クラシック聴いてたら何故か維摩経の本読んでました

2〜3年ほど前からクラシック音楽を本腰入れて聴くようになってきました。ポピュラー音楽みたいにのべつまくなしに「新譜最高傑作絶対聴け」と煽って来ないので、のんびり色々聴いてます。

「のんびり色々」とは言え、クラシック音楽は言わば「考古学」で、数百年単位で「この時代はこんな楽器でこんなお客さんの前でこんな風に演奏してた“らしい”」
というような研究結果の上に成り立っているようなところも多く、ただスピーカーやホ―ルで鳴ってる音を漫然と聴いていてもピンと来ない場合が多かったりします。

そのためには聴くだけではなく、その研究や作曲当時の時代背景などの歴史、楽曲に込められた様々な意図を説いてくれるような文献が手がかりとなります。

つまらない本から何度も読み返したくなるような素晴らしい本(現に、次の新しい本を買う余裕が無い時はそんな本を何度か読み返してます)まで色々ありますが、そうなってくると、毎日の限られた時間で「のんびり色々」と聴いてるわけにもいかなくなるので、もう少し聴くものを絞ろう。ということで、取っ付きやすいモーツァルト、そして「音楽の父」と学校でも教わったJ.S.バッハを中心に聴くようになりました。礒山雅氏の「モーツァルト」「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」はその際、大変面白く、興味深く読ませていただきました。

そんななかでやはりバッハとくれば「教会音楽」という壁にぶつかります。「教会音楽を聴かずしてバッハを聴いたことにはならない」と、グールドの平均律やゴルトベルクに鳥肌を立てている僕に冷や水を浴びせる現実。最初この「教会音楽」の良さがさっぱり分からなかったんですが、やはりこれはその音楽の成り立ちに触れないと分からないんだろうということで、とりあえず新約聖書を読んでみることにしました。

ただ、新約聖書が「面白く読むにはなかなかきつい」本であることは、少年時代に学校の前で誰か(って信者の方でしょうけど)が配っていた新約聖書をペラペラめくって、とりあえず黙示録のかっこ良さそうなところと「666」が出てくるところだけ確認して放置した経験からなんとなく分かっていたので、先に阿刀田高著新約聖書を知っていますかを読んで予習をすることにしました。これがすこぶる面白い上に、今まで「謎のベストセラー」だった新約聖書の実態がみるみる分かってきて、その勢いでネットからePub版を落とし、Kindle(日本語版が出る以前のいわゆる第4世代)に突っ込んで読み進めました。Kindleを購入して約3年。これほどKindleが便利だと思ったのは初めてでした。持ち運びが楽なのは勿論、ページ数が分かりづらいことが、かえって読み進めるストレスを軽減してくれて、なんとか読了。その後、教会音楽の聴こえ方はすっかり変わりました。今ではiPhoneに教会カンタータ全集をちょっとずつ入れて聴き進める日々です。

教会音楽の多くは新約聖書を元に作られていますが、当然旧約も出てくるので、今度は旧約聖書を知っていますかに手を付けたんですが……。まあ、阿刀田氏の文章は同じく面白いんですが、内容的に旧約が新約ほど共感したり得心するような場面があまり無く、読了後も旧約はKindleに入れたまま、まだ1ページも進んでいません。

旧約と新約の違いって何かと言うと、仏教で言う小乗と大乗に似てるんですよね、という風なことが書かれている本を、この頃、聖書に関する本を図書館で見つけました。それが「釈迦とイエス」という本。釈迦と言えば手塚治虫の「ブッダ」でその生涯に触れたという程度でしたから、キリスト教同様、仏教についてもやはり何も知らないという状況に、何となく知識欲のようなものがうずき、「釈迦とイエス」の中で簡単に触れられていた「縁起の理法」に着いての本を探してみました。仏教用語で言う「縁起」は因果関係のようなことらしいですが、要するに細野さんの名言「人間、練習すれば間違える。計画すると失敗する。覚えていると忘れる。生きていると、死んじゃう」的なことでしょうか。兎も角、Amazonで「縁起の理法」を検索してみて引っかかった本が、本記事のタイトルにある「維摩経」というお経について解説された「維摩経講話」でした。

カートに入れてからしばらく放置し、実際に購入したころにはこの本をカートに入れた理由も忘れてしまっていたんですが、読了後振り返ってみると、縁起について特に追求された本ではありませんでした。が、そんなことはさておき、ものすごく面白い本でびっくり。

「維摩経講話」は「維摩経」という大乗仏教の経典についての講話で、維摩居士という在家の信者(つまり出家していない、しかもお金持ち)が主役。しかも全編ストーリー仕立てになっていて、説法を交えながら驚天動地の大スペクタクルを展開するSF小説みたいになってます。但し、実写化不可能。家の中に巨大な椅子が大量に出現しても部屋は全く狭くならないし家も大きくならない、という物理法則の通用しないシーンばかりなので、いくらCGの技術が進化しても追いつきようがありません。荒唐無稽に思えなくもないですが、そういえば「お米のひとつぶひとつぶに神様が宿ってる」なんて言いますから、実は馴染みのある表現とも思えます。

観音菩薩は「“音”を“観る”」ことによって「観音様……」と手を合わせて名前を呼べば時空を超えて一瞬にして目の前に現れる、という表現も、「宇宙家族カールビンソン」のお父さん的にも思えますが、祈る人のその心の中に浮かび上がれば正にそれが「一瞬にして目の前に現れ」ているわけですから、そう破天荒な話でもなかったりします。

このように時間や大きさを超越できるのは、時間や大きさに縛られないからですが、
それに限らず、浄と不浄、取と捨、主と客など、対立していると思われる二つの関係などにも縛られず、果ては仏の教えや菩薩、“空”ということにすら縛られてはならない、としているところに、仏教の人生哲学の彼岸を見るような気がします。維摩経では男女を分けることへの戒め、今で言う男女平等の考えも盛り込まれていて、時代の先駆的なところも垣間見れるわけですが、ここまで尖った考えに至っていれば、さもありなんという気がします。

しかも“縛られない”生き方を、山に籠って一人その境地に至ることについてはきっぱり否定してしまっているのがまた驚き。出家した人たち、いわゆるお坊さんは、我々のように毎朝会社に出勤して給料をもらって生活しているわけではないのですが、在家である維摩居士は在家の信者なので、雑念渦巻く社会の中で生きる者がその苦しみから解放される方法を説いている、それどころか、山奥に籠って座禅組んでたって悟りの境地には辿り着けない、ノイズに塗れた地べたを這いずり回ってこそ見つけられるのだ、とまで言っているわけで、当時この教えが在家の庶民にはさぞ心強いものだったのではないでしょうか。

自分だけが悟ってしまえばいいという“自利”が小乗仏教、生きとし生けるものを苦しみから救うことを目指す“他利”が大乗仏教で、ブッダの生前は小乗しか無く、しかし晩年のブッダは在家の信者との交流を深め、考え方は徐々に大乗の“他利”へと移行していたのでは、というのが前述の「釈迦とイエス」での考えでした。そして、これを聖書の旧約と新約に当てはめると、旧約はユダヤ人のみを救う教え、新約は人種を超えて救う教えということで、つまりそこが、旧約に僕が踏み込み辛いままになってしまった理由ということです。

本書は著者・鎌田茂雄が、原文のままだとガチガチで難しい維摩経を、適宜引用しながら「つまりこういうことです」と読み解いてくれているんですが、著者が「ここがすげぇ」「このくだりやべぇ」と、随所盛り上がりどころを著者自ら盛り上がりながら書いているので、読んでるこっちも脳細胞がグルーヴしてきます。時には「ここでの仏さんの言い方は問題ある」と、単なる礼賛ではなく、強靭な理解と思想の上で「こう読むべし、こう生きるべし」と語りかけてくるので、読むうちにこの方が維摩居士では……と錯覚してしまいます。

釈迦の教えというのは哲学なんだとか、今を生きる人々が考え方を変えることで肩の荷を下ろすことができるヒントが満載なんだとか、いわゆる「宗教/信者」という文脈から離れた読まれ方がより増えている昨今ですが、分かりやすいことは時に「知らない」状況を延命させます。「知る」ことで言葉の呪縛から解き放たれ、偏見や思い込み、誤解や恐怖から解放されることがあるので、仏教でもキリスト教でもクラシック音楽でも、今までより首を突っ込んでみると色々クリアになって、世界が変わって見えて楽しいと思います。維摩経は講話を読んでもかなり難解でなかなか歯が立たないですが、それでも読了後の景色は、少し変わったように思います。

講談社¥ 1,134

(2015年12月07日現在)

5つ星のうち4.8
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