「ブッダと法然」――念仏の理由と「他力本願」、そして21世紀における仏教の意義

ここ数年、毎年のように身内の不幸が続き、当事者として葬儀の席に足を運ぶことが多い昨今です。ググったら去年が本厄だったので、思い当たることがあり過ぎて一瞬「厄払い」という言葉が脳裏をよぎりました(一瞬だけですが)。

数年前、父が他界した際には、父、そして残された母の考えの元、ごくごく小さな家族葬だけで済ませ、お寺にもお坊さんにもまったくお世話になることなく、遺灰も未だ自宅に置いてある状況です。子供の頃、人が死んだら坊さんが来てお経をあげるのが避けて通れない決まり事だと思い込んでいたので、宗教一切を信じない父と母が死んだときにはどうすればいいのだろうと思い悩んでいましたが、答はお経を上げてもらうよりもはるかに簡単(しかも安価)でした。母の時も同じようにしよう、と母とも父の死後話しました。

ここ数年、仏教の本と言えば、日本に伝来し、紆余曲折を経て今の形になった仏教ではなく、そのルーツになるような原始仏教やブッダについての本しか読んでいなかった僕は、「今、自分たちの生活の中で断片的に関わりを持っている仏教って変じゃないの」というイメージを補完するための情報、つまり「ほら、ブッダの言ってたことからしたら、今の仏教は全然違うじゃないか」という理由ばかりを集めていたように思います。ブッダの言葉に得心するとともに、仏教に移入できない自分を肯定したかった、というような心理。

そこ(つまり今の日本の仏教は可笑しい、という考え)にあまり疑問を持たずに過ごしてきたのですが、去年、「もしかすると、僕は大変な誤解をしているのかも」と思うきっかけがありました。きっかけとなったのは、僕の義理の弟の死に顔でした。

ある病気で突然倒れ、意識を失ったまま数十日の闘病生活の後、この世を去った義弟。病院から彼の自宅へ搬送されたその姿は、生前の精悍な顔立ちが嘘のように黒ずみ、むくみ切っていました。「別人のように顔が変わってしまった」と言われたその顔を初めて見た時、辛く長い病との格闘の壮絶さに胸が痛みつつも、それとは別に、不思議な感情が沸き上がってきました。

その表情が、とても穏やかで、落ち着いていて、美しくて、醜美を飛び越えて、思わずその顔に引き込まれてしまったのです。

「死んだら仏様になる」とは、このことなのか。と、思わずハッとしました。あらゆる欲から完全に解放され、あらゆる拘りも放棄し、迷いも情も何からも絡めとられない、悟りの境地。彼の表情からは、そんな圧倒的な「成仏」のイメージを受けました。

死後仏様になって云々など馬鹿馬鹿しい、と思っていたのが、「一理あるんじゃないか」と思い始め、それから、彼の葬儀で詠まれた阿弥陀経、そしてお坊さんがお経のを読んだ後に話されていた話の中に繰り返し登場した「他力本願」という言葉が気になり、書店で阿弥陀経の現代語訳された者を立ち読みしてみたり、関連書籍をパラパラと見ていた流れで、この「ブッダと法然」に辿り着きました。

タイトルのとおり、ブッダ、法然という、時代も役割も大きく異なる二人を比較しながら話が進んでいて、さながら以前読んだ「釈迦とイエス」なのですが、釈迦とイエスだと、互いに別々の宗教の始祖となりますが、ブッダと法然だと方や始祖、方やその宗教の中の歴史の一部なので、やや広告的で強引な見せ方をしていると感じるところもありますが、仏教に無知な自分にとっては分かりやすくなっていると感じました。

疑問を解消してくれたのは、念仏を称えることで、地位も名誉も出家も在家も関係無く、誰もが救われるという法然の教え。つまりそれが、自身で悟りを拓くのではなく、阿弥陀如来の力によって救ってもらう「他力本願」である、ということ。なるほど、仏教があまねく世界の人々を救うことが使命ならば、そこには在家云々を越えて、「救われたい」と思う人なら誰もが救われる道を用意するのは当然とも思えます。

そして、膝を打ったのは、開祖であるブッダは自分自身の教えを厳格に守れとは言っておらず、むしろ自分で考え、行動することを良しとし、不要となれば自身の教えも捨てよとまで言っていたこと。著者はそのことから、本書の最後を締める形で、仏教は時代に合わせて変わっていかなければならないと断言しています。紀元前インドにおいて有効であった考え方や教えが、2000年以上経過した今も通用するとは端から思っておらず、法然の時代なら法然の時代に最も有効な考え方、21世紀の今なら、現代の人々を救うことのできる最適な仏教のあり方があるはず。そのためには規則や因習にとらわれて変化しなくなっては仏教は機能しなくなり、この世での役割を終えてしまう。

この視点は僕にとっては完全に盲点でした。原始仏教から乖離したと見えた仏教が、時代に沿う形で変化してきたことが、そもそもブッダの教えの上にあり、仏教の使命でもあること、そしてそれが今なお継続できているのかという問題提起。疑問は晴れ、さらにその先の問題点まで明るみにする最後の展開に、自分の周りの出来事と交差させながら大きく視界が開けたような気分になりました。

現代における仏教行事のありようは、IT技術や土地の問題など、様々な要因で、思想とは別の意味で変化を余儀なくされていますが、「遺灰をゆうパックで送る」云々も含めて、こんな世の中で仏教に何ができるのか。「今こそ法然のような求道者が求められる」のではなく、根本から仏教、もしくは宗教そのものを、今日的な技術や知恵で定義し直さなければいけないのかも知れません。

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