池田亮司『superposition』 at 京都芸術劇場 春秋座(Kyoto)

この日は京都芸術劇場春秋座に池田亮司「superposition」を観に行きました。

superposition

同会場での約一年振りの公演は、ステージに生身の人間が関わる初めての試みということで、これまでの「上映会とライブパフォーマンスの境目が曖昧なプログラム」とは大きく違ったものとなっていました。

会場ロビーでは、発売直前の新譜が先行販売されていたので、早速購入。書籍やトートバッグも売っていましたが金銭的理由でスルー。

ステージ上には、最前にiMacが10台横に並べられ、その後ろにスクリーンとなる横長のパネル(高さは1メートルほどかな)があり、これは4:3のパネルを10枚繋げたような扱い。その奥に横長のテーブルがあり、左右両端に椅子。そして一番奥、壁面は4:3の巨大パネルを2枚横に連ねた仕様のものが配されていました。

照明がゆっくりと落ちると、iMacを含むスクリーンがぼんやりと“黒く”光っているのを感じ始めます。そして、地の底から立ち上がるような低周波、全てのスクリーンの映像が相互にリンクしながら展開するビジュアルに同期して発生する電子音の反復。

一番手前のiMacは16:9で他は4:3と、スクリーンの比率が違っていましたが、一番奥のスクリーンは2枚でひとつの絵として使うことが多く、中央の10連スクリーンも序盤で右から左へグラデーションが瞬間的に通過する絵が流れていたこともあってか、同じ映像が映されていても違和感はありませんでした。

やがて沈黙が訪れると、左から女性、右から男性が現れ、テーブル両端の椅子にそれぞれ着席。左右からシンセらしき持続音を出すと、最後方スクリーンにその音声波形が左右からクロスして表示され、モアレのようなビジュアルが生み出されます。これまでの池田氏のパフォーマンスにある、隅から隅まで計算され尽くされたものとはひと味違うライブ感は新鮮でしたが、しかしそれすらストイックに制御されている上でのライブ感なので、ハプニング性からはほど遠く、従来の氏の作品の印象を大きく変えるものではありませんでした。

続いて、二人は手元にあるモールス信号を出す装置を使い、その波形が上下並んで左右から流れてくる映像が最後方に映されます。ランダムに鳴らしているように聴こえつつ、二人がシンクロしているようにも聴こえ、どこまでが計算されているのかよくわかりませんでした。

カメラがモールス信号を出す手元に向かい、波形とともに最後方に映されると、他のスクリーンでは別の映像が流れ、演奏と同期していきます。

二人は演奏を止めると、カメラアングルをテーブル上に向け、そこにある何かの文字にフォーカスを合わせると、そのまま一旦退場。

再び映像のみになり、しばらくすると再び二人の登場。音叉を鳴らし、その波形をスクリーンに表示させます。この日最もライブ感があったのは、この音叉の発する純音がクリップして潰れた瞬間でしょうか。プリミティブな音の増幅レベルは制御できないということでしょうね。まあ、クリップすることも想定内でしょうが。

二人は一旦立ち上がり、テーブル奥に並ぶように正面に向かって座り直すと、テーブルに仕込まれていた照明に灯が灯ります。テーブルがライトボックスになっており、先ほど去り際に映していたものが再びスクリーンに表示。何かのデータフィルムのようで、それをスライドしたりマジックで書き込んだりする様子が映し出されます。後方、中央、前方のスクリーンでアングルが違っていたので、テーブル上にはいくつかのカメラが仕込まれていたようです。

NYタイムズの紙面と思われるマイクロフィルムなど、様々なものがスクリーンに現れる中、音楽はメロウなストリングスサウンドとなり、少し昔の氏の音楽を彷彿とさせる感じも。

二人は両端に戻り、(客席からは見えないので“おそらく”ですが)キーボードで文字を打つと、それに併せて最後方スクリーンに表示。他のスクリーンの映像は、どこかの星(地球含む)のマテリアルのようなもの。

再びテーブル奥に並ぶように正面に向かって座り、ライトボックス上に沢山の球体を転がし、それをカメラが捉えつつ、どういった技術なのか、その球体の映像にセンシングする描写が重なり、球体をいくつか感知するとそれらをマーキングして画面をキャプチャする、という演出が、電子音とリンクしながら反復されます(ちょっとこの辺り記憶が曖昧で、前後関係が間違っているかも知れません)。

二人が立ち去ると、このプログラムの最後のセクションへ。エグいほどのストロボ効果と猛スピードで切り替えられるベクターパターン、そして容赦ない高速電子ビートが嵐のように視覚・聴覚を激しく揺さぶり、軽い目眩を覚えるぐらいの衝撃が一瞬にして止むと、「superposition」は壮絶な緊張からの開放感という余韻を残し、終了しました。

最後は舞台上の二人が現れて挨拶。さらに、オペレーションしていたのであろう三人の男性も登場。最後は、池田氏本人も登場し、大きな拍手の中、お辞儀をして退場しました。池田氏の姿は初めて目にしましたが、学理ではなくクラブからキャリアをスタートさせているプロフィールも納得、といった感じの風貌でした。

舞台上の二人は“演奏”をしていたわけですが、いわゆる“楽器”を演奏してはおらず、どちらかというと“演技”という印象があったので、どうしてもダムタイプを連想せずにはいられませんでした。当然ながらそれとは全く別ものであり、しかし形態としてこのようなスタイルに向かった背景にはダムタイプでの経験があってのことだろうな、ということは、公演パンフレットにあったインタビューを読んで改めて思いました。僕が氏の音楽に触れたのもダムタイプが初めてでしたが、その時のショッキングと言ってもいい刺激とは完全に別物でありながら、肉体運動をも緻密に制御されたかのような演出には相通じるものを感じます。

ともあれ、デジタルのグリッド上で静謐と轟音、白と黒を極限まで純化させて整然と配列したパフォーマンスに、計算では割り切れないアナログな要素を取り込み、それをアナライズしてフィードバックする演出は、この日のラストで炸裂したような鋭角的な部分は若干丸められましたが、補って余りある新鮮さと刺激に溢れていました。逆に言えば、ラストセクションはこれまでの池田氏のパフォーマンスに魅了されていた人にはお待ちかね、という感じがしましたが、その分、生身から発されるパフォーマンスと比べて若干予定調和的に感じてしまったとも言えます。この辺りは、上演が重ねられるごとにバージョンアップしていくところなのかも知れませんね。さて、関西での次回公演はまた1年後……にあるのでしょうか。

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