ここ数年、毎年のように身内の不幸が続き、当事者として葬儀の席に足を運ぶことが多い昨今です。ググったら去年が本厄だったので、思い当たることがあり過ぎて一瞬「厄払い」という言葉が脳裏をよぎりました(一瞬だけですが)。
数年前、父が他界した際には、父、そして残された母の考えの元、ごくごく小さな家族葬だけで済ませ、お寺にもお坊さんにもまったくお世話になることなく、遺灰も未だ自宅に置いてある状況です。子供の頃、人が死んだら坊さんが来てお経をあげるのが避けて通れない決まり事だと思い込んでいたので、宗教一切を信じない父と母が死んだときにはどうすればいいのだろうと思い悩んでいましたが、答はお経を上げてもらうよりもはるかに簡単(しかも安価)でした。母の時も同じようにしよう、と母とも父の死後話しました。
ここ数年、仏教の本と言えば、日本に伝来し、紆余曲折を経て今の形になった仏教ではなく、そのルーツになるような原始仏教やブッダについての本しか読んでいなかった僕は、「今、自分たちの生活の中で断片的に関わりを持っている仏教って変じゃないの」というイメージを補完するための情報、つまり「ほら、ブッダの言ってたことからしたら、今の仏教は全然違うじゃないか」という理由ばかりを集めていたように思います。ブッダの言葉に得心するとともに、仏教に移入できない自分を肯定したかった、というような心理。
そこ(つまり今の日本の仏教は可笑しい、という考え)にあまり疑問を持たずに過ごしてきたのですが、去年、「もしかすると、僕は大変な誤解をしているのかも」と思うきっかけがありました。きっかけとなったのは、僕の義理の弟の死に顔でした。