「これからの広告」として考える「ショールーミング」から「ウェブルーミング」

「オーケー、認めよう。広告はもはや「嫌われもの」なのだ — LINE 田端信太郎」

記事タイトルに“田端信太郎”とあると「あーまたポジショントークかなー」と正直うんざりしつつ、読むとやっぱりそうで、でもLINE全くと言っていいほど使わない僕にも「そうそう、もっと言ってやってよ」と思えるような、特に広告についての発言が多いという印象の方。今回始まった連載コラムの記事も、一本目から「広告が嫌われ者なんて、僕が子供の頃からそうだったし、あなた私と同い年だからわかるんじゃないの」と、煽り気味なタイトルに眉をしかめつつも、読み進めると後半にパンチラインが待っていました。

「筆者は「広告」の意味を再定義する。そして拡張するべきだと思っている」という、(まあよくあるっちゃあある)広告はそのあり方を新たに獲得しなければならない、というような前段から、昨年末にAmazon Dashボタンを購入した実体験からのインスピレーションへとつないでいます。

家にAmazon Dashボタンが届き、冷蔵庫に貼り付けた。Amazon Dashのボタン上には、当然のことながら、その商品のロゴ(筆者の場合は、ウィルキンソンの赤いロゴ)が表示されている。

それをみてハタと気づいたのだ。なんだ、Amazon Dashって最新かつ最善の広告フォーマットの2016年12月Versionではないか、と。

「広告」は「個告」になる、などという言い方は、それこそ10年以上前によく目にした表現で、確かな「マス」の存在が崩壊してしまったからには、個別のコミュニケーションの時代に入ったのだ、と言われて久しいです。梅田望夫「ウェブ進化論」がヒットし、「Web 2.0」の概念が一般的になった頃でしょうか。

しかしその後の約10年、結局広告は従来通りの広告でしかなく、技術の進歩によってその手法は多様化しているものの、今もなお「嫌われもの」だった頃の広告と何も変わらず、むしろよりダメになっているケースも少なくありません。ターゲティングしているはずのYouTube広告は、今の所誰かからお金を借りる予定のない僕に消費者金融の広告ばかり繰り返し見せるし、スキップしようと思ったらスキップボタンに企業ページへのリンクが重なっていることすらある。スマホで、企業がプラットフォームを提供している無料ブログを開けば、不穏な漫画や子供に見せられないようなあられもない画像が、フリックする指にミスタッチされることを手ぐすね引いて待っており(それが結局記事中にある「アドブロックアプリの大ヒットにつながるという間抜けさ」)、無料でコンテンツを消費するために強いられる「我慢」の質が、ただでは済まないほど悪質なものになってきています。テレビではガラケーしか使えない(使う気もない)母にスマホゲームのCMを垂れ流しているし、僕が23時頃にビジネスニュースを見ようとしたらレゴブロックの、しかもマインドストームとかではなく、警察署セットみたいな男の子向けの商品のCMが流れ、一瞬ゴールデンタイムにうる星やつらがやっていた時代がフラッシュバックしてしまうような現象すら起きています。ネットはビッグデータだのマーケティングオートメーションだの言っておきながら「メディア」「スペース」の枠に居座ったままで、テレビは資金繰りにあえいでいる様子がダダ漏れになってしまっている体たらく。それでいて今もメディアの王様はテレビで、ネットの話題の中心はあくまでも「テレビで今人気の有名人の情報」に終始しているので、10年かけてあらゆるものが劣化しているようにすら感じます。

そこで「「広告」の意味を再定義する。そして拡張する」「Amazon Dash=最新かつ最善の広告フォーマット」という田端氏の気づき。本コラムで氏はこう結論づけます。

これからの広告は、欲望を喚起させるのでなく、欲望を充足させるものになるべきだ。そして欲望は、広告が一方的に作り出すのでなく、消費者が主体的に感じるべきものだ。

そして熱狂は、満たされなかった欲望、抑圧が解放されるときに、消費者が結果として感じるべきものであり、広告業界が一方的に熱狂を創り出せると思っているのなら、それは大きな勘違いなのだ。

広告の思い上がりや、その影響力を過信している人たちの鼻をへし折る容赦ない発言です。広告主や広告制作者が「仕掛ける」ことに対して否定的で、消費者が求めるその瞬間に必要最低限の情報を発信すれば良い、つまりニーズを先読みしたり、潮目を読んで「今あなたが欲しいのはこれでしょ」と提案することに対して「ウザいからやめろ」と言っているわけです。そのフォーマットとして、Amazon Dashのように消費者が必要なものを予め決め、消費者側の欲求として、自宅内の特等席に掲示するようなものを“最新・最善の広告”としているわけです。

「広告」と言ってしまうと、その字面から誤解を生んでしまいますが(これは「音楽」にも言えることですね。別に音楽には「音を楽しむ」要素しかないわけではありません)、「Advertise」から引ける別の言葉としての“宣伝”の方が、こうなってくるとまだ近いかもしれません。ただ、自宅の冷蔵庫に貼ってあるDashボタンが広い範囲に伝えるものではないとはいえ、これが世界中に何万と広がっているのだとすれば、それは総合すればやはり「広告」であり、氏はこれをもって、「「広告」の意味を再定義する。そして拡張する」と言っているのだろうと思います。「広告」的なフォーマットに対する認識を改め、それまでの「広告」の常識とは思えない仕組みを使いながら、その実、結局は「広告」の目指した結果を導く仕組みであり、より消費者目線で、その欲求に応えたものである、と。

こうなると、「広告」はメディアと無関係に、「広告」のみで「広告」たり得るわけですが、今それに近い状況なのは、動画サイトで「広告」としてではなく、「コンテンツ」として配信されている「広告」です。つまり、スペースとしては例えばYouTubeという「メディア」と結びついてはいますが、そこではYouTubeが規定している「広告」としての「枠」がありながらその「外」にある、本来「広告」の対象となる「コンテンツ」と同列に配信されています。ここで消費者には、「好きなCMを能動的に選んで見る」という行為が生まれます。

さて、ではその時、「広告」は本当に「広告」として機能しているのでしょうか。

YouTube動画には、消費者に娯楽を提供するコンテンツという体裁で、その中に自社商品の啓蒙やブランドイメージの刷り込みを付加することで、店頭などで商品を連想する率を上げたり、競合商品が横並びで販売されている際に選択する可能性を上げるなどの効果を生み出すことができるかもしれません。しかしDashボタンには「特定の商品を買う」機能しかなく、これが「広告」だとすると、この「前段」(つまり記事の例だと、ウィルキンソンの炭酸水を知らしめる宣伝行為)が存在しないことになります。

おそらく田端氏は、ウィルキンソンの炭酸水の存在を「広告」で知ってから購入するようになったのではなく、「店頭で探していてなんとなく買ってみたら美味しかったのでリピーターになった」か「口コミで勧められたのをきっかけに購入して以降この銘柄しか選んでいない」かのどちらかではないかと推測しますが、ポイントは、いずれにしても「購入動機に広告は初めから介在しない」ということです。

この場合の炭酸水であれば、昔から存在する商品カテゴリーで、使用目的もそれほど大きく違いのないものですので、恐らくこのような購入ルートで支障はないでしょう。でも今までにあるものではなく、目的も王道のようなものでない場合、例えば、「家の敷地の庭木が一本だけ隣家に侵入してしまい、迷惑をかけないように整えたいが、植木職人に頼んで美しくしてもらう必要はなくて、ただ迷惑をかけないようにだけして欲しい」というニーズについて、この最新型の広告は機能するのでしょうか。

この例は、ちょうど今日の日経MJに載っていたコラムのもので、「oh庭ya」という植木屋が、そういった消費者のニッチな要望も拾い上げることのできる対応力で、成熟した植木業界で業績を伸ばしているとのことでした。

「oh庭ya」はテレビCMも行い、画像検索をすると、ネット広告らしきものも目に付きます。さてこのようなマッチングが、広告なしで可能でしょうか。田端氏の答えは、そして多くのネットリテラシーの高い人たちの答えは「イエス」でしょう。検索すれば、もしくはSNSで質問を投げれば、自ずと答えにたどり着き、このようなニッチなニーズを抱えている人に対して広告が到達するよりも早く知ることができるかと思います。

でもネットリテラシーの高くない人にとっては、旧来の広告の仕組みが効くことになるでしょう。しかし旧来の広告の仕組みが効く人たちは、スマホを持たず、テレビが好きで、CMに感化されて買い物をすることもあり、広告を「嫌われもの」だと思っていない人(=今年70歳になったうちの母親です)たちです。ということは、今後10年、20年程度ならまだ旧来の広告の仕組みは効果があるかもしれませんが、その頃、大きなシェアを握っている広告は、Dashボタンのように「再定義/拡張された広告」である可能性が高いということになるでしょう。

それまでに、あらゆる広告代理店は新たな広告フォーマットを生み出さなければならないのか、もしくはあらゆる企業は新たな広告フォーマットに対応するか、新たな広告フォーマットを生み出さなければならないのか。

今、新たな広告フォーマットとして、Google HomeやAmazon Echoのような音声アシスタントデバイスが担う可能性は示唆されていますが、それは例えば「お昼ご飯なにがいいと思う?」と問いかけると「(広告入札額の最も高いファストフード店)がオススメですよ。デリバリーの電話番号は……」と案内してくれるという、またもや「嫌われもの」の仲間入りをするしかないパターンです。

しかし新しくないものでも、「消費者が主体的に感じる」「欲望を充足させるもの」はあるのではないでしょうか。

なんのひねりもなく、当たり前すぎて書くのも恥ずかしいですが、それは「実店舗」です。

Dashボタンの良いところは、それが物理ボタンだというところです。「Dashボタンアプリ」を出せば済んでしまいそうなものを、フィジカルなもので、あまり融通の利かないものに落とし込んでしまったところに強さがあります。一方で欠点は「面白くない」ところです。何度押しても同じものしか届かないし、買い物の快楽やワクワク感、意外性や驚きが一切排除されているので、ものすごく合理的です。合理的なのに今時物理ボタンという非合理性、というギャップは、ちょっと面白いところですが。

Amazonでの買い物は、目的が目的通りに果たせる一方で、ある種の「ガッカリ感」が伴います。それは、毎回オーダー通りのものが、それ以上でも以下でもなく届くからです。当たり前の話ですが、全く同じものを実店舗で買うと、店頭で手にとって考える瞬間、レジで包装してもらうのを見ながらワクワクする瞬間、帰路で重みを感じながら、包装を解きたい衝動と戦う瞬間を経て、帰宅後いよいよ開封、となるので、結構満足度が高まります。それがAmazonだと、プロセスをショートカットされて突然モノだけ届いてしまうような唐突感すら感じるのです。

実はこれは、Amazonでもマーケットプレイスで購入すると、若干事情が違います。去年マーケットプレイスで購入した本は、開封してパラパラとめくってみると、しおりのような紙が一枚挟まっていました。しかしよく見るとそれは地元の居酒屋と思しきお店の割引券。おそらく元の持ち主がしおり代わりに使っていてそのまま忘れてしまっていたのだろうと思いますが、こういう不可抗力のようなものが、結構満足度を上げてくれたりすることがあります。これは前回記事「観光客の哲学」はさまざまな閉塞感に対して「応用」できる(という誤解≒誤配)の「誤配」という考え方ともつながっているかも知れません。

なにが言いたいかというと、「実店舗」というのは、様々な商品が並び、消費者の目的と合致するか否かは出たとこ勝負のようなところも含めて、既に「広告」だという、まるで当たり前の話です。もう一度前回記事と関連付けると、ウィンドウショッピング、ショールーミングは「観光客の哲学」でもショッピングモールを題材に取り上げている通り「観光」のひとつの形です。しかし当たり前のことでありながら、ショッピングモールもリアル書店も百貨店も大型家電量販店もドラッグストアも、かなり苦しい時代です。今それらの機能はコンビニに集約されていますが、コンビニは実店舗でありながら限りなくネットショッピングに近い経営ですので、Dashボタンの合理性と大差がありません。

問題のひとつとして、ショールーミングによって買い物が完結してしまうことがあります(これを逆手にとって、店舗に在庫を置かず、見本の横にタブレット端末を置き、その場で購入手続きを行うなどの施策をしている家具メーカーもアメリカにはあります)が、一方で、昨今取りざたされている流通業のキャパオーバー問題も解決しなければなりません。これは、消費者が現場での実体験をその場で還元しない上に、市場に対して過度なサービスを要求している、とも取れます。そして、Dashボタンという「最新かつ最善の広告フォーマット」ではどちらの問題も解決できません。広告はこれらの問題を解決するためのものではありませんが、「これからの広告」を考えるのであれば、サステナビリティは非常に重要です。Dashボタンはその点、焼畑農業的で、持続性(サービス単体として、ではなく)を考慮しているとは思えません。

解決方法は、(言葉の上では)とても簡単です。消費者の行動を転回してしまえばいいわけです。実店舗で閲覧し、ネットで購入する行為をショールーミングと言いますが、ネットで閲覧し、実店舗で購入する行為は「ウェブルーミング」と言います。僕はこの「ウェブルーミング」をする消費者が鍵なんじゃないかと思うんですが、ショッピングモールもリアル書店も百貨店も大型家電量販店もドラッグストアも、「ウェブルーミング」の場にしてしまえばいいのではないでしょうか。

いわゆるマス広告の費用対効果については、ずっと以前から問題視されていて、広告予算を店頭プロモーションに振り分けるという現象もありました。店頭で実物に触れることで理解を促進し、好感度を上げ、購入を促す施策は様々な試行錯誤が重ねられてきています。しかし「ウェブルーミング」という前提で、各メーカーだけでなく、店舗全体の思想も含めて対応した形でのあり方というのは、まだこれからなのではないかと思います。

ウェブで商品を知った消費者が、「店頭で買いたい」と思わせるアプローチ。そこには当然、ウェブで出会わなかった商品も並んでいて、思いもよらない自分のニーズや気づきも生まれます。

こう書くと、現在の実店舗の機能とあまり差がないようにも感じます。しかし、「ウェブルーミング」を促進する方法は、現在の実店舗のあり方をそのまま継続することではありません。「ウェブルーミング」を行う消費者は既に知識や情報を集め、足りない部分を補完するために店舗を訪れます。そのニーズを満たさなければ、「実店舗で見ても意味がなかった」と手ぶらで帰宅してしまいます。現在の実店舗を巡っていると、正直、そういう体験が少なからずあります。「ウェブルーミング」を前提とすると、店頭で小さなモニターを設置してCM映像をループ再生していることも、考え直す余地があるかも知れません。すでにYouTubeなどでCMや解説映像を見てきた消費者に、同じ映像を見せて意味があるのか。

消費者の多くは、そこまでネットリテラシーの高い人たちではないでしょう。しかし、現在実店舗がその規模を維持することに大変な苦労をしているならば、膨大に膨らんだネット通販を「消費者に満足感を与える形で」取り返さなければならないのではないでしょうか。

検索は万能ではありません。ネット上の情報は、誰もが知りたいことに関しては、特にIT系の情報に関しては、膨大に揃っています。それは、知りたい人が多い上に、知ってる人も多く、それについて文章化し、ブログなりにアップするリテラシーの持ち主も多いからです(例:iPhoneについて)。しかし、あまり多くの人が興味を持っておらず、結構昔の話で、知ってる人も少ない上、それをわざわざ文章化し、ブログなりにアップするリテラシーもないようなことに関しては、キーワードの絞り込みからして相当難易度が高くなります(例:家庭用ハイファイアンプを最初に商品化したメーカーについて)。万能のように見えて、ネットを中心にした購買行為は、非常に狭い視野で商品選定してしまっている可能性が高いです。その時、「嫌われもの」となった「広告」の役割は、その狭まった視野を拡張する「実店舗」という、リアルで偶然性の溢れた現場が担うのではないかと思うのです。それは、氏の結論にある「欲望を喚起させるのでなく、欲望を充足させるもの」であり、「一方的に作り出すのでなく、消費者が主体的に感じるべきもの」として、私たちの前に堂々と屹立しているのです。

以上、田端氏のコラムのフレーズから連想し、妄想を膨らましながら、「これからの広告」について考えてみました。
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