに揃っていますが、あくまでも「楽曲ありき」ではなく「バンドありき」であったこと、そして彼の死後、70年代後半にザッパバンドの屋台骨を支えていたテリー・ボジオが「彼が亡くなったのは哀しいが、彼から「思いついたことがあるからちょっと来い」と無理難題を投げかける電話がかかってくる胃の痛む恐怖がなくなったのは嬉しい」というようなコメントをしていることからもうかがえます(彼にとっては恐怖だったのかもしれないが、ザッパにとっては「あいつならこんなことができるかも」という、一人のアーティストの可能性の開拓でもあったはずです)。

この「Freak Out!」、リードボーカリストはレイ・コリンズです。ザッパはボーカルも取っていますが、ギタリスト、そしてオーケストラの指揮者としての役割が主と言えるでしょう。

その、ザッパがリードボーカルを取っている曲”Trouble Every Day”。

この曲はワッツ暴動にインスピレーションを受けて作られており、2番の歌詞冒頭”Wednesday I watched the riot”は、1965年8月11日が水曜日であったこととも符合しています。そして2番のサビ前の歌詞、”To stomp and smash and bash and crash and slash and bust and burn”は小気味好く韻を踏んでいて鋭い切れ味です。これをN.W.A. “Fuck Tha Police”の先駆と言ってしまうのはあまりに安直ですが、ザッパの「メロディの起伏が平坦で言葉は前後に伸縮している歌い方」は、既にヒップホップ的なフロウ感を漂わせています。

ザッパはその後、様々な実験的な作品を、ポップミュージックの境界を行ったり来たり(つまりはストラヴィンスキー、ヴァレーズ的世界へ踏み込んだりも)しながら活動を続けます(これは晩年まで継続しますが、ポピュラー音楽の制作は88年で終わり、以後、シンクラヴィアをメインツールとした現代音楽に集中することになります)が、歌ものからは次第に遠ざかり、ボーカルが必要な時はレイ・コリンズにほぼ任せています。そのレイ・コリンズが68年に脱退し、69年に一旦The Mothers of Inventionを解散させると、次に元Turtlesのハワード・ケイラン、マーク・ヴォルマンという二人のボーカリストをフロントに据えます。歌唱力もありステージパフォーマンスにも長けて、当時人気もあった二人によってザッパが歌う機会はさらに減り、ほぼ曲中での語りのパートなどでしか声が聞けなくなります。この時期に製作した映画「200 Motels」で彼が一言も発していないのは象徴的とも言えます(代わりに「フランク・ザッパ役」のリンゴ・スターが喋ってますが、これも登場回数はさほど多くありません)。

転機は、意外な形で訪れます。71年、ステージ上で演奏するザッパを、観客の一人がステージ下に突き落とすという事件が発生。ザッパは全身複雑骨折の重症。この事件が12月10日。約1週間前の12月4日には、Deep Purple “Smoke on the Water”で有名な火災事故によって機材を全焼してしまっているので、まさに弱り目に祟り目。ザッパはマザーズ時代からメンバーに給料を払ってバンドを運営していたので、当然バンドも解散。ライブアルバムをリリースして糊口を凌ぎながら、静養中にジャズ・ロックのビッグバンドを構想します。

さて、先に書いた「転機」とは、この「ジャズ・ロックのビッグバンド」のことではありません。ザッパはステージ事故から生還した際、自分がそれまでと比べて高い声が出なくなり、声が低くなっていることに気がつきます。ボーカリストとして声域が下がってしまうのはダメージとなる場合が多かろうと思いますが、彼はここから自己流のボーカルスタイルを確立していくのです。

73年、2枚のジャズ・ロック・アルバムを経て発表した全編歌もののロック・アルバム「Over-Nite Sensation」は、1曲を除いて全てザッパがメインボーカルを取ります。高いキーが必要なパートはゲスト・ボーカリストやバッキング・ボーカルに完全に任せてしまいます(そのバッキング・ボーカルにはティナ・ターナー&ジ・アイケッツも参加しています)。つまり自分は低い声しか出ないということを客観的に捉えた上で、自分の声を生かすための最良の方法を模索し、この作品に結実したというわけです。彼のプロデュース力が、自分自身にさえ発揮された瞬間です。

折しも、退院以降スタジオワークによる作品作りに本腰を入れていた時期でもあり、彼の全キャリア中でジャズ・ロック期から75年あたりまでが録音のクオリティが最も優秀ですが、当時のファンク的な分離の効いたクリアでタイトな音質の中で、ザッパのねちっこいバリトンのボーカルがリップノイズが聴こえるほどど真ん中で鳴っているのは、ラップ的とも言えます。

とは言え久々の歌物ロックということからか、ザッパはそれなりにポップアルバムを意識したようで、しっかりと歌っています。メロディの起伏も展開もメロディアスなんですが、ところどころでつぶやくように語り出し、不穏なムードを作り出しています。中でもヒップホップ的なのが、この”Dinah-Moe Humm”の間奏での語りです。

ところどころコーラスと掛け合いをしながら卑猥な話をひたすら語っているんですが、このリズム感、言葉のチョイスがラッパー的な気持ち良さに共通してると思うんです。”Dinah-Moe watched from the edge of the bed”というくだりのなんと格好良いことか。

そして翌74年、ザッパのキャリア中最高のラップアルバムとも言える「Apostrophe (‘)」がリリースされます。ボーカルはさらにリバーブ感が薄れ、ダイレクトにリリーックが飛んできます。1曲目”Don’t Eat the Yellow Snow”では、ラストに”Watch out where the huskies go, and don’t you eat that yellow snow”という強烈なライムが出てきます。

“Cosmik Debris”では、冒頭の”And he said “I’m outta sight!””と”I could reach nirvana tonight”で踏んでるところがグッと来ます。

そしてアルバム最後の”Stink-Foot”。ブルースだと思って聴けばブルースなんですが、ブルースのサンプリングをバックにラップを乗せていると思って聴くと、もうそうとしか聴こえません。

“Out through the night and the whispering breezes to the place where they keep the Imaginary Diseases”や”python boot is too tight I couldn’t get it off last night”の踏み方を聴いてると、万が一これを当時ブロンクスのラッパーが聴いてたとしても、真似してたらオールドスクールのラップなんてとっくに飛び越えてただろ、というクオリティだと思います(アフリカ・バンバータが「ヒップホップ」と呼称したのがこの年の11月で、ヒップホップに括られるラップ、DJ、ブレイクダンス、グラフィティの文化は70年代初頭からあったと言われています)。

ここからラッパーとしての才能を開花していく……のかというとそんなわけもなく(だって当人にそんな自覚はないし、そもそもラップのレコードが初めてリリースされるのはこの5年後なので)、再びボーカルを分担するようになり、音楽性も器楽の高度さに磨きをかけていくようになります。しかし、ザッパのラッパーとしての未来はここで潰えたわけではありません(いや、そんなものそもそもないんですが)。ザッパは活動初期からライブ演奏をできる限り録音していて、ことあるごとにライブアルバムをリリースしていました。時にスタジオ録音とライブ録音の境目がなくなるこのスタイルは、ライブ録音が初出でスタジオ録音がない曲を徐々に生み出していきます。そして、ライブでのノリが、彼のボーカルをフロウさせるには絶好の要素だということが垣間見えて来ます。

死後にリリースされた作品ですが、76年のライブ音源「Philly ’76」に”Stranded in the Jungle”のカバーが入っています。まずは56年The Cadetsのバージョン。

続いて73年New York Dollsのバージョン。

そして我らがフランク・ザッパ。
https://youtu.be/OUVmlHQ71aw?t=56m38s
こうやって比較すると、ザッパのフロウ感が傑出しているのがご理解いただけるのではないでしょうか。

もうひとつ、ザッパのR&B趣味がヒップホップ的なベクトルに発揮された最高の例として、”Cocksuckers’ Ball”を。まずはThe Cloversバージョン。

卑猥な単語の連発で、おそらく当時のノベルティソング的なもの(日本で言うつボイノリオ”金太の大冒険”のような)だったと思うんですが、そもそも卑猥な単語連発なザッパの世界とマッチした上にヒップホップ的なノリとも相性が良く、84年「Does Humor Belong in Music?」に痛快なカバーバージョンが収録されています。

次は、78年リリース、「Zappa in New York」より”Honey, Don’t You Want a Man Like Me?”。

少し話が逸れますが、79年リリース、「Sheik Yerbouti」収録の”Flakes”では、エイドリアン・ブリューによるボブ・ディランの声帯模写が出てきます(ライブ音源を元に大量にオーバーダビングされているそうです)。

これを聴けば、「語るように歌えばヒップホップっぽくなる」なんてことはなく、ザッパの歌が特にラップの表現に近いということが分かってもらえるのではないでしょうか。この曲はあまりラップ要素は強くないですが、後半の”I’m a moron ‘n’ this is my wife”から続く声色を変えたくだりは十分にヒップホップなのではないでしょうか。

あと、ザッパはライブ中に超尺のMCを挟むことが多いですが、いわゆる「ザッパ・スクール」体制以降のライブは、本編中に曲間を空けず、MCも演奏をバックに続けるスタイルが主流になりました。それによって、「演奏をバックに喋る=ラップ」っぽくなる瞬間もあり。ということで、以下は代表的な超尺喋り、映画「Baby Snakes」と1992年リリース「You Can’t Do That On Stage Anymore Vol. 6」に収録された”The Poodle Lecture”。

バックトラックは”Stink-Foot”で、同曲演奏後にこの語りが続くというパターンが70年代中期から後期まで頻繁に登場していました。

そして、ザッパ史上最もヒップホップしている演奏が、1997年(ザッパの死去から4年後)リリースのベスト盤「Have I Offended Someone?」に収録の“Dumb All Over”。

同曲は1981年リリース「You Are What You Is」が初出、1988年リリース「You Can’t Do That On Stage Anymore Vol. 1」にも別のライブテイクが収録されていますが、このテイクが最もヒップホップ的です。バッキングボーカルの合いの手のタイミング、リズム隊とのシンクロ率も100%の完璧な瞬間が凝縮されています。歌詞の中に“TO ARMS, TO ARMS”というくだりが出てきますが、ARMSは武器と腕のダブルミーニングで、二度目に出てくるところは、歌詞を見ると“TWO ARMS”となっています。

そんな感じで独自醸成されていったザッパのヒップホップ要素ですが、80年代には本流のヒップホップがオーバーグラウンドに台頭してゆき、ラップやDJが一般に認知されるようになりました。そうなると、ザッパ自身も「自覚的に」ヒップホップに接近することとなり、88年「Broadway Broadway The Hard Way」に”Promiscuous”という曲が収録されるに至ります。

ここではザッパではなくアイク・ウィリスが歌っており、ラップのスタイルもいかにもこの時代らしい、拍の表に言葉を合わせていくような歌い方なので、しかもスクラッチ音までもサンプリングされてしまっているので、今聴くとちょっと白けてしまうクオリティです。ザッパ自身のライブ活動は、この作品に収録されている88年のツアーが最後になります(作品の制作・発表は死の直前まで行われ、膨大なアーカイブは遺族の元、今もなおリリースが続いています)が、ラッパーとしてのザッパの時代は、既に終わっていたといって良いでしょう。

以上、フランク・ザッパから感じるヒップホップスタイルについて書いてみました。ヒップホップは好きだけどザッパは聴いたことがないという人、ザッパの音楽は小難しそう、と思い込んでる人、昔はザッパも好きだったけど最近全然聴いてない人、などなど、が、この記事にたどり着くかどうか疑問ですが、そんな人がザッパの世界に一歩踏み出すきっかけにでもなれば幸いです。とりあえずヒップホップファンには「Apostrophe (‘)」をお薦めしておきます。

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